精選版 日本国語大辞典 「後亀山天皇」の意味・読み・例文・類語
ごかめやま‐てんのう ‥テンワウ【後亀山天皇】
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(今谷明)
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第99代(南朝第4代)天皇(在位1383~92)。名は煕成(ひろなり)。法名金剛心。大覚寺(だいかくじ)殿と称した。後村上(ごむらかみ)天皇の皇子。母は未詳であるが、阿野実為(あのさねため)の女(むすめ)であろう。1383年(弘和3・永徳3)のころ、兄長慶(ちょうけい)天皇の後を受けて皇位につき、南朝の行宮(あんぐう)にあったが、92年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、北朝後小松(ごこまつ)天皇との間に合一の和議が成立して帰京し、嵯峨(さが)の大覚寺に入り、神器を後小松天皇に譲った(南北朝合一)。これからのちは同寺に隠棲(いんせい)し、出家を遂げたが和議の条件が守られなかったため、1410年(応永17)同地を出奔し、吉野に数年を過ごした。その後また大覚寺に帰還し、応永(おうえい)31年4月12日没。75歳という。御陵は同寺近くにあり、嵯峨小倉(おぐら)陵と称する。
[村田正志]
第99代に数えられる天皇。在位1383-92年。後村上天皇の皇子。名は熙成。兄長慶天皇のあとをついだ南朝最後の天皇。足利義満の提案により,皇統の両朝迭立等を条件に後小松天皇に譲位した。その後,義満が条件を守らなかったため,1410年(応永17)吉野に出奔したが,16年帰洛し,晩年は嵯峨大覚寺で過ごした。陵所は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある(嵯峨小倉陵)。
執筆者:飯倉 晴武
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?~1424.4.12
在位1383.10以後~92.閏10.5
後村上天皇の皇子。名は熙成(ひろなり)。母は嘉喜門院勝子といわれる。長慶天皇の皇太弟となり,南朝和平派の公家に推され,1383年(永徳3・弘和3)頃に践祚(せんそ)。92年(明徳3・元中9)足利義満からの和平の申入れに対し,譲国の儀式による神器授受,両統迭立(てつりつ),諸国国衙(こくが)領の大覚寺統管轄などを条件としてこれをうけ,同年閏10月入京,北朝の後小松天皇に神器を譲り上皇となる。しかし3条件は守られず,1410年(応永17)吉野に潜行。16年に帰京。
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…1392年(元中9∥明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇とこれを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。上皇はやがて帰洛したが,上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統の皇胤を奉じて南朝の再興をはかった。これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。…
※「後亀山天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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