中之島村(読み)なかのしまむら

日本歴史地名大系 「中之島村」の解説

中之島村
なかのしまむら

[現在地名]中之島村中之島

ねこ興野の南、刈谷田かりやだ川左岸の自然堤防上にある。上流に枝郷五百刈ごひやつかりがある。伊勢御師の道者株を売った永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に中之島とみえる。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に池千世松丸知行として中野島とある。御館の乱に際し、同八年三月二日与板よいた(現三島郡与板町)城主直江信綱が池浦喜右衛門に与えた感状に「於中島口、無比類稼、無申事候」とあり(上杉年譜)、この「中島」は現西蒲原郡分水ぶんすい中島なかじまかと思われるが、「越佐史料」は南蒲原郡と注記する。三条城の甘糟長重に検地を指示した文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)出雲田いずもだ庄一五ヵ村のうちに中之島村がある。

新発田藩主溝口秀勝入封当初の御領内高付帳(新発田市史資料)に中ノ島村とあり、九七四石一斗。慶長一七年(一六一二)の御蔵納同払方帳(同資料)に「中ノ島杉森村」として一二六石八斗余・同村開分一四石八斗余・同ほど役三石二斗などとみえ、藩主蔵入地であった。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では五〇七石四斗余。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると物成高三〇二石九斗余、家数八〇・人数五三三。正徳四年(一七一四)の中之島組田畑并万郷帳写(大竹邸記念館蔵)には中之島町とあり、田五一町七反余・分米二一四石七斗余、畠四六町六反余・分米九九石五斗余、家数本家二五・名子家三・間脇家六一・借家一五、人数男三七三・女三三〇。


中之島村
なかのしまむら

[現在地名]益田市中島町なかのしまちよう中須町なかずちよう

高津川と益田川下流三角洲の中央部に位置し、南は下吉田しもよしだ村、西は高津村。「石見八重葎」は益田川と高角たかつの川の間にあるための地名という。当地はかつて小高津こたかつと称した。小高津は古高津の意で、中之島と改称されたのは室町初期頃という(益田町史)。この頃高津川の本流と分流に包まれて中ノ島を形成したと思われる。江戸時代の領主の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に中島村とあり、高二〇八石余、年貢は田方一七石余・畑方三二石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では中ノ島村とあり、高二〇八石余、開方高二石余で、免二ツ八分五朱。安永六年(一七七七)の村明細帳(右田家文書)によると田一八町余(うち悪田四町余)・畑一九町余、家数一一〇・人口五〇〇とある。


中之島村
なかのしまむら

面積:四一・七九平方キロ

南蒲原郡南西部に位置し、東はさかえ町・見附市、南は長岡市、西は三島さんとう与板よいた町・寺泊てらどまり町、北は西蒲原郡分水ぶんすい町。北流する信濃川と刈谷田かりやだ川に挟まれ、村域は南北に細長い。低湿地にあるため古くから水害に悩まされ、集落や耕地を守るため、「かづら」とよぶ囲堤が設けられていた。近世には新発田藩領で、一部、同藩分家領から幕府領、長岡藩・白河藩などの預地を経て与板藩領となる村村もあるが、大部分は新発田藩領のまま明治維新に至る。新田開発が推進され、近世後期には著しく生産高が増加している。宝永―正徳期(一七〇四―一六)には中之島騒動(与茂七騒動)が起こった。


中之島村
なかのしまむら

[現在地名]池田市住吉すみよし一―二丁目・石橋いしばし一丁目・天神てんじん二丁目・豊島北とよしまきた二丁目

西市場にしいちば村の東にあり、村の北境を箕面みのお川が南西流する。元和年間(一六一五―二四)以降麻田藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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