飽田郡
あきたぐん
肥後国西部に位置し、古来肥後の中心で、西は有明海、北は西から玉名・山本・合志の各郡と接し、東は白川を境に託麻郡、南は白川・緑川(中世までは白川は河尻大渡で緑川に合流していた)を隔てて宇土郡に接する。現熊本市の白川右岸一帯(ただし山崎町付近は茶臼山の麓近くまで託麻郡が入込んでいた)、および現飽託郡の北部・河内・天明・飽田の各町がほぼ郡域にあたる。「和名抄」東急本国郡部は「阿岐多」と訓を付す。宮前・加幡・小垣・私部・栗北・天田・川内・水門・殖木・下田・市田・蚕
の一二郷が含まれた。肥後唯一の上郡である。これは安閑天皇二年春日部屯倉(現熊本市春日町・春日一―五丁目が遺称地)が設けられ(「日本書紀」同年五月九日条)、和銅年間(七〇八―七一五)国司道君首名により味生池(現同市池上町)が築かれるなど(「続日本紀」養老二年四月一一日条)、肥後国の中心として開発が早期に進んでいたことによると思われる。郡名および郡司の初見は平城宮出土木簡で「肥後国飽田郡調綿壱伯屯 天平三年主政大初位下勲十二等建部君馬□」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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