日本歴史地名大系 「頼惟清旧宅」の解説
頼惟清旧宅
らいただすがきゆうたく
江戸時代の面影の残る旧市街地の本通り北部にあり、頼山陽の祖父惟清の住居。県指定史跡。惟清は宝永四年(一七〇七)頼兼屋弥右衛門善裕の長男として生れ又十郎と称した。紺屋を営み、馬杉亨安に師事し天明三年(一七八三)七七歳で没した。「吾妻紀行」「高角紀行」「芳野紀行」などの遺稿があり、妻仲子も書をよくし、歌人でもあった。その子春水は広島藩儒となり、幕府の昌平坂学問所で講義し、世子伴読となった。春水の子が頼山陽である。第二子春風は医師となり、学者として竹原の家を継ぎ、第三子杏坪も広島藩儒となり、後に
旧宅は間口四間・奥行七・五間の重層屋根・入母屋造・妻入塗壁の母屋と、単層屋根・切妻造の離座敷からなる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報