肥後国(読み)ヒゴノクニ

デジタル大辞泉 「肥後国」の意味・読み・例文・類語

ひご‐の‐くに【肥後国】

肥後

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日本歴史地名大系 「肥後国」の解説

肥後国
ひごのくに

古代

〔国の成立〕

六世紀から七世紀にかけて、九州は大まかに筑紫・火・豊それに化外の国ともいうべき曾の四つの国に分れ、のちの肥後国は大部分が火の国に属していた。火(肥)の国の起源については、「肥後国風土記」逸文と「肥前風土記」に載せる説と、「日本書紀」景行紀に伝える説がある。前者は、崇神天皇の世に益城ましき郡の朝来名峰あさくなのみねで土蛛蜘の打猴・頸猴が一八〇余人の徒を率いて背いたので、天皇は健緒組に命じてこれを討たせた。健緒組はこれを討ち平げて八代郡の白髪しらかみ山にいたった時、日暮れて大空に火が燃えるのが見え、驚いて奏上したところ、天皇は健緒組の功をほめ、火の下る国であるからこの国を火の国といい、健緒組に火の君の姓を賜ったという。一方、景行紀には天皇が葦北あしきたから船を発し、日暮れて彼方に火光を見つけて着岸し、火光の所を問えば、八代県豊村とよのむらであった。その火光の主を問い、人火に非ざることを知り、その国を火の国と号することにしたという。いずれも現八代郡宮原みやはら町の付近に火の国の中心がもとめられ、火の君の本拠もこの地であったと考えられている。「国造本紀」には、火・阿蘇・葦分・天草の国造がみえるが、いずれもその名の地域の有力豪族であった。肥後北部と中央部をその名に負う勢力がみえないのは、彼らが磐井の乱にくみして没落したためと推測されている。六世紀大和朝廷は屯倉と部民を設置することで彼らの間に楔を打込んでいった。安閑天皇二年に春日部かすがべ屯倉が設けられた(「日本書紀」巻一八)。これは安閑天皇の皇妃春日山田皇女の名代の屯倉で、現熊本市春日町(旧飽田郡)、あるいは「和名抄」飽田あきた郡の私部きさいべ郷ないし託麻たくま郡の三宅みやけ郷がその遺称であろうとされる。おそらく磐井の乱で没落した勢力のあとに設けられたものであろう。部民は葦北には「日本書紀」巻二〇に「火葦北国造刑部靫部阿利斯登」がみえ刑部・靫部があるほか、日奉部・池田部・白髪部・大伴部が、益城には山部・大伴部、飽田には私部・建部、合志こうしには壬生(乳・入)部・日下部などがあったことが知られている。火の君・阿蘇の君の本拠の八代や阿蘇に部がみられないことは、部の設定が有力な火の君・阿蘇の君の勢力圏をさけて行われたことを推測させる。

七世紀半ば筑紫・火(肥)・豊は筑紫の国に統合され、筑紫大宰の統括下におかれたが、七世紀末にいたり律令体制の確立過程で筑前・筑後・肥前・肥後などの国として分化した。筑紫大宰の所見の下限は持統天皇八年(六九四)であり、大宝二年(七〇二)の筑前国戸籍の存在などから肥後国などの成立は持統天皇九年と推定され、「日本書紀」持統天皇一〇年四月条には「肥後国の皮石郡のひと壬生諸石」の記事がみえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「肥後国」の意味・わかりやすい解説

肥後国 (ひごのくに)

旧国名。肥州。現在のほぼ熊本県に当たる。

西海道に属する大国(《延喜式》)。古くは火の国の一部。《日本書紀》持統10年(696)条に,〈肥後国〉とあるので,このころまでには火の国は,火(肥)の前(さき)の国と火(肥)の後(しり)の国に分国したと思われる。大化前代,肥後国の地方には,玉名郡の菊池川流域に日置氏,阿蘇地方に阿蘇君,宇土半島の基部より氷川流域を中心に火(肥)君,八代市南西部の葦北君,熊本市の白川下流域に建部君などの豪族が蟠踞(ばんきよ)していたが,その最大の豪族は火君であった。また有明海や不知火海に臨む地域には装飾古墳が分布し,独自の文化圏の一部をなしていた。この火君一族は薩摩の北部に入って隼人支配に当たり,また筑前国志麻郡や肥前地方などにも分族して勢力を伸ばし,さらに水軍を駆使して海外にも進出している。律令時代になると肥後国は大宰府の傘下に入るが,玉名,山鹿,菊池,阿蘇,合志,山本,飽田(あきた),託麻(たくま),益城(ましき),宇土,八代,天草,葦北,球磨(くま)の14郡を擁する上国となった。795年(延暦14)には九州で唯一の大国となり,農業生産の豊かさを誇った。《延喜式》には府官内の他国が正税公廨各20万束程度であることに比して,正税公廨各40万束とあり,また国分寺料4万7000余束,府官公廨35万束,救急料12万束,俘囚料17万余束などをはじめ計118万束弱があり,さらに肥後から年に穀2000石を対馬に送り,島司や防人(さきもり)の粮米にしている。このような農業生産や殖産振興に努めた話として,肥後国守として史料初見の道首名(みちのおびとな)の善政の記事が《続日本紀》に見られる。首名は和銅年間(708-715)に筑後守と肥後守を兼任するや,制条を定めて耕営の法を教え,菓菜を植えることから雞や豚の飼育に至るまで細かく規定し守らせた。また味生池(あじうのいけ)をはじめ陂池(はち)を築き,灌漑の便をはかったという。肥後国の国府は託麻郡(現,熊本市中央区国府・国府本町付近)にあったが,平安時代には飽田郡(現,熊本市西区二本木付近)に移った。国分寺は託麻郡の国府付近にあったと推定されている。この国府を中心に,大水,江田,坂本,二重,蛟槀,高原,蚕養,球磨,長崎,豊向,高屋,片野,朽網,佐職,水俣,仁主の各駅には駅馬各5疋ずつが配された。軍団は4,兵士400人が置かれていた。
執筆者:

902年(延喜2)をもって班田制が終わり,社会体制は富豪層を徴税請負人とし,耕営の田数に応じて所当官物と雑公事を徴収する土地を基本とする体制へと転換する。いわゆる王朝国家の時代となり,中央では摂関政治が成立し,地方では武士団の形成と荘園の成立がすすむ。肥後の武士団の随一は菊池氏である。その出自は古来,中関白藤原道隆の後裔で大宰権帥藤原隆家の子政則に始まるとされてきたが,今日では隆家の郎等で,11世紀初頭の刀伊(とい)の入寇の際大いに活躍し,大宰大監から少弐に進み,対馬守にも任ぜられた藤原蔵規(まさのり)に出ずることがほぼ定説化している。そしてその子の則隆や政隆は,府官であるとともに中央貴族からは肥後国の住人と呼ばれた存在であった。おそらく肥後国菊池郡の郡司家ないし鞠智城の軍団長の家と大宰府府官との結合により,11世紀後半から12世紀前半にかけて,中世武士団菊池氏の基礎が築かれたものと思われる。一族は球磨(合志,永里,岡本氏),天草(志岐氏)をふくむ肥後全域にひろがっていった。菊池氏一族が蟠踞したところには,多く天満宮が勧請され,安楽寺領荘園(玉名荘,赤星荘,田口荘,富納荘,田島荘など)が成立したことや,中世の菊池氏が一貫して大宰府,博多への強い指向性をもつのも,このような菊池氏の出自に由来するであろう。菊池氏のほかに,古代国造の系譜をひき開発祖先神と火山神の統一である阿蘇神をまつる阿蘇氏も,12世紀の初めまでに阿蘇南郷谷を拠点に武士団を形成し,大宮司と称するに至った。南部では益城郡にあって源姓を称する木原氏が有力で,12世紀の半ばには〈国中の乱行ひとへに広実(木原)一人にあり〉といわれるような,激しい反国衙行動を展開する。木原山(雁回山)を中心とする為朝伝説は,これを背景に成立したものとみられる。

 このような武士団の成立期は,王法,仏法ともに破滅する末法の時代と思われており,肥後でも935年(承平5)の平将門の乱平定のため国府に近く藤崎八幡宮寺が勧請されたのをはじめ,康平寺(山本郡)や常楽寺(益城郡)など密教系の寺院が建てられている。

平安末期は荘園制の確立期であった。肥後の荘園の最大の特徴は,大規模な王家領荘園が多いことである。その中には山鹿(やまが)荘や鹿子木(かのこぎ)荘(飽田郡)のように,11世紀にさかのぼるものもあるが,多くは12世紀の成立で山本荘,阿蘇荘,八代荘,宇土荘など郡名荘が多い(鎌倉初期の再編成以前には球磨荘や託麻荘もあった)。これらはとくに後白河院政下,院と平家の主導のもと国,郡の積極的なかかわりによって,一郡的広がりをもつ荘園として成立したものであった。そして西国を基盤とし,日宋貿易に多大の関心をもつ平家の九州支配は,大宰府および国衙機構の掌握と院領荘園への介入によってすすめられた。それは菊池氏など肥後武士団の発展を大きく制約し,1180年(治承4)菊池隆直は,阿蘇大宮司惟安,木原盛実らと反平家の兵をあげ,一時は大宰府まで攻め上った。〈菊池権守〉と称した隆直の勢力は一国棟梁的存在であった。しかし平貞能の追討を受けてこれに下り,以後肥後の武士団は総じて平家の軍事力に編成された。そのため鎌倉幕府が成立すると,幕府=東国勢力の圧迫を受け,菊池氏は本領以外の大部分を奪われ,大友一族の詫磨氏などの入部を見ることになる。また広大な阿蘇本末社領については北条氏が預所兼地頭となり,球磨には遠江から相良(さがら)氏が,ややおくれて野原荘(荒尾市)には武蔵国御家人小代(しようだい)氏が地頭として入部した。

 幕府を背景とする東国勢力の進出は,在地勢力との間に強い緊張関係をもたらすと同時に,新しい文化を生み出していった。球磨人吉に残る数々の相良文化,阿蘇小国満願寺に代表される北条氏の文化,北条氏と在地勢力河尻氏の結合の上に成立した寒巌義尹(かんがんぎいん)の大慈寺(飽田郡)などはその代表的なものである。東国勢力の主導の下で,菊池,阿蘇など在来勢力は雌伏を余儀なくされたが,13世紀末のモンゴル襲来は矛盾を急速に増幅させた。多くの肥後の武士がこれに参戦した。この合戦に浮沈をかけ首尾よく恩賞(海東郷(現宇城市,旧小川町)地頭職)を得て,《蒙古襲来絵詞》を制作させた竹崎季長などは別として,肥後の武士にとって異国警固(生松原の防塁築造と警備)の負担は重く恩賞は乏しく,貨幣経済の発達のもとに困窮を強いられた。これに対し,ひとり北条氏の権力のみが肥大化していった。守富荘,八代荘,宇土荘,人吉荘北方などが得宗領化し,守護職も安達泰盛の没落(1285年,弘安合戦)後,北条一門の手に帰した。こうして阿蘇氏,菊池氏などの不満が高まり倒幕勢力に転化していく。

1333年(元弘3)3月,菊池武時は一族ら200余騎で博多の探題(北条英時)館を襲った。武時は敗死したが,まもなく鎌倉幕府は倒れ,建武政権が成立する。武時の嫡男武重は父の功により肥後守に補された。それは菊池氏にとってたいへんな栄誉であり,以来代々世襲され,菊池氏が終始九州南朝方の中心となる最大の要因となった。菊池氏の活動は,豊後守護大友氏泰をして〈肥後のことは根本大綱に候〉といわせたように,内乱期における肥後国の政治的位置を特異なものとした。とりわけ菊池武光は,征西将軍懐良(かねよし)親王を迎え,阿蘇惟澄や八代荘の地頭職を得て入部した名和氏と協力して,探題一色氏や少弐氏,大友氏ら武家方を圧倒して大宰府に進出し,10余年にわたる征西府の黄金時代を築いた。1371年(建徳2・応安4)今川了俊の下向により征西府は崩壊するが,菊池氏は南北朝合体後も肥後守護家の位置を維持した。一方阿蘇氏は,宮方,武家方あるいは中立と複雑な動きを示し,中央勢力の期待にもかかわらず,政治的にも軍事的にも中心たりえなかった。南北朝合体後も二つの系統の分裂が続き,統一は15世紀半ばに至りようやく実現し,矢部(益城郡)の浜の館を中心に領国経営を指向していく。また球磨に土着して在地勢力を従えていった相良氏は,内乱期には上(多良木)相良,下(人吉)相良が宮方,武家方に分かれるなど混乱が続き,1448年(文安5)にようやく永富相良氏の長続によって統一され,その子為続は隣接する葦北郡に進出,さらに84年(文明16)には八代の名和顕忠を追い,球磨,葦北,八代の3郡支配を実現した。

 戦乱相次ぐ中世であったが,生産力も着実に伸びていった。耕作田数は鎌倉中期の《拾芥抄(しゆうがいしよう)》では1万3462町歩,15世紀後半の《海東諸国記》では1万5397町歩となっている。そしてこの間に中世村落の形成もすすみ,また海外との交渉が頻繁となり都市の成立もすすんだ。鎌倉時代以降,俊芿(しゆんじよう),義尹,大智などの入宋僧や博多聖福寺などを媒介に流入した禅宗を中心とする文化は,菊池氏や河尻氏などに受容されて肥後の精神文化に大きな影響をおよぼした。とくに南北朝期以降には,菊池,名和,相良などの諸勢力が貿易船を送り,多くの文物が将来された。それは国内の商品流通と連動し,港湾都市の発達をもたらした。とくに菊池氏の高瀬(現,玉名市),相良氏の八代などは著しく,八代古麓城下には一日町,七日町,九日町などの市町があり,球磨川河口の徳淵津も町を形成し,官船市来丸はじめ多数の渡唐船が出入りした。1542年(天文11)には,琉球王から相良長唯に賜答文も届けられた。

肥後の戦国争乱は守護家菊池氏の内紛から始まった。1503年(文亀3)一族の宇土為光は菊池重朝の没後,嗣子能運(よしゆき)を追い出して守護職を奪った。能運は城,隈部(くまべ)ら重臣の力で守護職を回復するが,以来菊池氏の家督は重臣らに左右されるようになった。そして大友氏のあと押しによって阿蘇惟長(菊池武経)が菊池氏の家督となり,さらには大友重治(菊池義武)が家督についた。阿蘇氏では惟長・惟豊兄弟の争いが,南部では相良氏と名和氏の抗争がつづき,ついに51年(天文20)大友義鎮(よししげ)は直接肥後に出兵し,みずから肥後守護となり,以後肥後の大部分は大友氏の支配下に置かれることになった。そしてその下で鹿子木,甲斐,城,隈部,赤星,合志,内空閑(うちこが),小代,大津山などの国衆が,それぞれの居城(肥後の中世城は400~500にのぼる)を中心に割拠して勢力の拡大をはかった。77年(天正5)菊池氏老臣の一人隈部親永は,大友氏の援助で隈部(隈府(わいふ))城主となった赤星統家を退けるため竜造寺勢を引き入れ,以来玉名,山鹿方面の諸勢力はその影響下に入った。一方南からは島津氏が相良氏を下し,隈本(熊本)の城氏に迎えられて肥後北部に進出,84年には肥前高来(たかぎ)に竜造寺隆信を敗死させてその支配下にあった国衆を家臣化し,86年には浜の館の阿蘇氏も没落させ,肥後は島津氏によっていったん統一された。しかし翌年豊臣秀吉は大軍をもって九州に入り,島津義久は肥後を捨て薩摩に退き,国衆たちも秀吉に下った。秀吉は52名の国衆をしばらく安堵するとともに,佐々成政を球磨,天草を除く一国の太守とした。成政は家臣団の給知を確保すべく検地を強行したため,同年7月隈部親永らによる国衆一揆(肥後一揆)が起こった。そしてその制圧によって肥後の近世化は一気に推進されることになる。
執筆者:

1588年佐々成政が国衆一揆の責を負って改易されたあと,肥後は上使衆によって検地(太閤検地)が行われ,ついで北部半国(9郡19万5000石)に加藤清正,南部半国(4郡14万6300石)に小西行長が封ぜられ,旧領を安堵された球磨郡(2万2100石)の相良長毎(ながつね)と3人で肥後国を三分することとなった。加藤清正は隈本(くまもと)城に入ったが,領内は国衆一揆で土豪層が排除されており,静謐(せいひつ)であった。小西行長は宇土城に入ったが,ここでは宇土城築城の普請役をめぐって天草五人衆の抵抗を受け,加藤清正の援助によってこれを鎮圧した。この結果,天草郡は完全に小西氏の支配に属することとなった。

 関ヶ原の戦に際して,肥後の3大名は三様の動きをする。相良長毎ははじめ石田方に属したが徳川方に内通して岐阜城を攻め,本領を安堵された。小西行長は石田方に属して敗れ,加藤清正は徳川方について九州の石田方と対抗,小西行長の宇土城を攻めておとし,戦後小西氏の旧領を与えられたが,願いにより天草郡の代りに豊後国のうち鶴崎,野津原(2万3600石余)を与えられ,肥後熊本藩54万石が成立した。天草郡(3万3846石余)は唐津藩主寺沢広高に与えられた。これによって,熊本藩,人吉藩,天草郡の3藩領ができた。慶長年中(1596-1615)肥後国には隈本(熊本),関,内牧,水俣,佐敷(以上加藤領),宇土,八代,矢部(以上小西領),人吉,湯前,大畑(おこば)(以上相良領),富岡,栖本,久玉(以上天草郡)の14城があったが,1615年(元和1)の一国一城令によって破却され,熊本,八代,人吉,富岡の4城となった。

加藤清正は1598-99年から茶臼山に隈本新城の築城にとりかかり,1607年竣工,熊本城と改めた。同時に城下町も形づくった。城内に大身の家臣,城の周辺に中下級家臣を配し,町家は白川と坪井町の間に古町,坪井町,城の西南に新町,北に京町の町屋を置いた。また19年の地震で崩壊した八代城を八代町松江に再建した。加藤氏は国内統治の第一に白川,菊池川,緑川,球磨川の四大河川の治水・灌漑に意を用い,有明海八代海の干拓に着手するなど農業生産力の増大に努めた。清正の死後,幼少の忠広のもとで家臣は2派に分かれて抗争するなど,家内の取締りに問題があったが,32年(寛永9)将軍家光の実権掌握期に謀反の嫌疑をかけられ改易された。

 同年12月9日細川忠利が小倉から転封されて肥後54万石に封ぜられ入国した。忠利はさっそく人畜改めと地撫(じならし)を行って土地と人民を把握し,領内を50~60の手永(てなが)に区分し,土豪を登用して惣庄屋に任じて地方支配に当たらせ,熊本のほか八代,川尻,高瀬,高橋を五ヶ町として藩の直接支配とするなど領内統治体制を整えた。細川氏の藩政は忠利の子の藩主光尚が30歳の若さで没したとき,幼い綱利の統治を危ぶみ幕閣に藩二分の動きがあったが,この危機を乗り切ってからは順調に推移した。しかし財政的には苦しく,入国直後の島原の乱(1637)出兵,47年(正保4)長崎警衛まではなんとかもちこたえたものの,享保の飢饉や代々の御手伝普請(おてつだいぶしん)などによって悪化の一途をたどり,7代藩主宗孝のころには参勤の費用にも事欠き,たとえ参勤できても江戸での月々の御用金にもさしつかえるという有様であった。兄の急死によって藩主の座についた8代重賢は堀勝名を登用して宝暦の改革を行い,封建的秩序の回復,財政再建に乗り出し,藩校時習館・医学校再春館の創設,刑法の改正,地引合(検地)による隠田摘発,専売仕法の実施によって成功し,〈紀州の麒麟(きりん)(徳川治貞)〉と並んで〈肥後の鳳凰〉と称せられ,幕末にかけて他藩から多くの学者,文化人の来訪を受けた。その大部分は肥後の藩政改革,学校制度を学ぶ者であった。

 幕藩制の矛盾が激化する天保期(1830-44),横井小楠により藩政改革の意見が出されたが,藩政を担当していた保守派はこれを排除し,佐幕的立場を貫いたまま維新を迎えた。

人吉藩は1589年から人吉城築城にとりかかり,球磨川を挟んで城下町を形成した。人吉藩では武士の全部が城下町に集住せず,城下町のほか14外城に知行士,徒士(かち)の居住がみられたほか農村に郷士の居住がみられ,宝暦・明和の際(1760年代)農村人口の36%が郷士,諸奉公人であった。人吉藩は表高2万2100石であるが実高は5万2900石で財政は裕福であった。貢租は年貢のほか山野の産物にかかるさまざまな公事が特徴的であった。1662年(寛文2)林正盛によって球磨川水路が開かれたほか,百太郎溝,幸野溝,木上溝によって上中球磨の原野が開発され,農業生産力の向上がみられた。人吉藩では近世を通じて一向宗が禁止されたり,中期には11年間に5人の藩主が交代する継嗣問題が起こるなど事件は少なくない。藩財政が行き詰まった1841年(天保12)家老田代政典の藩政改革も茸山(なばやま)騒動(百姓一揆)によって挫折,62年(文久2)寅助火事によって大打撃を受け,藩政の建直しができないまま維新を迎えた。

天草郡は1601年寺沢広高に与えられたが内検によって4万2000石とし,富岡に城を築いて城代を置いた。37-38年島原の乱ののち寺沢氏は天草を没収され,山崎甲斐守家治が富岡に入り3年間在任,41年天領となり代官鈴木重成(しげなり)・重辰(しげとき)父子によって復旧策が立てられ,59年(万治2)石高が半減されて2万1000石となった。64年戸田伊賀守忠昌が入封したが,71年転出したあと再び天領となり,維新まで天領であった。

 天領天草は1720年(享保5)までは独立した代官所支配(この間代官9人)であったが,同年島原藩預所となってからは,日田郡代,西国筋郡代,長崎代官の兼任支配所となったり,島原藩預所となったりして独立の代官所支配はなされなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「肥後国」の意味・わかりやすい解説

肥後国
ひごのくに

現在の熊本県一円地域をさす旧国名。古代は九州の四つの国の一つ、火(肥)の国の中心地。火の国の名称の起源については、不知火(しらぬい)海の火光や阿蘇(あそ)山の噴火とする説があるが、今日では八代(やつしろ)郡野津古墳群(氷川(ひかわ)町)の存在をも併考し、同郡肥伊郷氷川(氷川町宮原)の地名によるとする説が有力。5、6世紀には筑前(ちくぜん)国にも及ぶ勢力を有したが、磐井(いわい)の反乱(527)を契機に大和(やまと)朝廷に服属したと推定され、最近は江田船山古墳(玉名郡和水(なごみ)町)出土の鉄剣銘について論議されているし、また文献的に安閑(あんかん)天皇2年(535)に春日部(かすかべ)(熊本市西区春日)屯倉(みやけ)の設置、および国造(くにのみやつこ)に火・阿蘇・葦分(あしわき)(葦北(あしきた))・天草が設置されたことで推定している。7世紀中ごろに筑紫(つくし)大宰府(だざいふ)に統轄され、外敵防備のため鞠智(くくち)城(山鹿(やまが)市菊鹿(きくか)町)が築城された。その後律令(りつりょう)制の確立にしたがって、遅くとも持統(じとう)天皇9年(695)までに肥前と肥後が分化し、肥後国が成立した。

 律令期の肥後国は九州唯一の大国で、9世紀には14郡98郷、田数2万3500町、正税30万束、絹2593疋(ひき)は九州最高の量である。国府は当初は益城(ましき)(熊本市南区城南町地区か)に設置されたとする説があるが、律令最盛期(天平(てんぴょう)期)から9世紀中ごろまでは託麻(たくま)国府(熊本市中央区国府)に設置され、周辺地に国分寺・国分尼寺が建立され奈良文化が浸透していった。また大宰府への西海道西路も整備され10駅家と支街道6駅家も設置され、地方にも郡衙(ぐんが)・郡寺が建立された。国司で最初にみられるのは道君首名(みちぎみおびとな)で民政・殖産政策に尽くしたことが伝えられている。その後律令制の弛緩(しかん)に伴い平安中期ごろに国府は飽田(あきた)二本木(熊本市西区)に移設され、その一方では10世紀末から郡郷制の再編成と荘園(しょうえん)の成立が進捗(しんちょく)した。とくに菊池川沿岸に太宰府天満宮安楽寺領(玉名庄(しょう)、赤星庄、合志(かわし)庄など)が成立するとともに、広域の郡郷名をもつ王家領(鹿子木(かのこぎ)庄・託麻庄・阿蘇庄)が特徴的に成立した。一方では、肥後の武士団、とくにその中心は大宰府官人藤原蔵規(まさのり)に始祖をもつといわれる菊池氏と、国造・郡司(ぐんじ)・神主に系譜をもつ阿蘇氏が一族を拡延し、社領を拡大して武士団の中核となり、ついに反平氏政権勢力にまで成長していった。

 平氏政権を討滅して成立した鎌倉幕府は、肥後の武士団統轄のため東国御家人(ごけにん)(相良(さがら)・大友・託磨(たくま)・小代(しょうだい)氏ら)を派遣し、肥後御家人との間で惣地頭(そうじとう)―小地頭の特殊関係を成立させるとともに、荘園公領の再編成(球磨庄・阿蘇社領)と図田帳(ずでんちょう)の作成で在地把握を図らねばならなかった。蒙古(もうこ)襲来では菊池武房(たけふさ)や竹崎季長(すえなが)らが活躍したが(蒙古襲来絵詞(えことば))、役後は北条氏が肥後に急進出し、そのため菊池、阿蘇氏の反発を買い、南北朝内乱の南朝軍の主基盤となっていった。とくに建武(けんむ)政権で肥後守(かみ)に補任(ぶにん)された菊池氏は一貫して南朝軍の中心として活躍することとなったが、なかでも菊池武光(たけみつ)は懐良(かねよし)親王を迎え、一時的に大宰府に征西府を開設するほどに活動し、その間、肥後の北朝武士団(小代・託磨氏ら)とも交戦(託麻ヶ原戦)したが、また阿蘇家にみられるように惣庶家に二分されて勢力を弱化させていった。内乱は1392年(元中9・明徳3)に九州探題今川了俊(りょうしゅん)の和議にて終止符を打ったが、その結果、有力武士家(託磨・河尻・相良氏ら)の勢力が弱化し、国人(こくじん)層(小代・隈部(くまべ)・城(じょう)氏ら)が台頭する原因となった。内乱後の肥後守護職(しゅごしき)は菊池氏(武朝(たけとも)・兼朝・持朝・為邦(ためくに)・重朝(しげとも))に継承されたが、菊池能運(よしゆき)期から肥後は戦国争乱期に入り、ついに能運(1504死亡)を最後に菊池正宗系守護職は断絶し、菊池一族、阿蘇・託磨氏から養子をとり継嗣(けいし)としたが長続きせず、ついに大友義鑑(よしあき)の弟重治(義治、のち義武と改名)を迎えて守護につけたが、彼も反大友的行動をとったとして、1551年(天文20)に大友義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))から攻撃を受けて逃亡し、以後、肥後の中北部は大友氏の治下となった。一方、球磨郡を統一した永留系相良長続(ながつぐ)は八代地域に進出し、ついで為続(ためつぐ)が1484年(文明16)に八代古麓(ふるふもと)城を手中にして球磨、芦北、八代の3郡の支配を成就(じょうじゅ)し、法度(はっと)(7か条)を制定して戦国大名に成長、継嗣は長毎(ながつね)、義滋(よししげ)、晴広、義陽(よしひ)と続き、城下町経営や外国貿易を展開して大名領国を形成した。しかし天正(てんしょう)期(1573~1592)に、北から肥前龍造寺(りゅうぞうじ)氏、南から薩摩(さつま)島津氏が進入して大友・相良氏支配体制は崩れ、さらに島津氏が龍造寺氏を討ったことから1586年(天正14)には肥後は島津義久の統治下となった。

 しかし翌年の豊臣(とよとみ)秀吉の九州統一戦のもとで島津氏は降(くだ)り、同年5月には初代近世大名として佐々成政(さっさなりまさ)が肥後一国(球磨郡を除く)領主に任命され、隈本(くまもと)城を拠城としたが、成政は就任早々に領内検地(太閤(たいこう)検地)の施行を企図したことから隈部氏ら肥後国人衆の一揆(いっき)を引き起こして失脚し、翌1588年5月に加藤清正(きよまさ)と小西行長(ゆきなが)が半国領主(清正は白川以北9郡19万5000石、行長は白川以南4郡14万石推定)として任命された。その間、52人の国衆が淘汰(とうた)され、また検地が施行されて肥後54万石が確定されたようである。清正と行長は入国直後から城下町(熊本市・宇土市)の形成と新城(熊本城・宇土城)の築城に着手するとともに、領内把握をもって二度の朝鮮の役に先軍(1万人と7000人)として出兵した。しかし関ヶ原で東軍と西軍となり、役後は加藤清正の肥後(豊後鶴崎(ぶんごつるさき)を含む)一円所領(54万石)となった。ただし球磨郡は相良氏(2万2000石)、天草郡は寺沢広高氏領となった。

 その後、清正の子忠広のとき、失政を理由に1632年(寛永9)に改易され、かわって細川忠利が入国し、以後、細川氏熊本藩として継続した。その間宇土支藩が生まれ、また細川重賢(しげかた)により宝暦(ほうれき)期(1751~1764)に藩政改革が行われたが、幕末期は佐幕派が中心であったため、1870年(明治3)の藩政改革で明治維新を迎え、翌年熊本県(一時白川県と称す)となった。実生産高は96~97万石。天草郡は島原の乱(1637)後は天領(富岡城代官)となり、以後、人口増加と百姓一揆を頻発させながら明治維新を迎え、富岡県、天草県、八代県と変遷し、1872年白川県となる。相良藩は人吉城を拠城とするが、後進的構造を残しつつ御手判(おてはん)事件、茸山(なばやま)騒動、幕末の丑歳(うしのとし)騒動をもって明治維新を迎え、1870年に藩政改革を行い、翌年人吉県(八代県と改称)となる。1873年八代県は白川県に統合され、1876年ふたたび熊本県と称す。

[森山恒雄]

『『熊本県史 総説篇』(1967・熊本県)』『『日本歴史地名大系44 熊本県の地名』(1985・平凡社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「肥後国」の意味・わかりやすい解説

肥後国
ひごのくに

現在の熊本県の旧国名。西海道の一国。上国。古くは「火国(ひのくに)」と称した。天武天皇の頃(673~686)に肥前,肥後に分割されたという。『旧事本紀』には,火,阿蘇,葦分(あしきた),天草の 4国造を載せている。このうち火国造は『和名抄』にいう八代郡肥伊郷を中心とする地域とみられ,阿蘇国造は阿蘇郡にあり,阿蘇山麓の阿蘇神社を中心として後世まで阿蘇氏が勢力をふるっていた。葦分(葦北)国造は葦北郡,天草国造は天草郡にあった。国府,国分寺ともに熊本市にあった。『延喜式』には玉名,菊池,阿蘇などの 14郡,『和名抄』には 99郷,田 2万3500町を載せる。鎌倉時代には初め守護として名越時章,安達泰盛が補されたが,のちには北条氏の家督および一門が守護となった。この国には古代から阿蘇氏,菊池氏が強い力をふるってきた。菊池氏は中央の藤原隆家が九州に下り大宰権帥(だざいのごんのそつ)となり,その子孫ともいうが明らかでない。菊池郡に威をふるい,南北朝時代には菊池武光が征西将軍宮懐良親王 (→征西将軍)を奉じて一時は大宰府を占領した。しかし建徳2=応安4(1371)年今川了俊(貞世)の下向以来はふるわず,戦国時代には衰えた。豊臣秀吉は初め佐々成政,のちに加藤清正小西行長を封じ,江戸時代には細川氏が 54万石の領主として入国。このほかに人吉には相良氏があり幕末にいたった。明治4(1871)年の廃藩置県後,熊本県と人吉県となり,1873年白川県に合併され,1876年熊本県に改称。

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藩名・旧国名がわかる事典 「肥後国」の解説

ひごのくに【肥後国】

現在の熊本県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で西海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の熊本市におかれていた。平安時代後期には菊池氏が勢力をふるったが、鎌倉時代には東国の御家人(ごけにん)が多く入部。室町時代から戦国時代には菊池氏が再び勢力を拡大した。近世には加藤清正(かとうきよまさ)熊本城を築くが、まもなく細川氏の支配となった。江戸時代熊本藩領、人吉(ひとよし)藩領、唐津藩主支配の天草郡(のち幕府直轄領)に分かれていた。1871年(明治4)の廃藩置県により熊本県、八代(やつしろ)県が誕生。翌年に熊本県は白川(しらかわ)県と改称し、1873年(明治6)に八代県を併合、1876年(明治9)に熊本県に復した。◇肥前(ひぜん)国(長崎県・佐賀県)と合わせて肥州(ひしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「肥後国」の意味・わかりやすい解説

肥後国【ひごのくに】

旧国名。西海道の一国。現在の熊本県。もと火(肥)の国。熊襲(くまそ)の伝承がある。7世紀後半,肥前・肥後2国に分け,《延喜式》に大国,14郡。中世に菊池・阿蘇氏らが活躍。近世は加藤氏,次いで細川氏の熊本藩と相良氏の人吉藩が置かれた。→肥国
→関連項目鹿子木荘菊水[町]九州地方熊本[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「肥後国」の解説

肥後国
ひごのくに

西海道の国。現在の熊本県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では玉名・山鹿(やまか)・山本・菊池(くくち)・合志(かわし)・阿蘇・飽田(あきた)・託麻(たくま)・益城(ましき)・宇土(うと)・八代(やつしろ)・天草・葦北(あしきた)・球麻(くま)の14郡からなる。国府は益城郡,託麻郡,飽田郡と移動した。国分寺・国分尼寺は託麻国府跡(現,熊本市)近くに跡がある。一宮は阿蘇神社(現,阿蘇市一の宮町)。「和名抄」所載田数は2万3500余町。「延喜式」では調庸は絹・布や海産物を定める。ほぼ全域に装飾古墳がみられ,鉄刀の出土した江田船山古墳は著名。もとは火(肥)国(ひのくに)の一部であった。古代末以降多くの荘園が成立。南北朝期には菊池氏・阿蘇氏が南朝方の中心的存在となり,16世紀初頭まで菊池氏が守護。17世紀後期に南から島津氏,北から竜造寺氏が進出。近世は加藤清正が封じられ,のち熊本藩は細川氏にうけつがれ,一部は幕領と,鎌倉時代以来の相良(さがら)氏の人吉藩として推移。1871年(明治4)の廃藩置県により,熊本県と人吉県,のち熊本県と八代県となり,熊本県は白川県と改称。73年両県は合併して白川県,76年熊本県となる。

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世界大百科事典(旧版)内の肥後国の言及

【熊本[県]】より

…北は福岡県,東は大分・宮崎両県,南は鹿児島県に接し,西は有明海(島原湾)をはさんで長崎県に相対している。
[沿革]
 熊本県は旧肥後国全域にあたり,幕末には熊本藩人吉藩および天領の天草,五家荘に分かれていた。天草,五家荘は1868年(明治1)閏4月富岡県,6月天草県となり,8月長崎府(のち長崎県)に編入された。…

【肥の国(火の国)】より

…古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。…

※「肥後国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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