飫肥城跡(読み)おびじようあと

日本歴史地名大系 「飫肥城跡」の解説

飫肥城跡
おびじようあと

[現在地名]日南市楠原・板敷・飫肥一〇丁目

大きく蛇行する酒谷さかたに川の左岸、小盆地状の平地に突き出た小丘上に築かれた平山城。南北朝期の築城と伝えるが、確かな築城年代や築城者は不詳。室町時代には島津氏による日向国南部経営の拠点の一として重きをなし、島津氏一族と伊東氏との抗争では両者による争奪が繰返され、とくに島津豊州家と伊東氏の合戦が多かった。永禄一一年(一五六八)伊東氏と豊州家の和議が成立すると当城は伊東氏の持城となり、永禄年間には上別府常陸守が城主としてみえ、その後福永宮内少輔も城主として確認される。天正四年(一五七六)の高原合戦以後は再び島津氏が領有し、同八年には飫肥地頭として上原尚近の名がみえる。同一五年豊臣秀吉が九州を平定すると当城は伊東祐兵に与えられた。しかし島津氏の部将上原尚近の抵抗によって城の引渡しは延引し、祐兵が入城したのは翌一六年のことであった。その後は飫肥藩主伊東氏累代の居城となり、幕末に至った。江戸時代の当城の縄張りはシラス台地を空堀で区切った多くの曲輪が縦横に連なる壮大なもので、各曲輪の独立性は高く、中世にはこれらの曲輪が屋敷を含む生活の場としても機能していたと考えられる。また西の酒谷城(酒谷甲)ささヶ城(吉野方)、東のおにヶ城(東弁分甲)、南東の新山にいやま(星倉)などは中世において当城の出城の役割を果していた。

近世の本丸は酒谷川を西に望む標高五一メートルの地にあり、本丸の東に中の丸、その東にいま(いずれも現在は飫肥小学校の敷地)、本丸の南に松尾まつおの丸が続いた。さらにこれらの北側の小丘群は西の丸・まつの丸・城・なかの城・北の城・御倉などに区画され、合せて主郭部を構成した。中の丸の南、松尾の丸の東にあたるいぬ馬場、北の城・御倉などの北の宮藪みややぶ(現在の飫肥中学校)、主郭部の北東、鬼門にあたる八幡はちまん(現在の田ノ上八幡神社)などが二の曲輪で、城の南の大手門から東の二重木戸(搦手門、現在の飫肥小学校正門付近)を経て八幡城までうがった空堀の南側、大手おおて十文字じゆうもんじ(武家屋敷)の一部が三の曲輪にあたった。主要な城門として大手門・二重木戸のほかに中の丸と今城の境に後宮入口門を配し、大手の南の大手口、山川やまかわへ通じる常真じようしん馬場口、八幡城側の八幡馬場口、八幡城・宮藪の北のやつの口、城の西の永吉ながよし口の五口には瓦屋門が設けられていた。なお現在城跡の南半部が旧城下と合せて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報