精選版 日本国語大辞典 「饗庭東庵」の意味・読み・例文・類語 あえば‐とうあん【饗庭東庵】 江戸前期の医者。京都の人。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)に学び、金の劉完素(りゅうかんそ)の説を取り入れて陰陽五行説による医説を唱え、後世方(こうせいほう)(=李朱医学)が大成される基礎を築いた。元和元~延宝元年(一六一五‐七三) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「饗庭東庵」の解説 饗庭東庵 没年:延宝1(1673) 生年:元和7(1621) 江戸前期の医学者。立伯と称した。京都の人。曲直瀬玄朔の門人。のち幕府医官として仕えた林(玄伯)家の祖・林市之進(敬経)と学を交え,中国医学の基本典籍『素問』『霊枢』『難経』を講究し広めた。運気学説(保健・医療暦学)にはとりわけ造詣が深かった。編著書に『重校補註素問玄機原病式』『黄帝秘伝経脈発揮』『素問標註諸言草稿』『医学授幼鈔』がある。その学派は後世別派あるいは素霊派と称され,門派からは味岡三伯,浅井周伯,井原道閲,小野朔庵,岡本一抱,堀杏庵らの優秀な学医が輩出,江戸中期の医学の担い手となった。 (小曾戸洋) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「饗庭東庵」の解説 饗庭東庵 あえば-とうあん 1615-1673 江戸時代前期の医師。元和(げんな)元年生まれ。京都の人。曲直瀬玄朔(まなせ-げんさく)にまなぶ。林市之進とともに金(きん)(中国)の劉(りゅう)完素の説により,陰陽五行・五運六気を臓腑経絡に配する理論をとなえ,後世派(ごせは)別派(劉医方)とよばれた。門人に味岡三伯らがいる。延宝元年死去。59歳。通称は立伯。著作に「医学授幼鈔」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by