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後亀山天皇 ごかめやまてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

後亀山天皇
ごかめやまてんのう

[生]正平5=観応1(1350)?
[没]応永31(1424).4.12.
第 99代の天皇 (在位 1383~92) 。南北朝時代の南朝方最後の天皇。名は煕成 (ひろなり) 。後村上天皇の皇子。母は嘉喜門院藤原勝子。弘和3=永徳3 (83) 年即位。当時南朝方の勢威は地に落ち,もはや回復の期待も失われ,朝廷では和平派が力を得,北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。

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デジタル大辞泉の解説

ごかめやま‐てんのう〔‐テンワウ〕【後亀山天皇】

[?~1424]第99代天皇。在位、1383~1392。南朝最後の天皇。後村上天皇の皇子。名は熙成(ひろなり)。足利義満(あしかがよしみつ)の呼び掛けに応じ、神器を北朝後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一を実現した。

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百科事典マイペディアの解説

後亀山天皇【ごかめやまてんのう】

在位1383年−1392年。後村上天皇の皇子。名は煕成(ひろなり)。兄長慶(ちょうけい)天皇の跡を継いだ南朝最後の天皇。足利義満が提示した講和条件に従い,1392年の南北朝合一により退位した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

後亀山天皇 ごかめやまてんのう

?-1424 南北朝時代,第99代(南朝第4代)天皇。在位1383-92。
後村上天皇の第2皇子。母は嘉喜門院。同母兄長慶天皇の譲位をうけて即位。第3代将軍足利義満の南北朝合一の提案をうけいれて,明徳3=元中9年京都にかえり神器をわたした。これにより北朝の後小松天皇一統が実現,南朝の年号は廃された。のち合一の条件が履行されず不満をしめす。応永31年4月12日死去。墓所は嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は煕成(ひろなり)。法名は金剛心。別名に大覚寺殿。
【格言など】いかがせむしぐれて渡る冬の日のみじかき心くもりやすきを(「後亀山院千首和歌」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

後亀山天皇

没年:応永31.4.12(1424.5.10)
生年:生年不詳
南北朝時代の天皇(在位1383~92)。南朝第4代天皇。後村上天皇の第2皇子。母は阿野実為の娘。諱は煕成。永徳3/弘和3(1383)年末ごろ兄長慶天皇から皇位を継承したとみられるが,長慶が丹生明神に捧げた願文に「右今度雌雄」とあり,兄弟の間で何らかの確執があったことをうかがわせる。明徳3/元中9(1392)年閏10月,足利義満より合体講和の提案が大内義弘の仲介で行われ,後亀山はこれを受諾,翌月神器を携えて嵯峨に入り,神器は禁裏(北朝)に返還され後亀山は南朝皇位を退いた。ここに両朝の講和が成った。2年後義満は後亀山と天竜寺に面会し,北朝廷臣らの反対を押し切って太上天皇の尊号を贈った。廷臣らの反対は後亀山を未即位帝とみなしたからである。以後上皇は大覚寺において隠遁生活に入るが,義満死後の応永17(1410)年11月嵯峨を出奔して6年余り吉野に隠れた。これは幕府の講和条件不履行を責めたものと思われる。義満の跡を継いだ将軍足利義持は上皇所領の回復等を約している。

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

ごかめやまてんのう【後亀山天皇】

?‐1424(応永31)
第99代に数えられる天皇。在位1383‐92年。後村上天皇の皇子。名は熙成。兄長慶天皇のあとをついだ南朝最後の天皇。足利義満の提案により,皇統の両朝迭立等を条件に後小松天皇に譲位した。その後,義満が条件を守らなかったため,1410年(応永17)吉野に出奔したが,16年帰洛し,晩年は嵯峨大覚寺で過ごした。陵所は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある(嵯峨小倉陵)。【飯倉 晴武】

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大辞林 第三版の解説

ごかめやまてんのう【後亀山天皇】

?~1424) 第九九代(南朝四代)天皇(在位1383~1392)。名は熙成。後村上天皇の皇子。1392年将軍足利義満のときに、皇位の両統迭立てつりつ、諸国の国衙領こくがりようを大覚寺統が伝領することなどを条件に、神器を北朝の後小松天皇に譲渡して、南北朝合一を実現させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

後亀山天皇
ごかめやまてんのう
(?―1424)

第99代(南朝第4代)天皇(在位1383~92)。名は煕成(ひろなり)。法名金剛心。大覚寺(だいかくじ)殿と称した。後村上(ごむらかみ)天皇の皇子。母は未詳であるが、阿野実為(あのさねため)の女(むすめ)であろう。1383年(弘和3・永徳3)のころ、兄長慶(ちょうけい)天皇の後を受けて皇位につき、南朝の行宮(あんぐう)にあったが、92年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、北朝後小松(ごこまつ)天皇との間に合一の和議が成立して帰京し、嵯峨(さが)の大覚寺に入り、神器を後小松天皇に譲った(南北朝合一)。これからのちは同寺に隠棲(いんせい)し、出家を遂げたが和議の条件が守られなかったため、1410年(応永17)同地を出奔し、吉野に数年を過ごした。その後また大覚寺に帰還し、応永(おうえい)31年4月12日没。75歳という。御陵は同寺近くにあり、嵯峨小倉(おぐら)陵と称する。[村田正志]

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世界大百科事典内の後亀山天皇の言及

【後南朝】より

…1392年(元中9∥明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇とこれを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。上皇はやがて帰洛したが,上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統の皇胤を奉じて南朝の再興をはかった。これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。…

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