高山新田
たかやましんでん
[現在地名]中之島村西高山新田
中西村の南にあり、中西村の枝郷。寛永一四年(一六三七)の中西村肝煎羽賀六右衛門宛開発免状(羽賀家文書)に「中西村之内高山新田之事、三年休に申付候」とみえる。六右衛門は赤沼村を開発した角助の嫡子で、当村および大保村・赤沼村・中西村四ヵ村肝煎を兼帯した(「新発田領村々開発録」釈迦塚区有文書)。明暦三年(一六五七)とされる山通島通新田石高帳御高付(新発田市立図書館蔵)によると三五石一斗余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では物成高三九石五斗余、家数一一・人数八〇。
高山新田
たかやましんでん
[現在地名]亀田町東本町五丁目・神明町一―二丁目・大月一―二丁目・諏訪三丁目
船戸山新田の東に連なる。同新田の枝郷で、草分は渡辺弥右衛門・斎藤市郎平・大倉市右衛門という(亀田町史)。延宝七年(一六七九)の年貢皆済状(同書)によれば五〇石八斗を納める。元禄一〇年(一六九七)町屋設置をめぐって隣接する亀田町新田との間で争っている(同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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