黒川村(読み)くろかわむら

日本歴史地名大系 「黒川村」の解説

黒川村
くろかわむら

[現在地名]櫛引町黒川

松根まつね村の北、あか川右岸に位置し、東方は丘陵地帯を隔ててたらのきだい村。村の中央部を田沢たぞう川が西流し、大川おおかわ堰が北に貫流する。また赤川から取水して庄内平野を潤す因幡いなば堰の取水口がある。赤川沿いに藤島ふじしま(現藤島町)と松根を結ぶ道(中世の六十里越街道とされる)が縦断する。西方大杉おおすぎ集落と赤川対岸の藤掛ふじかかり村との間には渡場があり、川に張った縄に木の鉤をかけて往復していたという(黒川村史)。地名は田沢川が黒土の多いところを流れていたことに由来すると伝える。村内には二〇の集落が散在し、大きく上組・中組・下組の三つに分れる(文政頃「黒川村絵図」鶴岡市郷土資料館蔵)。そのなかにはたて古楯ふるだて孫在家まございけ小在家こざいけ中在家なかざいけ町屋まちやといった中世的な地名も多い。枝村の成沢なりさわ新田は南朝方の落人成沢治郎右衛門俊明の開村と伝え、大杉は大宿おおすぐから転じたものか(櫛引町史)。地内たきうえに住した地侍上野源左衛門は天正一八年(一五九〇)上杉氏の検地に反対して起こった庄内の土豪一揆の時に、上杉氏家臣立岩喜兵衛の命を救った恩賞として伝馬役・普請棟役などを免除された(同年一一月一〇日「普請棟役免許状」上野文書)

黒川村
くろかわむら

[現在地名]白川町黒川

飛騨川支流黒川流域の山間地、無反むそれ山・捨薙すてなぎ山・寒陽気かんようき山・二ッ森ふたつもり山・岩箱いわはこ山などの八〇〇―一二〇〇メートル級の山に囲まれる。北は久須見くすみ(現東白川村)、東は恵那郡福岡ふくおか(現福岡町)、南は同郡蛭川ひるかわ(現蛭川村)切井きりい村・赤河あこう村、西は犬地いぬじ村。明治初期までの当地方の幹線道路は苗木なえぎ城下(現中津川市)を起点に並松なみまつ(現同上)、蛭川を経てとお峠を越えて村内遠見場とおみば中新田なかしんでん鱒淵ますぶちなかたいら中切なかぎり小畑こばたしもたいら松川まつかわ下新田しもしんでんを通り、村境の「うす越」を経て犬地村に入り、米野こめの太田尾おおたおを過ぎ上田うえだ村に入り、和泉いずみ村につながっていた。その他日面下ひよもしもから佐久良田さくらだ神社を経て大野おおの峠を越して久須見村に抜ける久須見道があり、苗木から五加ごか(現東白川村)佐見さみ方面に通ずる最も重要な道路であった。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]浜田市黒川町・牛市町うしいちちよう朝日町あさひまち竹迫町たけざこちよう杉戸町すぎどちよう高佐町こうさちよう相生町あいおいちよう河内町こうちちよう琵琶町びわまち

長沢ながさわ村・浅井あさい村の南に位置し、東は後野うしろの村、西は原井はらい村。中世は当地に鎮座する大祭天石門彦おおまつりあめのいわとひこ神社(三宮神社)の神主岡本氏の所領とされ、黒河・黒賀などと記された。康永三年(一三四四)閏二月六日の平時恒譲状写(岡本家文書)に「黒河大明神々田并河内のやしき」とみえ、やないつぼ(現在の県立浜田高等学校付近)を中心とする三宮さんくう神社の神田と河内屋敷(現河内町大谷)などが岡本氏の所領の中核であったとみられる。観応三年(一三五二)には小石見こいわみ郷の一分地頭と思われる三隅重兼により三宮神領と岡本氏領の四至示が定められた(同年五月五日「石見三宮神領山境定書写」同文書)。文明一七年(一四八五)閏三月七日の八郎兵衛田地売券写(同文書)によると、黒河のうちに大郎大夫名なる名田があった。

黒川村
くろかわむら

面積:一八〇・五五平方キロ

北蒲原郡の北端に位置し、西は中条なかじよう町、東は岩船郡関川せきかわ村・山形県西置賜にしおきたま小国おぐに町、北は岩船郡荒川あらかわ町、南は新発田市に接する。飯豊いいで連峰に源を発する胎内たいない川を中心として、加治かじ川支流の坂井さかい川、荒川支流の鍬江沢くわえざわ(古くは霧出川・切手川)の三河川が流れ、流域に沿って集落が点在する。村域の九〇パーセント近くを山地が占める。

坂井川流域の大字坂井の新林しんばやし中沢なかさわ先納沢せんのうざわ、胎内川流域の熱田坂あつたざか坪穴つぼあな、鍬江沢川流域の段丘上には先縄文時代から平安時代にわたる遺跡が分布し、北方の蔵王ざおう山麓の山裾からは須恵器の窯跡群が発見されている。村名の由来については諸説あるが、古くから臭水(石油)の産地で、また奥山庄波月条絵図(中条町役場蔵)に当村域と推定される地に「久佐宇津条」とみえていることなどから、黒い水(石油)の流れる川によるともいわれる。

黒川村
くろがわむら

[現在地名]高松町黒川

大海おおみ川と支流野寺のでら川の合流点付近、大海川左岸の緩斜面に位置する。北は大海川を挟んで八野はちの村、西は夏栗なつぐり村、南は台地上の耕地を隔てて元女がんによ村。能登国羽咋はくい郡に属する。元禄一四年(一七〇一)の村名由来并唱様等書記申帳(岡部文書)には、呼称をクロガワと並べてクロガウとも記す。元来は大海川右岸の宝達ほうだつ山麓、高梨谷たかなしだんに集落があったと伝え、その遺跡も残る(高松町史)。天文三年(一五三四)三月二四日の黒川某預ケ状(干場文書)で、元女村と御内村(箕打か)名城寺みようじようじ山をめぐる相論を仲介した黒川某は当地に居住する者であった可能性が高い。

正保郷帳では高二三七石余、田方九町八反・畑方六町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二六三石、免六ツ二歩、明暦二年(一六五六)の新田高一二石、小物成として山役二一二匁・野役四匁・苦竹役四匁、鳥役六匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。寛文一一年の百姓数二五(「今浜村次郎右衛門組高免付帳」高松町史史料編)

黒川村
くろがわむら

[現在地名]福栄村大字黒川

福栄ふくえ村の北西端に位置し、北隣の大井おおい(現萩市)にかけて羽賀はが台が広がる。集落はこの台地の周辺部に散在する。東は紫福しぶき村、南は福井下ふくいしも村。当島宰判に属した。

「注進案」は大井村と併せ、大井黒川村として「大井黒川村之儀は往古より大井一郷ニ御座候処、慶安年中吉見家之浪士森田対馬黒川と申山野を見立、自力を以田畠高百四拾石余新開仕、畔頭一組取立被仰付、近辺小村惣名黒川村と御改被成、夫已来大井黒川両村被仰付候由、猶黒川村之内莚野境瀬戸椿東分境迄之間川石黒く相成居候、依之黒川と申傚し候」と記す。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]横手市黒川

西は百万刈ひやくまんがり村に接し、角間川街道が貫く。天正一四年(一五八六)五月、山北せんぼくの領主小野寺義道が山形の最上氏と対戦した際、小野寺方の重臣の中に「黒川ノ住西野修理亮道俊」(奥羽永慶軍記)の名がみえる。

天正一八年八月、豊臣秀吉の命令により破却された角館かくだて城(現仙北郡角館かくのだて町)城主戸沢光盛領の三五ヵ城の中に平鹿郡の内黒川(新庄古老覚書)とある。しかし慶長五年(一六〇〇)一〇月、六郷ろくごう(現仙北郡六郷町)城主六郷政乗が小野寺義道を攻め「於仙北黒川朝掛之合戦(中略)黒川城破る」と六郷兵庫戦功覚にあり、この戦いの後、吉田よしだ城(現平鹿ひらか郡平鹿町上吉田間内かみよしだまうち)が最上・秋田・由利・六郷諸氏に攻撃され、「西野孫三郎此由ヲ聞ト、其儘取物モ取アヘス黒川ヲ立テ五百人ニテ馳着ル」と「奥羽永慶軍記」にある。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]木曾福島町新開しんかい 黒川

福島の市街地の北のはずれ、黒川と木曾川が合流する黒川渡くろがわどを右へいくと上田うえだ村の上野うえの道、左へ黒川沿いに飛騨道・高山たかやま道を進むと黒川村がある。黒川の本谷ほんだに西洞にしぼら川が合流する渡合どあいまで約五キロの緩やかな道である。高山道は渡合で左のほうへたどり、やがて急な坂道となり開田かいだ村との境の地蔵じぞう峠へさしかかり、開田村の末川の古屋敷すえかわのこやしきへ出る。

黒川本谷・西洞ともに縄文前中期の遺跡が二〇ヵ所近く分布しており、有史時代に入ってからの遺物として地蔵峠の麓の二本木にほんぎから平安末期の青銅製八稜鏡が出土している。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]桃山町黒川

竜門りゆうもん山の南山麓に位置し、集落は柘榴ざくろ川の上流、まえ川とうしろ川の谷間にある。東は畑野はたの(現粉河町)、西は善田ぜんだ村に接する。村名の由来を「続風土記」は「山間狭隘にして暗谷川といふ義なるへし」と記す。黒川の地名は大治四年(一一二九)一〇月五日付の鳥羽院庁下文抄写(御影堂文書)に記される荒川あらかわ庄の四至に「東限檜峯并黒川」とあり、この地が高野山領荒川庄の東端にあたっていたことが知られる。また「南限高原并多須木峯」とあり、現在黒川の東南端に位置する高原たこらの地名がすでにみえている。応永二〇年(一四一三)作成と思われる安楽河庄大検注帳(勧学院文書)に「黒河村」とある。天正二〇年(一五九二)八月四日の豊臣秀吉朱印状(続宝簡集)に「百卅石 黒川村」とあり、以後近世を通じて高野山領とされた。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]柳田村黒川

町野まちの川上流山間に位置し、南東は十郎原じゆうろうばら村、南西は当目とうめ村。「くろがわ」とも発音する。集落は影田かげた日田ひなた(日向)に分れる(鳳至郡誌)。集落近くに亜炭層が露出し、川の泥が黒くなっているための村名。大般若波羅蜜多経(八幡寺蔵)の永和三年(一三七七)正月日の奥書に「上町野庄黒川薬師寺」とある。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から土方領で、高二七九俵、うち荒七九俵で、残高の五割が百姓得分。貞享元年(一六八四)から幕府領、以後元禄二年(一六八九)から同八年までの鳥居忠英領、同一一年から同一三年の水野勝長領の時代を除いて幕府領、享保七年(一七二二)から幕末まで加賀藩預地(七尾市史)。正保郷帳では高一三九石余、田方七町一反余・畑方二町一反余、免三ツ一分。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]小野市黒川町

なか村・おく村の北に位置し、加古川左岸の標高約五〇メートルの河岸段丘面に立地する。「播磨国風土記」に載る賀毛かも起勢こせ臭江黒川くさえくろかわの遺称地とされる。応神天皇の時代、村々の長が相闘ったので、天皇が勅して彼らをこの地に追集め皆殺しにしたとされ、そのとき血が黒く流れたという。室町時代には大部おおべ庄に含まれ、文安五年(一四四八)一一月九日の大部庄公文方年貢引付帳(東大寺文書)に黒河の三郎二郎の名がみえる。また宝徳二年(一四五〇)一一月二一日の大部庄公文方引付納帳や享徳二年(一四五三)九月日の大部庄公文方内検名寄帳(ともに同文書)などにも黒河の大郎三郎がみえる。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]山口市大字朝田あさだ・大字黒川の各一部

山口盆地の南端で、椹野ふしの川を挟む南北両岸の地。北は朝田、東は矢原やばら、西は上中郷かみなかごう(現吉敷郡小郡町)、南は恒富つねとみの各村に接する。山口宰判所属。

中世には国衙領黒川保の地で、のち東大寺造営料とされた。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では黒川村として高付され、同一五年の検地帳によれば、総石高一千七三八石余、うち田が一三三町余で一千五四三石余、畠が二五町余で九七石余、ほかに市屋敷二八、小物成三石余とある。「地下上申」では庄屋が朝田村庄屋の兼務であったらしく、朝田村の支村のような扱いである。しかし村高は分けて記され、それによると総高七一九石余、田が四九町余で六四一石余、畠が八町余で七四石余とある。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]川西市黒川

国崎くにさき村の東、妙見みようけん山の西麓、現川西市域の最北部に位置する。永和元年(一三七五)七月二五日の多田院諸堂造営料棟別銭郷村注文(多田神社文書)に「保野谷・横大路・黒河・頸崎」とみえ、棟別銭一貫文(四村合せてか)を負担している。当地の徳林とくりん寺境内に文和四年(一三五五)一〇月二〇日銘の石造宝篋印塔があり、直家が造立した。天正一二年(一五八四)一一月に能勢のせ田尻たじり(現大阪府能勢町)の百姓が黒川村・国崎村の山内で狼藉に及んだとして口論となり、木刀による打合いで死人・手負人が多数出たうえ、能勢郡側の百姓が民田たみだ村・阿古谷あこたに(現猪名川町)境にも押寄せたという(「多田雪霜談」仁部家文書)

黒川村
くろかわむら

[現在地名]甘木市黒川

荷原いないばる村の南東、佐田さだ川上流左岸に位置し、村域は同川支流黒川の流域山間部に展開する。上座じようざ郡に属し、東は松末ますえ(現杷木町)、南は志波しわ(現同上)、南西は須川すがわ(現朝倉町)、北は佐田さだ村。枝郷に疣目いぼめ村・西原にしばる村・黒松くろまつ(続風土記)がある。天正一七年(一五八九)上座郡の彦山座主領の検地が行われ、黒川村を含む三ヵ村の田畠一二三町二段・分米六〇七石余であった(同年一一月一〇日「上座郡彦山座主領検地目録」就御尋書記之条々)。元和九年(一六二三)から秋月藩領。小早川時代の指出前之帳では黒川村の田一八町八反余(分米二三九石余)・畠二二町七反余(分大豆一二四石余)

黒川村
くろかわむら

[現在地名]大竹市小方おがた町黒川・黒川一―三丁目

玖波くば村の南西にあり、南は小方村に接し、東は瀬戸内海に臨む。西北は山が連なり、沿岸の平地を通る山陽道沿いに集落が展開する。今川了俊の「道ゆきぶり」に「黒河」とみえ、「房顕覚書」に「然者神領分、(中略)西ハ安芸大竹カキリ、小方、久波、黒河、大野、(下略)」とあり、厳島神社領であった。天文一〇年(一五四一)以後大内氏、さらに陶氏と支配者が替わり、弘治元年(一五五五)からは毛利氏の支配となった。永禄三年(一五六〇)には毛利氏家臣の熊谷元実の給地となる。

黒川村
くろがわむら

[現在地名]上市町黒川

円念寺えんねんじ村の東、上市川支流ごう川上流東岸に位置し、同川沿いに小森こもり(現滑川市)と接する。当村で護摩堂ごまどう川・村下むらした川・片地かたじ川が郷川に合流。京都祇園社領堀江ほりえ保への大祓清祓使入部と国役賦課を停止した元久二年(一二〇五)九月一六日の太政官符(八坂神社文書)に堀江保の所在を記して「黒川郷内」とある。現富山市梅沢うめざわ町にある真興しんこう寺は寛和二年(九八六)真興が弘法大師ゆかりの護摩堂村弘法こうぼう堂を訪ねたのち、当地の花崗はなおか山に創建したという。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]牟礼村大字黒川

牟礼むれ村の中東部。東は牟礼村、南は平出ひらいで村・袖野山そでのやま村、西は新井あらい村・中宿なかじゆく村・野村上のむらかみ村、北は小玉こだま村に接する。南は三登みと山の山麓がのびてやや高く、北へと平が開ける。八蛇やじや川・黒河川が東流する。村の中央を牟礼宿と坂中さかなか道を結ぶ道が東から西南に通じ、これに沿って、また南の山麓に集落がある。

この地は、太田おおた庄の一郷として、鎌倉時代末期には既に開かれ、嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の五月会・御射山頭役等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に一〇番五月会分として「黒河・福王寺・長(沼)・下浅野郷豊後左京進入道跡」とみえる。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]世羅西町黒川

小国おぐに村の西に位置し、北部のおがみ谷にある黒川明神くろかわみようじん(五三五・二メートル)の南を南東から北西へ蛇行する津口つくち(現美波羅川)流域一帯に低地が広がり、南部は大半が山地で、津口川の支流が形成する細長い谷々からなる。明応二年(一四九三)二月七日の山名俊豊安堵状(毛利家文書)に「黒河郷」がみえ、毛利弘元が知行分をもとのとおり安堵されている。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]熱塩加納村熱塩

日中につちゆう川を挟み熱塩村の西にあり、北は日中村・野辺沢のべざわ村、南は金屋かなや村。本村の北方一〇町余、日中村地内に入交じって端村中志田なかしだがある。村の西から南を野辺沢川が南東流する。同川は当地で日中川と合流、押切おしきり川となる。古くは倉川くらかわ村と称したが、寛文年中(一六六一―七三)に黒川村と改めたという(新編会津風土記)。倉川の名は野辺沢川を古くさんくら川あるいは倉川とよんだことに由来すると伝える。

黒川村
くろがわむら

[現在地名]生野町黒川

上生野こうじくの村の北東に位置し、いち川が流れる。北部の黒川本村は大明だいみよう寺に由来しててら村とも称された。ほかに枝村があり、本村の南の大外おそと、その南の長野ながの川筋の高路こうろ・長野・うめはた、これらの南西の簾野すだれのからなる。北に青倉あおくら山、東に三国みくに岳があり、大外から東への坂道は丹波路となる。古代よりみえる地名で、「小右記」寛仁三年(一〇一九)一二月九日条に「但馬黒河園等可充内供良円」とみえ、大納言藤原実資の所領であったが、同年に山城国神足こうたり(現京都府長岡京市)・近江国上高岸下庄(現滋賀県湖東町など)などとともに子の良円に充てられている。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]麻生区黒川・南黒川みなみくろかわ

都筑つづき郡に属し、東は多摩郡平尾ひらお(現東京都稲城市)、西は同郡小野路おのじ村・乞田こつた(同町田市)、南は都筑郡栗木くりき村、北は多摩郡坂浜さかはま(現稲城市)に接する。村内を南西から北東へ流れる三沢みさわ川を用水に引き利用。七ツ谷ななつやと・すくもづか堀切ほりきり今僧坊いまそうぼうなどの小字がある。小田原衆所領役帳に小山田弥三郎「廿八貫四百十三文 黒川」とある。

元和二年(一六一六)旗本駒井領。宝永二年(一七〇五)甲州道布田ふだ宿(現東京都調布市)の助郷村となり、助郷高九三石(「甲州道中布田五宿助郷村高帳」東京都石井文書)。「風土記稿」は特産物として養蚕・黒川炭をあげ、村民が九月から三月まで炭を焼いたとある。

黒川村
くろがわむら

[現在地名]伊万里市黒川町大黒川くろがわちようおおくろがわ

骨逢こつぽう(一八七メートル)を最高とする標高一〇〇メートル台の丘陵地帯。字名に新開しんかい灰崎はいざき浜開はまびらきなどの干拓地があり、その東端に土井頭どいがしら、標高六〇メートル台の丘陵上の集落に干潟ひかた、峠にかかる所に袖落そでおとしがある。

慶長絵図に「黒川」とあり、正保絵図に「大黒川」とある。文化年中記録によれば「畝数二十八町三段八畝二十八歩」とある。

慶長一〇年(一六〇五)に竣工し、今日三四町歩という黒川新田は、もと小黒川こぐろがわ塩屋しおや(谷)・大黒川の三村にまたがっていたが、元和検地に塩屋村は現れていない。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]土山町黒川

猪鼻いのはな村の東にあり、山に囲まれた山村。田村たむら川と笹路そそろ川の合流地点に形成される。応永三一年(一四二四)九月の山中為久・氏範言上状(山中文書)に黒河とみえ、当時土豪黒川氏がいた。慶長五年(一六〇〇)九月、徳川家康は当地に禁制を下している(書上古文書)。同年幕府領となり、元和八年(一六二二)旧本領の故をもって旗本黒川領となったと伝えるが、寛永石高帳には幕府領とある。元禄郷帳では黒川領。寛永石高帳では高八〇三石余。慶安二年書上による内訳は田三五五石余・畑屋敷二一四石余・永荒川欠二三三石余。正保二年(一六四五)の甲賀郡内絵図積帳(佐治文書)によれば小物成として柿役銀七匁。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]都南村黒川

手代森てしろもり村の南に位置し、西の北上川対岸は東見前ひがしみるまえ村、高田たかた村・藤沢ふじさわ(現矢巾町)、南は乙部おとべ村・大萱生おおがゆ村。大部分が山地で、北上川に沿って遠野街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、高一〇五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三〇石余、七ヵ年平均の免三ツ一分二厘。元禄十郡郷帳による〆高は、田方二一四石余・畑方一〇一石余。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]阿蘇町黒川

内牧うちのまき町の南に位置し、阿蘇山の中心部を村域に含む。正平一一年(一三五六)一〇月八日の阿蘇庄上竹原四家分検見注文(阿蘇家文書)に「くろかわの分」として三町七反とあり、このうち二町は請料三貫文・御米二石二斗を弁済、一町一反は祭田、六反は新開田と記され、二町が阿蘇社の年中祭料に充てられる御米田で請作になっており、請作人は銭三貫文と現米二石二斗を納入していた。祭田と新開田はいずれも除田で、年貢の負担はなかった。また屋敷分に「一所くろかわ 人あり」とみえる。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]川西町黒川

黒川左岸、いぬ川右岸に位置し、北は大塚おおつか村、東は高山たかやま村、南西は高豆蒄こうずく村。天文七年(一五三八)の段銭古帳の「下長井白川より南」のうちに「十貫仁百文 黒川」とある。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、「黒川の内、きり田七百かり」があひたむくのすけに、小関八郎よりの買地「黒河の内、くら町在家」が竹田平六に、「黒河のうち、たゝ木八郎さいけ」を除いた分が安久津とうはく丸に、「黒川の内、たけ田平六のふん」を除いた分が黒川五郎三郎に安堵されている。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]余市郡余市町黒川町・大川町おおかわちよう登町のぼりちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した村。山田やまだ村の東にあり、西部を余市川が北流する。明治四年小樽にあった旧会津藩士のうち一六九戸が黒川村・山田村に移って開拓にあたり(「事業報告」第二編)、同四年に二町余、同五年三町三反余が五五戸の入植者により開かれたという(同五年「黒川村畑開墾調帳」余市農業発達史)。「開拓使日誌」によれば、同六年四月中旬から同年九月までの間に黒川村・山田村の移民一九八戸が畠一九一町八反余を開墾したことが報告されている(同七年一月一七日条)

黒川村
くろかわむら

[現在地名]富岡市黒川

南境を高田たかた川が南に湾曲して東流、東は別保べつぽ村、西は宇田うだ村、北は黒岩くろいわ村と接する。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)七月一六日条に渋谷次郎高重の所領「上野国黒河郷」がみえ、高重の勇敢に対し源頼朝は国衙使不入地・別納地としている。近世はおおむね小幡藩領。寛文郷帳の高五三二石、うち田方四六五石余。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]金浦町黒川

東は白雪しらゆき川を挟んで田抓たつかみ(現仁賀保町)、北は芹田せりた(現仁賀保町)、南は竹島たけしま潟を境にとび村に接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)仁賀保にかほ郷の一村として村名がある。畔川とも記す(出羽国風土略記)

近世の領主の変遷は金浦村と同様。元和九年(一六二三)の高は五七六石一斗二升七勺(「仁賀保総高改」渡辺文書)

宝永七年(一七一〇)の御巡見様御尋に付可申上覚(金浦年代記)によれば、戸数は五〇軒ほど、享和二年(一八〇二)の「測量日記」にも五〇軒余とある。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]秋田市金足黒川

馬踏まふみ(黒川)沿いの山間集落。南流する馬踏川の沢に水田が続き、片田かただ村の半里北にある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に黒川村四〇六石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「黒川村 卅九軒。ソリ町村五軒」と記し、文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」は、「高四百石、免五ツ七歩、田水沢川、家居五十戸、人二百六十口、馬百三十頭牛六十頭」と記す。

村内に時代不詳の阿彦館あびこたて跡がある。「黒川、安彦左衛門居、権現館ト云、村居東方ニアリ」(秋田沿革史大成)とし、「適産調」は「阿彦館、新城の小友と館の中にて境す、世に黒川館と唱ふ、阿彦佐七の居城といふ、後寺院となりし処なるへし、これより二里余にして黒川本村に至る其通路ならんか阿彦といふ沢の字あり」と記す。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]朝日村黒川

飛騨川と秋神あきがみ川の合流点付近に位置し、西は野麦街道で大広おおひろ村に通じる。鈍引どんびき川が秋神川に流れ込み、主として秋神川沿いに平地がある。金森氏時代に旅館が設けられていたが、元禄八年(一六九五)高山城とともに破却された(飛騨国中案内)。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→万石村。元禄検地反歩帳の高四六石余、田二町余・畑四町八反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割七分九厘、家数一八、うち百姓一七・門屋一。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]武生市黒川町

天王てんのう川の支流黒川の流域、四方を山に囲まれた黒川盆地にある。集落は上黒川・下黒川・鍛冶屋かじやの三ヵ所に分れる。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高九八八・九五二石、先高八五一石余・出分一三七石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、正徳二年(一七一二)頃再び幕府領となる。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]十和村里川さとかわ

浦越うらごし村の南方、四万十しまんと川に、南の地吉じよし(六三七・一メートル)から北流して合流する谷川に沿う村で、上山かみやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限尻高山、西限下谷、南限東谷、北限中串、東西十二町南北四町、戸凡三十余、其土赤黒」と記す。慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳に村名がみえ、検地面積五町三反余。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]秋田市下北手黒川しもきたてくろかわ

梨平なしひら村と並ぶ山間の小集落。集落北の緩い丘陵には黒川館跡が残る。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「くろかハ村」とみえる。また慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)豊島としま庄の内に黒川村が記される。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六六石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「黒川村(中北手) 十八軒」と記す。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]三間町黒川

三間川の支流告森こつもり川に連なる黒川流域にあり、北は音地おんじ村、南は中間なかいだ村、西は恵美須えびす坂で大内おうち村に接する。

近世初期に告森村のうちから分れた村。吉田藩領であった。太閤検地の石高は二二二石七斗、正保検地の石高は二九六石八斗九升一合である。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]下仁田町西野牧にしのまき

黒川川沿いに位置し、南は根小屋ねごや村、北は千駄木せんだぎ山を越えて恩賀おんが(現碓氷郡松井田町)、西は山を越えて矢川やがわ村、東は山越えで漆萱うるしがや村に接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村と記す中野なかの村とともにみえ、両村の高合計三七石八斗余はすべて畑方。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]刈羽村黒川

油田あぶらでん村の南。東は三島さんとう千本平せんぼんだいら(現長岡市)、南は長鳥ながとり鷹之巣たかのす(現柏崎市)、西は五十土いかづち(現柏崎市)。長鳥方面より流下して大積おおづみ(現長岡市)へ流れる信濃川支流黒川は、原油が川に浮き黒いことからこの名があるという。

黒川村
くろがわむら

[現在地名]門司区黒川西くろがわにし一―三丁目・黒川・春日町かすがまち高砂町たかさごちよう丸山まるやま四丁目・丸山町

喜多久きたく村の北西にあり、北西は門司村に接する。元和八年人畜改帳に黒川村とみえ、高一九五石余、家数一四、人数三三(うち百姓四)、牛五・馬二、牛屋・馬屋四。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]葉山村黒川

大野おおの村から西北に延びる二つの谷沿いにあり、江戸時代の郷帳類にはみえない。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳の黒川・西本谷にしおもだにの地で、両者の総検地面積は五町七反余、ヤシキ二八筆とされ、ほとんどが津野氏直轄領で名本扣地。「土佐州郡志」に初めて黒川村とみえ、享和元年(一八〇一)の「西郡廻見日記」には「黒川村七拾五石斗」とあり、幕末の村切によって大野村から独立したものであろう。

黒川村
くろかわむら

[現在地名]市原市朝生原あそうばら

麻生原あそうばら村の南西にあり、養老ようろう川が流れる。元禄郷帳に麻生原村枝郷として高四八石余。宝暦一〇年(一七六〇)の岩槻藩領知目録写に村名がみえ、幕末まで同藩領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一六。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳によれば、田二町三反余、畑四町六反余のうち上畑一町三反余・中畑二町一反余・下畑一町余、新田三町六反余・一五石余、年貢は米一五石余・永五貫三〇一文余、家別役の真木六一二束、ほかに酒役永一五〇文余など、家数一六・人数六九、天照大神・白山権現、阿弥陀堂があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報