下市村
しもいちむら
[現在地名]下市町大字下市
吉野川南岸、支流秋野川との合流地一帯を占める。地名としての下市は、上市(現吉野町)に対する称であるが、下市の名があらわれるまでは「秋川」といった。
「日本霊異記」中巻第二六に「秋河」がみえ、明応六年(一四九七)の願行寺方便法身像裏書に「和州吉野郡 郷五領秋川 下市」、永禄一〇年(一五六七)の同寺梵鐘銘に「吉野郡御領郷 秋野河里下市村」、また建武元年(一三三四)の坊領証文紛失状(吉水神社文書)には「阿芸河水田四段」とある。古代、下市の地は吉野川(紀ノ川)と丹生川の間にあり、両遡行文化の影響を受けたアキ、アキノの地域に含まれている。
中近世には一向宗本願寺が当地方に進出、蓮如が明応四年(一四九五)飯貝(現吉野町)に本善寺を建て、明応年間に下市願行寺を建立、吉野両御坊の教勢は躍進し、各郷村に浸透活動を展開した。戦国期、天文・天正の両乱で両寺や滝上寺は焼討を受けたが、豊臣秀吉の時代には復興、顕如が吉野花見、十津川湯治の途次、当地に宿泊している。以来、下市は願行寺の保護を受け市場町として発展し、「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」と歌われるほどの繁栄を示した。
御料郷のうち。慶長郷帳では村高六六三・〇二一石、幕府領(代官大久保長安)。延宝検地で村高は一〇一九・五五一石と加増した。
天明八年(一七八八)の下市村明細帳写(天理図書館蔵)によると、毛付反別は田高反別八町三反二四歩、田畑成高反別三町八畝二七歩、畑高反別三五町六反七畝八歩、茶畑高反別一一町四反五歩、楮畑高反別一町六反四畝二九歩、漆畑高反別二反一歩、屋鋪高(欠)、田畑屋鋪反別六六町八反六畝一八歩となっている。
下市村
しもいちむら
[現在地名]竹原市竹原町
豊田郡高崎村の西、賀茂川および本川の河口に位置し、北から西にかけては下野村に接する。賀茂郡に属した。古代から中世にかけては京都下鴨神社領竹原庄に含まれ、鎌倉時代以降は、都宇竹原庄の地頭として新庄の木村城に拠った竹原小早川氏の支配下にあった。室町時代以降小早川氏は木村城の南、賀茂川下流に市を経営し、その付近を外港としたらしいが、賀茂川の土砂堆積で港の機能を失い、より下流の下市の地に新しい市場集落が成立した。
「柏木累系」によれば天文九年(一五四〇)下市村は下野村から分村したという。近世には下市村の市街地を竹原町とも称したが、「国郡志下調書出帳」は「竹原と申ハ此辺之惣名ニ而御座候、当所者竹原之川下ニ而市町を成シ候ニ附、下市又竹原町と申候(中略)当所之別名往古よし野浦」とある。同書出帳は付近の様子を、南は海に面し、本川堀によって潮時には市中へ通船の往来が自由にできる。東北は山が連なり、町は山手より本川を中にして両側に家が続き、南は沖口まで一面の塩浜で、西は多井新開。西北も山で麓を賀茂川が流れ、多井新開・吉崎新開の間を通り、横島山の間より海へ出る。
下市村
しもいちむら
[現在地名]中山町下市
上市村の西、下市川の下流右岸に位置し、伯耆街道が通り、宿駅として栄えた。古くは上市村も含め逢坂宿と称された(元禄郷帳など)。村名は市が立った集落の下にあたることに由来するという。元弘三年(一三三三)隠岐島を脱出した後醍醐天皇の上陸地を、地内の御船頭山とする俗説がある。御船頭山は逢坂八幡神社の鳥居の前の小高い丘で、地名は後醍醐天皇を送ってきた船頭が葬られたことに由来するという。汗入郡に属し、拝領高二四二石余。延享三年(一七四六)の古地高二六二石余、新開高三一石余、土免五ツ六歩、諸免五ツ。藪役銀一匁二分が課されていた。家数三五、男一〇二・女一〇五、牛二六・馬四(「汗入郡御通筋村々厘付帳」門脇家文書)。天保三年(一八三二)の山林反別三町余(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三〇一石余、竈数五九。
寛永一四年(一六三七)の駄賃銀宿賃書付(在方御定)によれば御来屋宿(現名和町)まで一里一六町、賃銀七分、赤崎宿(現赤碕町)まで二里、賃銀一匁、宿賃は主人(馬とも)一二文、下人六文とある。元禄一五年(一七〇二)下市村一村での馬継は負担が大きいため、上市村・岡村を加え三村で馬継を行うこととなった。正徳五年(一七一五)に制札場が新設されている。
下市村
しもいちむら
[現在地名]安心院町下毛
折敷田村の北、安心院盆地の北部にあり、村の北西端を深見川が流れる。東は木裳村、北は南毛村。西方の九人ヶ峠を経て円座村(現院内町)に通じ、安心院盆地の西の出入口にあたる。字不動山・ヒカケには横穴が六八基あり、下市横穴群と称される。三柱には円墳が五基あって、祝部土器が大量に出土した。虎ヶ岳の東端にある下市磨崖仏(県指定文化財)は室町時代のものとされ、不動明王・観音菩薩など計一〇体の仏は独得の薄肉の手法で彫られている。地名は古く市が立てられていたことによるとされ、当地の市は地内の三女神社の祭礼市であったという。安心院地方の市立ては当地のほか宇佐宮行幸会の時に古市で、妻垣社祭礼の時に上市で行われたという。
下市村
しもいちむら
[現在地名]赤碕町八幡
赤崎村の西、勝田川下流右岸に位置し、北は日本海に面する。拝領高は一三八石余、本免は四ツ一分。竹運上銀一五匁を課されており(藩史)、乾氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一四八石、竈数二八。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一〇石余、竈数三六。享保六年、当村・向原村・湯坂村・篦津村・光村・尾張村と羽田井村(現中山町)など中山谷一二ヵ村との間で船上山中の「中ノ袋」「はつたい山」の草刈場をめぐって相論が起きている。
下市村
しもいちむら
[現在地名]福井市下市町
福井城下の西方、日野川が足羽川を合流する辺りの左岸にあり、対岸は角折村。北側には丹生山地が迫る。交通の要衝にあたり、市が開かれたことが考えられ、西隣の金屋村の地が上市であったとされ、これに対する下市か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高四九三・四三五石。
下市村
しもいちむら
[現在地名]山陽町下市・山陽団地一―七丁目
砂川を挟んで平地の中央部に位置する。金川村(現御津郡御津町)から西大寺(現岡山市)に通じる道筋にあたり、東は沼田村。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の鳥取庄に下市村とある。寛永備前国絵図では高五四三石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高六〇八石余。貞享元年には荒などを引いた残高五二二石余。享保六年(一七二一)には田畠二八町四反余、家数四一・人数二二七(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高八八八石余、蔵入地と家臣八名の給地。残高四九六石余、田高四四四石余・二四町一反、畑高五二石余・三町四反余。
下市村
しもいちむら
[現在地名]白水村一関
白川上流右岸にあり、東は吉田村、西は上中村、北は下積村に接する。近世には高森手永に属し、「南郷事蹟考」に高五八四石余とあり、上中村の分地で、阿蘇山繁盛の頃は豆腐町とよばれていたとあり、畠ケ中・牟田などの小村が記される。明治九年(一八七六)下積村と合併して一関村となる。
下市村
しもいちむら
[現在地名]挟間町下市
上市村の東にあり、東は中尾村(現大分市)。天正七年(一五七九)八月吉日の阿南庄狭間南方四百貫分覚(甲斐守文書)に「下市村」とみえる。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷下市組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高一九二石余・畑高一二七石余、挟間庄に所属。
下市村
しもいちむら
[現在地名]矢部町下市
浜町・浜村の南にある。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」は小村として石原を記す。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高一七四石四斗余、田畝七町一反三畝六歩・畑畝五町八反八畝余、竈数一四・男三四・女三七、牛一五・馬九。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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