亀田町(読み)かめだまち

日本歴史地名大系 「亀田町」の解説

亀田町
かめだまち

[現在地名]岩城町亀田愛宕かめだあたご町・亀田亀田町・亀田大かめだおお町・亀田最上かめだもがみ

西流するころも川の中流左岸にある岩城氏二万石の城下町。北東は富田とみた村、北西は赤平あかひら村に接し、南に高城たかしろ(一七〇・三メートル)がある。

〔楯岡氏時代〕

中世末、由利十二頭の一人赤尾津氏が高城山に城を構え、赤尾津あこうづ郷一円を支配したが、慶長七年(一六〇二)最上義光の由利郡一円支配に際し、その家臣楯岡豊前守満茂が「由利 一高四万五千石」(「最上義光分限帳」山形市史)を与えられ、五千余人の従臣を伴いこの地に移った(奥羽永慶軍記)。初め赤尾津氏の居城を本拠としたので、高城山麓の天鷺あまさぎ村・六呂田ろくろた村に家臣団および町人衆の屋敷が建ち並び、町をなしたと思われる。慶長一五年楯岡氏は城郭狭隘を理由に本荘に居城を築き、同一七年家臣、赤尾津の町民、寺なども残らず本荘へ引っ越したという(由利十二頭記)

〔岩城氏入部〕

元和九年(一六二三)岩城吉隆が由利郡北部に二万石の領地を与えられ、信州川中島(現長野県)から当地に移った。岩城氏は高城山の麓に陣屋を構え、翌寛永元年(一六二四)佐竹氏の重臣梅津憲忠・佐藤光信らの援助を受け、城下町の建設に取り掛かった。

亀田町
かめだまち

面積:一六・八五平方キロ

中蒲原郡三地域のうち東接する横越よこごし村とともに北方に位置し、三方が新潟市に接する。信濃川・阿賀野川小阿賀野こあがの川に囲まれる平野のほぼ中央にあり、かつては亀田郷とよばれた低湿地であった。集落は亀田砂丘列の西端に発展。国鉄信越本線が南北に走り亀田駅がある。昭和二四年(一九四九)くり川排水機場の完成とともに乾田化・耕地整理が進められ、穀倉地帯に転じた。南部の茅野山ちのやまは亀田梨の産地として知られる。近世中期から亀田縞と呼ばれる綿織物を産し、第二次世界大戦後は化繊織物への転換が進んだ。

亀田町
かめだちよう

[現在地名]函館市亀田町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、八幡はちまん町の北西に位置する。それまでの函館区大字亀田村かめだむら村内むらうち・字八幡社後手はちまんしやうしろて・字札幌通さつぽろどおりの一部を併せて町域とした。旧亀田村の中心地であったことが町名の由来(函館市字地番改正調書)。昭和一〇年の世帯数七四八・人口三千六五六。同三〇年の国勢調査では世帯数九三二・人口四千六八九、就業人口比で製造業関係者が二九パーセント、商業関係者が二二パーセントを占めていた。

亀田町
かめだまち

昭和三七年(一九六二)一月に亀田村が町制を施行して成立。旧亀田村以来の一八字を継承。翌三八年七月当町および上磯かみいそ町・七飯ななえ町・大野おおの町の各土地改良区が合併して渡島平野土地改良区が設立された。町制施行以来、函館市からの転入者を中心に人口は急増、昭和四〇年の国勢調査では六千九七四世帯・二万八千八一三人、同四四年一一月末の人口は四万五千八四八人で、登別町(同四万五千三四五人、現登別市)を抜いて道内町村の第一位となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の亀田町の言及

【岩城[町]】より

…秋田県西部,由利郡の町。1955年亀田町と道川村が合体,改称。町名は亀田藩主岩城氏の名にちなむ。…

※「亀田町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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