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肥後国 ひごのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

肥後国
ひごのくに

現在の熊本県の旧国名。西海道の一国。上国。古くは「火国(ひのくに)」と称した。天武天皇の頃(673~686)に肥前,肥後に分割されたという。『旧事本紀』には,火,阿蘇,葦分(あしきた),天草の 4国造を載せている。

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デジタル大辞泉の解説

ひご‐の‐くに【肥後国】

肥後

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百科事典マイペディアの解説

肥後国【ひごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の熊本県。もと火(肥)の国。熊襲(くまそ)の伝承がある。7世紀後半,肥前・肥後2国に分け,《延喜式》に大国,14郡。中世に菊池・阿蘇氏らが活躍。
→関連項目鹿子木荘菊水[町]九州地方熊本[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

ひごのくに【肥後国】

現在の熊本県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の熊本市におかれていた。平安時代後期には菊池氏が勢力をふるったが、鎌倉時代には東国の御家人(ごけにん)が多く入部。室町時代から戦国時代には菊池氏が再び勢力を拡大した。近世には加藤清正(かとうきよまさ)熊本城を築くが、まもなく細川氏の支配となった。江戸時代熊本藩領、人吉(ひとよし)藩領、唐津藩主支配の天草郡(のち幕府直轄領)に分かれていた。1871年(明治4)の廃藩置県により熊本県、八代(やつしろ)県が誕生。翌年に熊本県は白川(しらかわ)県と改称し、1873年(明治6)に八代県を併合、1876年(明治9)に熊本県に復した。◇肥前(ひぜん)国(長崎県・佐賀県)と合わせて肥州(ひしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ひごのくに【肥後国】

旧国名。肥州。現在のほぼ熊本県に当たる。
【古代】
 西海道に属する大国(《延喜式》)。古くは火の国の一部。《日本書紀》持統10年(696)条に,〈肥後国〉とあるので,このころまでには火の国は,火(肥)の前(さき)の国と火(肥)の後(しり)の国に分国したと思われる。大化前代,肥後国の地方には,玉名郡の菊池川流域に日置氏,阿蘇地方に阿蘇君,宇土半島の基部より氷川流域を中心に火(肥)君,八代市南部の葦北君,熊本市の白川下流域に建部君などの豪族が蟠踞(ばんきよ)していたが,その最大の豪族は火君であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

肥後国
ひごのくに

現在の熊本県一円地域をさす旧国名。古代は九州の四つの国の一つ、火(肥)の国の中心地。火の国の名称の起源については、不知火(しらぬい)海の火光や阿蘇(あそ)山の噴火とする説があるが、今日では八代(やつしろ)郡野津古墳群(氷川(ひかわ)町)の存在をも併考し、同郡肥伊郷氷川(氷川町宮原)の地名によるとする説が有力。5、6世紀には筑前(ちくぜん)国にも及ぶ勢力を有したが、磐井(いわい)の反乱(527)を契機に大和(やまと)朝廷に服属したと推定され、最近は江田船山古墳(玉名郡和水(なごみ)町)出土の鉄剣銘について論議されているし、また文献的に安閑(あんかん)天皇2年(535)に春日部(かすかべ)(熊本市西区春日)屯倉(みやけ)の設置、および国造(くにのみやつこ)に火・阿蘇・葦分(あしわき)(葦北(あしきた))・天草が設置されたことで推定している。7世紀中ごろに筑紫(つくし)大宰府(だざいふ)に統轄され、外敵防備のため鞠智(くくち)城(山鹿(やまが)市菊鹿(きくか)町)が築城された。その後律令(りつりょう)制の確立にしたがって、遅くとも持統(じとう)天皇9年(695)までに肥前と肥後が分化し、肥後国が成立した。
 律令期の肥後国は九州唯一の大国で、9世紀には14郡98郷、田数2万3500町、正税30万束、絹2593疋(ひき)は九州最高の量である。国府は当初は益城(ましき)(熊本市南区城南町地区か)に設置されたとする説があるが、律令最盛期(天平(てんぴょう)期)から9世紀中ごろまでは託麻(たくま)国府(熊本市中央区国府)に設置され、周辺地に国分寺・国分尼寺が建立され奈良文化が浸透していった。また大宰府への西海道西路も整備され10駅家と支街道6駅家も設置され、地方にも郡衙(ぐんが)・郡寺が建立された。国司で最初にみられるのは道君首名(みちぎみおびとな)で民政・殖産政策に尽くしたことが伝えられている。その後律令制の弛緩(しかん)に伴い平安中期ごろに国府は飽田(あきた)二本木(熊本市西区)に移設され、その一方では10世紀末から郡郷制の再編成と荘園(しょうえん)の成立が進捗(しんちょく)した。とくに菊池川沿岸に太宰府天満宮安楽寺領(玉名庄(しょう)、赤星庄、合志(かわし)庄など)が成立するとともに、広域の郡郷名をもつ王家領(鹿子木(かのこぎ)庄・託麻庄・阿蘇庄)が特徴的に成立した。一方では、肥後の武士団、とくにその中心は大宰府官人藤原蔵規(まさのり)に始祖をもつといわれる菊池氏と、国造・郡司(ぐんじ)・神主に系譜をもつ阿蘇氏が一族を拡延し、社領を拡大して武士団の中核となり、ついに反平氏政権勢力にまで成長していった。
 平氏政権を討滅して成立した鎌倉幕府は、肥後の武士団統轄のため東国御家人(ごけにん)(相良(さがら)・大友・託磨(たくま)・小代(しょうだい)氏ら)を派遣し、肥後御家人との間で惣地頭(そうじとう)―小地頭の特殊関係を成立させるとともに、荘園公領の再編成(球磨庄・阿蘇社領)と図田帳(ずでんちょう)の作成で在地把握を図らねばならなかった。蒙古(もうこ)襲来では菊池武房(たけふさ)や竹崎季長(すえなが)らが活躍したが(蒙古襲来絵詞(えことば))、役後は北条氏が肥後に急進出し、そのため菊池、阿蘇氏の反発を買い、南北朝内乱の南朝軍の主基盤となっていった。とくに建武(けんむ)政権で肥後守(かみ)に補任(ぶにん)された菊池氏は一貫して南朝軍の中心として活躍することとなったが、なかでも菊池武光(たけみつ)は懐良(かねよし)親王を迎え、一時的に大宰府に征西府を開設するほどに活動し、その間、肥後の北朝武士団(小代・託磨氏ら)とも交戦(託麻ヶ原戦)したが、また阿蘇家にみられるように惣庶家に二分されて勢力を弱化させていった。内乱は1392年(元中9・明徳3)に九州探題今川了俊(りょうしゅん)の和議にて終止符を打ったが、その結果、有力武士家(託磨・河尻・相良氏ら)の勢力が弱化し、国人(こくじん)層(小代・隈部(くまべ)・城(じょう)氏ら)が台頭する原因となった。内乱後の肥後守護職(しゅごしき)は菊池氏(武朝(たけとも)・兼朝・持朝・為邦(ためくに)・重朝(しげとも))に継承されたが、菊池能運(よしゆき)期から肥後は戦国争乱期に入り、ついに能運(1504死亡)を最後に菊池正宗系守護職は断絶し、菊池一族、阿蘇・託磨氏から養子をとり継嗣(けいし)としたが長続きせず、ついに大友義鑑(よしあき)の弟重治(義治、のち義武と改名)を迎えて守護につけたが、彼も反大友的行動をとったとして、1551年(天文20)に大友義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))から攻撃を受けて逃亡し、以後、肥後の中北部は大友氏の治下となった。一方、球磨郡を統一した永留系相良長続(ながつぐ)は八代地域に進出し、ついで為続(ためつぐ)が1484年(文明16)に八代古麓(ふるふもと)城を手中にして球磨、芦北、八代の3郡の支配を成就(じょうじゅ)し、法度(はっと)(7か条)を制定して戦国大名に成長、継嗣は長毎(ながつね)、義滋(よししげ)、晴広、義陽(よしひ)と続き、城下町経営や外国貿易を展開して大名領国を形成した。しかし天正(てんしょう)期(1573~1592)に、北から肥前龍造寺(りゅうぞうじ)氏、南から薩摩(さつま)島津氏が進入して大友・相良氏支配体制は崩れ、さらに島津氏が龍造寺氏を討ったことから1586年(天正14)には肥後は島津義久の統治下となった。
 しかし翌年の豊臣(とよとみ)秀吉の九州統一戦のもとで島津氏は降(くだ)り、同年5月には初代近世大名として佐々成政(さっさなりまさ)が肥後一国(球磨郡を除く)領主に任命され、隈本(くまもと)城を拠城としたが、成政は就任早々に領内検地(太閤(たいこう)検地)の施行を企図したことから隈部氏ら肥後国人衆の一揆(いっき)を引き起こして失脚し、翌1588年5月に加藤清正(きよまさ)と小西行長(ゆきなが)が半国領主(清正は白川以北9郡19万5000石、行長は白川以南4郡14万石推定)として任命された。その間、52人の国衆が淘汰(とうた)され、また検地が施行されて肥後54万石が確定されたようである。清正と行長は入国直後から城下町(熊本市・宇土市)の形成と新城(熊本城・宇土城)の築城に着手するとともに、領内把握をもって二度の朝鮮の役に先軍(1万人と7000人)として出兵した。しかし関ヶ原で東軍と西軍となり、役後は加藤清正の肥後(豊後鶴崎(ぶんごつるさき)を含む)一円所領(54万石)となった。ただし球磨郡は相良氏(2万2000石)、天草郡は寺沢広高氏領となった。
 その後、清正の子忠広のとき、失政を理由に1632年(寛永9)に改易され、かわって細川忠利が入国し、以後、細川氏熊本藩として継続した。その間宇土支藩が生まれ、また細川重賢(しげかた)により宝暦(ほうれき)期(1751~1764)に藩政改革が行われたが、幕末期は佐幕派が中心であったため、1870年(明治3)の藩政改革で明治維新を迎え、翌年熊本県(一時白川県と称す)となった。実生産高は96~97万石。天草郡は島原の乱(1637)後は天領(富岡城代官)となり、以後、人口増加と百姓一揆を頻発させながら明治維新を迎え、富岡県、天草県、八代県と変遷し、1872年白川県となる。相良藩は人吉城を拠城とするが、後進的構造を残しつつ御手判(おてはん)事件、茸山(なばやま)騒動、幕末の丑歳(うしのとし)騒動をもって明治維新を迎え、1870年に藩政改革を行い、翌年人吉県(八代県と改称)となる。1873年八代県は白川県に統合され、1876年ふたたび熊本県と称す。[森山恒雄]
『『熊本県史 総説篇』(1967・熊本県) ▽『日本歴史地名大系44 熊本県の地名』(1985・平凡社)』

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世界大百科事典内の肥後国の言及

【熊本[県]】より

…北は福岡県,東は大分・宮崎両県,南は鹿児島県に接し,西は有明海(島原湾)をはさんで長崎県に相対している。
[沿革]
 熊本県は旧肥後国全域にあたり,幕末には熊本藩人吉藩および天領の天草,五家荘に分かれていた。天草,五家荘は1868年(明治1)閏4月富岡県,6月天草県となり,8月長崎府(のち長崎県)に編入された。…

【肥の国(火の国)】より

…古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。…

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