南山村(読み)みなみやまむら

日本歴史地名大系 「南山村」の解説

南山村
みなみやまむら

[現在地名]大蔵村南山

清水町しみずまち村の南に位置し、村域は出羽三山の主峰月山の山頂近くを南西端、山山頂を南東端とし、両山を水源として北流する銅山どうざん(烏川)と支流赤松あかまつ川の上・中流域一帯に広がる。現大蔵村域の三分の二以上にあたり、山岳地帯が大半を占める。本郷とされるしお、温泉集落の肘折ひじおり濁又にごりまた(現平林)荒屋敷あらやしき(現豊牧)沼台ぬまのだい滝沢たきのさわの四集落を中心とする通称四か村しかむらとに大きく三分され、銅山川最上流域の永松ながまつは鉱山集落として深山に孤立の観を呈するが、折渡おりわたり深沢ふかさわ一本松いつぽんまつ柳淵やなぎぶち今小屋いまごや・五十日・芦谷地あしやじ中升玉なかますだま木遠田きとうだ小滝こたきさわせみさわなどの枝郷が前述三地域に点在する(新田本村鑑)。月山・葉山山系の分水嶺を境として村山郡田川郡の諸村に連なるが、遠隔のため交流は少なく、北東の赤松村、北の清水町村、西の角川つのがわ(現戸沢村)など同じ新庄藩領諸村との交流が深い。

元和八年(一六二二)の御前帳写では高二〇五石余、寛文四年(一六六四)には高三七一石余、うち改出一六五石余(新田本村鑑)。明和三年(一七六六)には高五六七石余、うち田方四三〇石余、反別八三町二反余、うち田方五一町余(吉村本村鑑)

南山村
みなみやまむら

[現在地名]泰阜村南山

現泰阜村の南部に位置し、天竜川とその支流万古まんご川沿いの村。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳によれば、田本たもと四七石余、野尾のうおう一四三石余、のう(野宇)ノ市場四一石余、茶原ちやばら二四石余、新井あらい二〇石余、小松倉こまつくら二三石余、大畑おおはた三一石余、大くな一〇石余、三佐野みさの八一石余、温田ぬくた八八石余、加科がしな五六石余、志つへい(漆平)野二三石余の一二ヵ村であったが、正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻では、一二ヵ村が一村扱いとなり、大南山おおみなみやま村として村高五八五石余が記載されている。信濃国郷帳によれば、元禄一五年(一七〇二)より村名が南山村となり村高は五六六石余、天保五年(一八三四)には六六一石余であった。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]珠洲市若山町南山わかやままちみなみやま

上山かみやま村の南方、宝立ほうりゆう山の北面に立地する。年未詳の南山答申書(尾間谷文書)に「天正十一年の春御高壱町之所何れもしやくつれニ罷成申候、其年ノ秋大屋殿御検地被成候間定而荒分ニ可相成と奉存候処ニ、ひらき高ニ御帳被遺候」とあり、天正検地が施行されたようである。西に続く白滝しらたき村・須巻すまき村と併せて山三箇やまさんがと称するが、両村はもと南山の一部で、寛永八年(一六三一)有力農民の南山氏の闕所に伴い(「闕所覚」同文書)、分離独立したものと考えられる。同九年の南山年貢納所帳(同文書)には南山の内として「白滝分」「すまき」がみえる。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]大江町字南山

加佐郡の最南部を占める。山間の狭小な谷間に開かれた村で、由良川に近い在田ありた村との境から当村のいちばん奥までは約二里の道程である。狭隘な谷に沿って谷口から金重かねしげ森野もりの室尾谷むろおだに奈良原ならわら広畑ひろはた奥山おくやまの六集落がほぼ等間隔に立地する。室尾谷からはサオリ峠を越えて丹波国天田郡報恩寺ほおじ山野口やまのくち(現福知山市)へ、また奈良原・奥山からはそう峠を越えて丹波国何鹿いかるが小畑おばた(現綾部市)に通じている。

慶長検地郷村帳に高一三三・六石「南山村」とみえる。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]田辺町大字三山木みやまき 南山東みなみやまひがし・南山西

東から南は出垣内でがいと、西は多々羅たたら、北は高木たかぎの各村と接する。高燥の地にあり、北を普賢寺ふげんじ街道(現府道東畑―井手線)が東西に通る。

近世は高木村の枝郷として、元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に二五〇石、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳には旗本浅井主水知行二五二・七石と記される。浅井氏は江戸時代を通じてこの地の領主となり、隣村出垣内村の石高と合わせ五〇〇石の知行を得ていた。浅井光政が築いたと伝える城跡が南山の光照こうしよう寺の北側にあり、光政の墓は南山の共同墓地にある。

明治九年(一八七六)高木村・出垣内村・山本やまもと村と合併、三山木村となった。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]浜玉町大字南山

玉島たましま川とその支流川(平原ひらばる川)の合流地で、小川の左岸にあたる。かつてこの付近は海岸線で、玉島神社の所は島であったとされる。南山・後坂うしろざか・玉島・名丸なまるうら高田たかた峰門みねかど千原ちはるの集落がある。元和検地帳に村名がみえる。

南山古墳は横穴石室をもつ円墳で、金環と須恵器を出土している。村内に玉島神社・功岳こうがく寺・正念しようねん寺がある。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]小田町南山

小田川の左岸、てら村の対岸の谷あいを分け入った地に集落がある。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「高百八拾石六斗三升 南山村 茅山有」と記される。

江戸時代を通じ大洲藩加藤氏の治下にあった。藩は村触布達の便宜から郡内ぐんない(元和三年以来の旧領)を郡境を無視して五区分し、この地域を小田おだ筋とよんでいた。庄屋は元和(一六一五―二四)の頃本川ほんがわ村喜助が兼ねていたが、のち売り払い知清ちせい(現喜多郡内子町)庄屋の分家七右衛門が入り、子孫相継いだ。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]龍野市揖西町南山いつさいちようみなみやま

土師はぜ村の東に位置し、揖西郡に属する。南は片島かたしま(現揖保川町)。集落は字北の町きたのちよう・中の町・南の町に細長く形成される。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に南山村とみえ、小出吉政は当村の一五二石余などを与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高五二九石余、高四三七石余。正保郷帳では田方三八九石余・畑方四七石余。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]橿原市南山町

南浦みなみうら村東南、丘陵中の村落。十市郡内最南端を示す方位地名。「大和志」に「南山属邑一」とあるのは沖之岡おきのおか(奥の岡の義か)で、同書高市郡古跡の項に「置勿をくな 奥山村 澳岡等ノ旧名」とある澳岡おくのおかは沖之岡のことであろう。「万葉集」巻一六に「今日今日と 飛鳥に到り 立てども 置勿おきなに到り かねども 都久野に到り」とみえ、置勿は飛鳥付近の古地名と推定できる。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]福井市南山町

一乗谷との境をなす丘陵の西北麓に位置する。北は小路しようじ村。慶長三年(一五九八)の検地帳(後藤家蔵)によれば、上田一三町四反余・中田三町五反余・下田一町二反余・桑畠一町余・麻畑六反七畝余・上畑一町七反余・中畑四反余・下畑四反余・下田永荒四反八畝余・下畑永荒二町余・屋敷方一町余。

南山村
みなみやまむら

[現在地名]西吉野村大字南山

丹生にう川南岸の村で、越作こしつくり村と相対する。古田ふるた郷のうち。慶長郷帳では村高四三・六七六石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報