利根川右岸、香取地内の中東部を占める
現在の主祭神は経津主神(「続日本後紀」承和三年五月九日条では「伊波比主命」とする)で、比売神・武甕槌神・天児屋命を祀り、香取四所明神とも称された(嘉吉四年「国行事憲房等連署目安案」香取文書、以下断りのない限り同文書)。古代においては外海につながる香取海か、もしくはその入江に面していたと考えられ、治安三年(一〇二三)七月一七日に鹿島宮に着いた鹿島使が翌日「渡海参香取宮」っており(「小右記」同年九月六日条)、康元元年(一二五六)一一月九日に鹿島社を立って当社に向かおうとした藤原光俊は、風が強くて到着の遅れた船を浜辺で待ち、暮れ方になってやっと風はやんだが、まだ高くうねり立っている波の上をあえて渡り、「浪あらきかとりの海の夕塩にわたりかねたる世をなげくかな」と詠んでおり、当社に奉幣する際には香取海を渡るのが例となっていた。香取の名は「日本書紀」神代下の第九段(一書第二)に斎主の神は「今東国の取の地に在す」とあるように、取(楫取・梶取)から転じたと思われ、皇極天皇二年三月に水災のため当社に勅使を派遣して綿三〇〇屯などを献上しているから(下総国旧事考所収類聚国史逸文)、本来は水神であったのであろう。主祭神経津主神は鹿島神宮の主祭神(武甕槌神)とともに天孫降臨に先立って国土を平定したとされ(「日本書紀」など)、神武天皇一八年の創建と伝えるが(正和五年二月日大禰宜実長訴状写)、大和政権の東国経営における前進基地としての香取の地にあったことから、国家鎮護の神、武徳の神となり、「日本書紀」の斎主(神を祀る人、戦争に際して神を祀る大将)である経津主神と結び付いたと考えられる。「梁塵秘抄」巻二の四句神歌に「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」とみえ、逢坂の関より東にある九柱の軍神の一つに数えられている。
奈良時代、権勢を握った藤原(中臣)氏はこうした霊威を重視して、香取・鹿島両神を大和国に勧請し、奈良春日社を創建したとされる。以後同氏との関係は深く、宝亀八年(七七七)内大臣藤原良継が病気になったため氏神である香取神が正四位上に昇叙されている(「続日本紀」同年七月一六日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
千葉県香取(かとり)市香取に鎮座。経津主大神(ふつぬしのおおかみ)(またの名、伊波比主命(いわいぬしのみこと))を祀(まつ)る。経津主大神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令を受け、天孫降臨に先だち、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(鹿島(かしま)神宮祭神)とともに出雲(いずも)国(島根県)に降(くだ)り、大国主神(おおくにぬしのかみ)と国譲りを交渉されたと神話に語られる神で、神武(じんむ)天皇即位ののち、現在の地に奉斎されたと伝承する。本来、武神としての大神が、朝廷の東国経営にあたって、まず奉斎されたのであろう。『新抄格勅符抄』806年(大同1)の牒(ちょう)に神封70戸とみえ、812年(弘仁3)以降、住吉(すみよし)社・鹿島社とともに、20年に一度の式年遷宮の制度が定められ、882年(元慶6)下総(しもうさ)国(千葉県北部・茨城県南西部)神税(しんぜい)の稲5855把余をもって、当時すでに正一位勲一等とされていた本社の雑舎料にあてられ、以後20年ごとの例とされた。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社となり、祈年(きねん)・月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)の奉幣を受けている。また、毎年2月と6月に藤原氏1人を派遣、祭儀を行わせ、香取郡を神郡として寄せられた。下総国一宮(いちのみや)。
古くより中臣(なかとみ)氏、藤原氏が崇敬奉仕したが、中世になり、源頼朝(よりとも)が崇敬して神領を寄進、以後東国の武家も崇敬寄進し、近世に入って徳川家康が朱印領1000石を寄進、1700年(元禄13)将軍徳川綱吉(つなよし)が現本殿、楼門、神楽殿(かぐらでん)などを造営した。関東、東北方面に本社勧請(かんじょう)の社が多いのは庶民の信仰の表れとみられる。明治の制で官幣大社。例祭4月14日。翌15日に旧8か町村の氏子(うじこ)が出ての神幸祭(しんこうさい)があり、ことに午(うま)年ごとの式年大祭の神幸は盛大で、甲冑(かっちゅう)姿の氏子数千人が供奉(ぐぶ)し、神輿(みこし)を利根(とね)川の御座船に移しての船上祭となる。ほかにも4月第1週の土・日曜日の御田植祭(おたうえまつり)には、一般に「かとりまち」とよばれる儀があり、土曜日に拝殿前庭で耕田式が、日曜日に田植式が、多くの早乙女(さおとめ)たちの手で行われる。11月30日夜の大饗祭(たいきょうさい)、12月1日の賀詞祭(がしさい)、12月4日の内陣神楽など、ほかにも特殊神事が多い。社蔵の海獣葡萄鏡(ぶどうきょう)は国宝、古瀬戸黄釉狛犬(こまいぬ)一対、久安(きゅうあん)5年(1149)在銘の双竜文鏡は国重要文化財に指定されている。
[鎌田純一]
千葉県香取市に鎮座。経津主(ふつぬし)神(またの名,伊波比主(いわいぬし)命)を主祭神とし,比売(ひめ)神,武甕槌(たけみかづち)神,天児屋(あめのこやね)命を配祀する。経津主神は鹿島神宮の主祭神武甕槌神とともに,天孫降臨に先立って,この国土を平定したといわれる武神であり,社伝では神武天皇18年の創建と伝えているが,古代大和朝廷の東国経営のはじめ,その前進基地としてのこの地に奉斎されたことに始まる社とみられる。古くより鹿島神宮とともに皇室の篤い崇敬をうけ,香取郡を神郡として,その貢税を当宮の用にあてていた。神階は正一位,延喜の制で名神大社,下総国の一宮とされ,鎌倉期に源頼朝が神領を寄進して崇敬して以来武家の崇敬がふかく,足利,徳川将軍も神領を寄進崇敬した。明治の制で官幣大社。現在も例祭に皇室より幣物奉納がある。古くは伊勢神宮同様,式年遷宮の制があり,本殿を20年ごとに造替したが,現社殿(本殿,楼門,神楽殿)は1700年(元禄13)将軍徳川綱吉の造営,1940年拝殿の改築とともに本殿以下の大修繕をなす。本殿,中殿,拝殿がつらなる権現造。本社には4月14日の例祭のほか,4月4日の御田植祭,11月30日夜の大饗(だいきよう)祭,12月1日夜の賀詞(よごと)祭,12月4日夜の内陣神楽,12月7日夜の団碁(だんき)祭など特殊神事が多いが,なかでも圧巻は4月15日の神幸祭(軍神祭)である。祭神経津主神が国土平定のときの軍容に模したというこの祭りは神輿を中心に付近旧8ヵ町村の氏子が供奉しての神幸で,12年目ごとの午年(うまどし)の式年神幸祭は豪華である。4月13日の前日祭,14日の例祭につづき,15日朝神輿は津の宮鳥居河岸から御座船にうつり,利根川をさかのぼって船上祭をおこない,佐原川口にひきかえして上陸,16日夕刻神宮に帰る盛大な祭儀で,沿道および利根川沿岸は拝観者でうめつくされる。社宝中の海獣葡萄鏡1面は隋時代の作で国宝。
執筆者:鎌田 純一
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千葉県香取市香取に鎮座。式内社・下総国一宮。旧官幣大社。祭神は経津主(ふつぬし)命で,武甕槌(たけみかづち)命とともに天孫降臨に先立ち葦原中国を平定した神である。なお六国史などに祭神を伊波比主神とする記事もある。当地は軍事的要衝にあり,鹿島神宮とともに大和朝廷の東国支配に重要な役割をはたしたと思われる。また中臣氏の氏神ともなり,藤原氏は香取・鹿島の神を勧請し春日神社とした。882年(元慶6)には正一位勲一等とみえる。香取郡は当社の神郡であった。中世以降も軍神・武神として源頼朝や徳川家など武家からあがめられた。例祭は4月14日。所蔵の海獣葡萄鏡は国宝で,日本三名鏡の一つ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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