飫肥城下(読み)おびじようか

日本歴史地名大系 「飫肥城下」の解説

飫肥城下
おびじようか

[現在地名]日南市飫肥一―一〇丁目・今町いままち一―二丁目

近世飫肥藩伊東氏の城下町。蛇行する酒谷さかたに川を天然の外堀とし、その左岸(内側)、飫肥城の南麓から東麓にかけて形成された。大手門を境として城郭の南に続く大手おおて、城郭の東に接する十文字じゆうもんじは上・中級家臣の住む武家屋敷地で、大手の南には町人町ほん町が割られた。本町のさらに南、酒谷川沿いには武家地前鶴まえづるがあり、十文字の東には町人町の今町が続いていた。この碁盤の目のような町割は初代藩主伊東祐兵の時代から二代藩主祐慶の頃に形成されたと推測される。しかし瀬戸口伊豆入道覚書(旧記雑録)によると、天文一三年(一五四四)二月二四日と同二二年閏正月一三日の二度、いずれも飫肥に攻め入った伊東勢によって、「おびの町」が破られており、すでに戦国期、島津氏支配の時代から、飫肥城の城下には町場が形成されていたことがうかがわれる。「日向記」によれば慶長四年(一五九九)前鶴の屋敷割を行い種子筒町を立てたという。

承応元年(一六五二)から万治二年(一六五九)のものと推定される城下絵図(日南市蔵)によると、城の北に慶徳院(天徳院)長持ちようじ寺・八幡社、城下の北東には安国寺・大龍寺・談義だんぎ(願成就寺)広木田ひろきだ大明神などの寺社を配して防御の一助としている。また同絵図では十文字に軍代所(郡代所とも書き、総役所ともいった)・代官所、前鶴の南東部に籠所(牢屋)が置かれており、今町は唐人町とみえる。その後、郡代所は大手門の南に移るなどしたが、町割の骨格に大きな変動はなく、天保一二年(一八四一)頃の城下絵図でも前掲承応・万治絵図と同様の構造となっている。今町を東西に走る春日馬場かすがばば道は城下を出て東進し、板敷いたじきとびみね地区で、さらに東に進む鵜戸うど街道と北に折れる飫肥街道に分れた。本町を東西に走る本町通を西へ向かい、酒谷川を渡って楠原くすばる村へ入る道は福島ふくしま(現串間市)を経て大隅国に至る志布志しぶし街道で,今町の中央、春日馬場の西端から南下して酒谷川を渡る道は当城下の外港の役割を果した油津あぶらつ湊に至る道(油津往還ともよぶ)であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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