神明神社(読み)しんめいじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「神明神社」の意味・読み・例文・類語

しんめい‐じんじゃ【神明神社】

[一] 福井市宝永にある神社。旧県社。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。延長二年(九二四伊勢神宮を勧請(かんじょう)したのに始まる。貞和三年(一三四七)藩祖朝倉広景が造営、以来歴代朝倉氏の尊崇をうけた。お神明さん。
[二] 福井県勝山市元町にある神社。旧県社。祭神は天照大神・豊受大神(とようけのおおかみ)。長祿二年(一四五八朝倉敏景が創建したと伝える。慶長一四年(一六〇九)現社地に遷座。

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日本歴史地名大系 「神明神社」の解説

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]宇治市神明宮西

宇治うじ郷の南西端、旧奈良街道が宇治丘陵を通過する所の路傍に鎮座。唯一神明造の社殿二棟があり、伊勢内宮・外宮を勧請している。境内は古木の多い自然林で、付近一帯の丘陵を栗隈くりくま(栗駒山)と汎称するため栗隈くりこ(栗子)神明とよばれ、宇治神明・いま神明・今伊勢などの別称もある。祭神天照あまてらす大神・豊受とようけ大神。旧村社。社伝によれば、平安遷都後まもなく勧請されたというが、文献上は「康富記」嘉吉二年(一四四二)九月二七日条に「参詣宇治神明」、翌二八日条に「自宇治上洛之処、於木幡庭田少将等、神明参詣也、可伴之由被之間、又路次取返参神明了」とみえるものが早い。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]福井市宝永四丁目

福井城跡の北方に南面して鎮座し、境内裏は土居外堀に接する。祭神は天照あまてらす皇大神。旧県社。延長二年(九二四)伊勢神宮を勧請したのに始まると伝え、同神宮領足羽あすわ御厨の開発と関係が深く、以来北庄きたのしよう(現福井市)の産土神として崇敬された。勧請の経緯を「越前地理指南」は次のように記している。

<資料は省略されています>

「朝倉系図」によれば、貞和三年(一三四七)越前朝倉氏初代広景が造営し、文安三年(一四四六)六代家景が再興したと伝え、以来歴代の朝倉氏から尊崇を受けた。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]八百津町久田見

久田見の下田くたみのしもだにあり、祭神天照大神。天文三年(一五三四)の棟札がある。もう一つの氏神が同じく下田にある白髭しらひげ神社で、祭神八幡宮大神・白髭大神・加茂両宮大神。この両社を舞台に四月四日・五日に久田見祭が行われる。天正一八年(一五九〇)稲葉右近方通が和知わちへ移り、この地方を領し、山車だんじり祭として始めたという。まず神明神社に神馬一頭・曳手四名での神馬まわしが奉納される。その後山車が引回される。山車六両(県指定重要有形民俗文化財)薄野すすきの小草こぐさ中盛なかもり入野いりの野黒のぐろうしロと松坂まつさか共有の各自治会の所有。六両とも構造はほぼ同様で、製作年代等は不明。特徴は山車の幅より車輪幅を狭くして(内輪)隘路を引けるように作られている。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]小浜市青井

熊野くまの(神明山・白椿山)の麓、丹後街道に面して鎮座する。祭神は天照あまてらす皇大神・豊受姫とようけひめ命二神。中世・近世には太神宮・青井あおい明神などともよばれ、また「女伊勢神宮」と称したという(若州管内社寺由緒記)。神明宮草創記(社蔵)は、豊受大神が丹後の与佐よさ(現京都府大江町とも)から伊勢山田やまだ(現三重県伊勢市)に向かう途次舟で当地に立寄り、翌年大倭姫が当社を創始したという草創伝承を記している。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]勝山市元町一丁目

近世は勝山かつやま城の南側、もと家中屋敷の一角にあり、こおり町から神明坂を上った所に祀られている。祭神は天照あまてらす皇大神・豊受比売とようけひめ神。旧県社。草創などは天正二年(一五七四)の一向一揆の平泉へいせん(現勝山市)攻めで焼失したためにつまびらかでないというが、長禄二年(一四五八)朝倉氏より社領一千石が寄進され、大いに栄えたと伝える。慶長一四年(一六〇九)野辺太右衛門・玉木勝左衛門らの斡旋で現在地に移転したという。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]宮川村西忍

うし山を背に南面し鬱蒼たる社叢に囲まれる。祭神天照皇大神。付近のみやまえを中心とする一帯は、北陸系の縄文土器を大量に包含する遺跡として知られる。当社の棟札によると、永正一五年(一五一八)富岡六所大明神宮殿を建て、次郎八抱としたという。弘治二年(一五五六)まきヶ洞(現大野郡清見村)栗原くりはら神社の社人が当地に移り、栗原神社から持参した諸神の奉斎を依頼し、鰐口などを寄進した。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]鯖江市水落町四丁目

水落みずおちの北方からすもりに鎮座する。祭神は天照あまてらす皇大神。旧県社。勧請は安康天皇の時代と伝える。往昔は下河端しもこうばたの東、はな山にあったが、大治四年(一一二九)越前国押領使国貞の祈願により当地に遷座、社地東西三〇〇間・南北二三〇間を寄進されたという。その後朝倉氏より田地一反歩、太閤検地の際田地三反歩、福井藩主結城秀康より高五〇石、元和年間(一六一五―二四)同藩主松平忠昌より畑一町歩を寄進され、領主代々の崇敬の社であった。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]東白川村神土

神土かんどの神明山に鎮座する。祭神は天照皇大神・豊宇気毘売神。寛永二年(一六二五)親田おやだ組久六・七蔵ほか一名の発願により五穀豊穣・子孫繁栄祈願のため社殿を建立し、天照皇大神を祀る。延宝元年(一六七三)神明の神として神示があったという長瀞ながとろの某家の井戸神を同社に遷座するとともに、苗木藩より賜った御鍬神の神輿一基をこれに合祀する。以降神明宮ならびにお鍬様は五穀豊穣の神として近郷の信仰を集め、また日和乞・雨乞にも霊験があり、近隣の信仰が続いた。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]鎌倉市台四丁目

市立山崎やまざき小学校北側、だい地区を見下ろす丘の中腹に鎮座する。祭神は天照大神・蛭子之命・須佐之男命・市杵比売命。旧村社、台下町の氏神社。本殿・拝殿のほか、三峯みつみね神社など三末社がある。例祭は九月第二日曜日。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]安城市福釜町 宮添

長田おさだ川の西に鎮座。もと神明宮といい、永正一三年(一五一六)九月初代福釜ふかま城主松平三郎次郎左京亮親盛が、伊勢国度会わたらい山田やまだ(現三重県伊勢市)より天照大神を勧請し、現在地に社殿を建立、社領一〇石六升二合を奉献したのが始まりという。

神明神社
しんめいじんじや

[現在地名]総和町水海 神明耕地

三島みしま神社の東方に鎮座。内水海うちみずうみの鎮守。祭神天御中主命。旧村社。境内に「下総国葛飾郡下川辺荘水海村内城分」と刻む石塔がある。内水海の人々は、水海城主簗田氏時代の家臣であったが、落城後は内水海に移って帰農したと伝え、神明神社はこの人々の鎮守神として祀られたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神明神社の言及

【栗隈】より

…平安時代初期には遊猟地として栗隈(前)野の名が見え,以後も付近一帯の丘陵の栗駒山が戦乱での争奪対象地としてしばしば文献に記されている。いま宇治市の神明神社は栗子天神とも呼ばれ,古代栗隈の故地であろうと思われる。【井上 満郎】。…

【神明社】より

…天照大神または伊勢内外宮の神をまつった神社。神明宮,神明神社,太神宮,伊勢宮(いせみや)などともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至った。…

※「神明神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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