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「西村」の意味・読み・例文・類語
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西村
にしむら
[現在地名]大内町西村
与田川下流の西、番屋川との間の小平地に位置する。北は播磨灘に面するが、海岸線は短く砂浜であり漁業には適さない。水利に恵まれ、農業には適地で、明治初期の野取図にはかなり整然とした条里地割の跡がみられ(大内町史)、南海道が東西に通じていたと推定されるなど、古代からかなり開けた地域であった。南は中筋村に接する。寛永国絵図では与田郷に含まれている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では八七九石余で、小磯村の高を含んだ数値とも考えられるが不明。文化元年(一八〇四)の順道帳(誉水村史)では畝数七五町七反余(田方六七町六反余・畑方八町一反余)、高九三〇石余。年貢は三本松御蔵に納めた。小物成は寛永一九年には綿二五五匁(高松領小物成帳)。文化三年の入会野山一町八反余の運上銀二一匁余(誉水村史)。
西村
にしむら
[現在地名]堺市日置荘西町
野尻村の東に位置する。村内を富田林街道が通る。日置村(正保郷帳)・日置西村(天保一四年「西村明細帳」太田家文書ほか)とも称された。河内国丹南郡に属する。中世、日置庄の中心をなす原寺村から西方に開発され発展した村で、村名もこれにちなむ。原寺村から北へ条里制の地割に沿って発展した北村と異なり、条里制の地割に関係なく村落が形成された。文禄三年(一五九四)の丹南郡西村郷検地帳(太田家文書)によると、田地四八町三反余・畑地七町五反余・屋敷地六反余。圧倒的に田地が多く、なおかつ上田が三八町余を占める。村高八〇四石余。名請人は屋敷持三三人を含む一〇九人であった。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳でも高は前掲検地帳に同じで、ほかに山年貢高三石九斗四升。元文二年(一七三七)の河内国高帳では九一五石余。領主は江戸時代初期は幕府領であったと思われ、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩秋元喬知領となり、以後秋元領として変遷は長曾根村に同じ。
西村
にしむら
[現在地名]尾道市西藤町・長者原二丁目、福山市高西町真田
沼隈郡の西端に位置し、藤井川の北岸に村域の大部分があり、西部の一部が南岸に位置する。北西部は山地で、藤井川流域に平坦地があり、東南の一部は松永湾に面する。中世の山陽道が東西に通じ、近世の山陽道は村の南部を通過する。北西山腹に弥生式土器包含地があり、北東部に馬場古墳群・永松古墳群・玉比売塚古墳跡がある。中世には本郷村(現福山市)の古志氏の勢力圏に含まれていたと推定され、木梨の杉原氏の勢力圏との接点にあたる。
西村
にしむら
[現在地名]日南町宮内
蛇行しながら北東流する日野川左岸に位置し、同川に西流する宮内川が合流する。北東は矢戸村。村内を日野往来が通る。拝領高は一八七石余、本免は六ツ二分。寛永一〇年(一六三三)の田畑地詰帳写(日南町役場蔵)によると、高二〇四石余のうち田方一五四石余・九町二反余(上田六町一反余・中田一町一反余・下田一町一反余・下々田七反余、新開上田七畝・同下田二八歩)、畑方四九石余・一〇町一反余(上畑三町五反余・中畑八反余・下畑五反余・下々畑三反余・屋敷五反余・切畑四町一反余・新開下々畑一反余)、下札朱高は一九〇石余で、楽々福大明神社(東西の楽々福神社)領一三石余があった。
西村
にしむら
[現在地名]那覇市西一―三丁目・通堂町
那覇の南西部に位置。那覇四町の一つで那覇西村とも称する。東は親見世から渡地村に至る親見世馬場通を境に東村、北は石門通などを挟み久米村、北西は属村の辻村を挟み若狭町村。西は西の海、南は那覇港。「喜安日記」には那覇とあり、西村・東村はみえず、琉球国高究帳でも真和志間切に那覇町として畠高五七石余とあるのみで、東村・西村はみえない。一七世紀前半まで東村と西村は分離しておらず、一括して那覇町と称していたと考えられる。なお同帳の那覇町には浮免と注記されており、畠高五七石余は公課(年貢)免除で、那覇町の公費に充てられたとされる。村内には親見世前の馬場通に薩摩鹿児島藩の在番奉行所(御仮屋)、南隣に昆布座、那覇港の突堤(通堂崎)の先に迎恩亭(通堂)、そこから西へ浮道(海中道路)を経て臨海寺・臨海橋・仲三重城・中之橋などを経て三重城があった。
西村
にしのむら
[現在地名]錦町西
球磨川の中流左岸、多良木(現多良木町)への往還に沿い、上流は一武村、下流は七地村(現人吉市)に接する。中世には永吉庄に属し、須恵尼が知行していたが、弘安六年(一二八三)七月三日の関東下知状案(平河文書)に「件西村者雖為永吉内、給主各別地頭須恵尼令知行者也、依彼尼狼藉之咎、被召上西村畢」とあり、以後預所職は近衛中将実春朝臣に移り、地頭職は加来又二郎入道念阿の手に移った。大永六年(一五二六)八月四日に「須恵庄西村之内舟津田四段并畠六段」が岩本三郎衛門尉に給されている(「相良長唯宛行状」岡本文書)。
慶長国絵図に五三三石八斗余とあり、寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳では「西之村」とあり、本田高八八六石九斗余・新田畑高六四五石六斗余と新田開発が著しかった。
西村
にしむら
[現在地名]浜田市西村町
吉地村の西に位置し、西は折居村、北は日本海に面する。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に「にし村」とみえ、高四九五石余、年貢高は田方二七四石余・畑方二二石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では三宅村が分村したため高二九〇石余となっている。慶応三年(一八六七)の桑原啓治当用便(桑原家文書)によると戸数一五四・人数六九七。「郡村誌」では戸数一六七・人数七九二で、砂鉄山三ヵ所を記す。西村鑪は文政九年(一八二六)に鑪師兵左衛門が浜田藩に願出て始まった。天保二年(一八三一)隣の津摩浦漁民が鑪火の光や天秤の騒音などのために魚が寄りつかない、木炭・薪が不足し、ひいては米穀類の高価につながるとして鑪稼を廃するよう藩に願出たが、翌年原井組割元庄屋河上甚九郎の執成しによって一応の解決をみた(「村方役用帳」桑原家文書)。
西村
にしむら
[現在地名]鴨川市西町
広場村の北、東村の西に位置し、伊南房州通往還が通る。東村・広場村とともに江戸時代初期までは東条村と称し一村であった。元禄郷帳に「東条西村」とみえ、高五九二石余。元文村高帳では幕府領・北条藩領とあるが、天明七年(一七八七)の北条藩領村鑑明細帳(加藤家文書)では北条藩が一村を支配している。文政一〇年(一八二七)同藩主水野氏の上総国鶴牧(現市原市)への転封により鶴牧藩領となる。同年の安房国中村高書上帳(川名家文書)では鶴牧藩領(一五五石余)と旗本松平領(四三三石余)。
西村
にしむら
[現在地名]早良区西・内野七―八丁目・早良七丁目
内野村の南にあり、東は脇山村、南東は椎原村。東を椎原川、西を石釜川(現室見川)が北へ流れる。南部にある高山は前峯尾といい、同麓には通天という滝(一名紅葉滝)がある。近世には脇山郷(横山郷)八ヵ村の一。慶長六年(一六〇一)三月一七日、黒田長政から吉田又介(重成)に与えられた早良郡二千石のうちに西村一千六五石余がある(「黒田長政知行目録」吉田家文書)。
西村
にしむら
[現在地名]匹見町紙祖
匹見川の左岸に紙祖川が合流する所から南に延びる平坦地で、東は東村、西の匹見川下流は千原村。平坦地は北流する紙祖川沿いに広がる。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に「にし村」とみえ、高三〇五石余、年貢高は田方一四二石余・畑方四八石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高三二三石余、免六ツ七分。紙漉が盛んに行われた。江戸時代初期、浜田藩の匹見代官所が野田集落に置かれたが、元和七―八年に東村に移された(石見匹見町史)。
西村
にしむら
[現在地名]内海町西村
草加部本村の西にあり、南は内海湾に面し海岸線は東西に長い。日方村を中心に水木村・清水村・原村・竹生村の五集落を総称して西村といい、草加部郷の枝村。ただし年寄は日方村に一人、組頭は各村に置かれた。明応九年(一五〇〇)正月の利貞名外田畠塩浜等日記(赤松家文書)によると大水木谷・小水木谷に利貞名山があり、竹生に「かゝな衛門」が開いた岩吉名余田一〇代があった。
西村
にしむら
[現在地名]四日市市西村町
朝明川の北岸、市場村の西にある。北は員弁郡。中世保々御厨があった。近世は、近隣の市場・中野・小牧とともに保々と称された。保々西村ともいう。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降忍(現行田市)藩領、天保一三年(一八四二)以降幕府領、その後再び忍藩領。宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)によると、戸数五五、人数二三六、うち本百姓家持一五四・名子水呑八二、馬二、牛二〇。
西村
にしむら
[現在地名]坂井町西
坂井平野の中央部で、竹田川と兵庫川の中間に位置し、枝村として鯉村がある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では大口郷に含まれ、中世には興福寺領河口庄の内であったと思われる。同六年結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)に「西村」とみえる。
「大連家秘簿」中の寛永一五年(一六三八)の「組頭ませ割物高家」には、組頭(大庄屋)大連家の組下の村として記されている。正保郷帳によれば田方三六一石余・畠方一八九石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領となり、のち再び幕府領、文政三年(一八二〇)以降は福井藩領。
西村
にしむら
[現在地名]淀川区木川東三―四丁目・木川西三―四丁目・西中島四―七丁目・三国本町一丁目・西宮原一丁目
木寺村の北にある。集落は村域北東部に集中。中島大水道江ノ尻一六番杭より分岐した用水路が当村中央部を西に通り、竹橋三三番杭で再び大水道に合流する。もとは北方村と称し山口村(現東淀川区)と一村であった。北方の名は寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「柴島北方」とみえ、半斤の年貢茶を納めている。当村が北方村から分村した時期は明らかでないが、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳では和泉国岸和田藩小出吉英領。
西村
にしむら
[現在地名]西郷町西村
湊村の北西に位置し、北部は海に面する。慶長一二年(一六〇七)の検地帳(横地家文書)によれば、田一三町七反余・一五三石余、畑一二町九反余・一八石余、家数二五のうち役百姓二二(ほかは公文と寺か)、記載百姓四〇。大豆二町余・小豆四町五反余・稗二町二反余を作付している。名請人の注記に大工・鍛冶・こんや・天日神などがみえる。正保国絵図に村名が記載される。この国絵図および天保郷帳では当村は周吉郡所属となっているが、貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」では越智郡に属する。
西村
にしむら
[現在地名]西区押部谷町西盛・富士見が丘一―五丁目・高雄台・北山台二―三丁目
明石川上流右岸に位置し、西は細田村。天正一二年(一五八四)七月一四日の安宅甚五郎(信康)宛羽柴秀吉知行方目録(萩原員崇氏所蔵文書)に「西村」高二五九石余が載る。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方四三一石余・畑方七八石余、「はへ山」あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西五町一〇間・南北四町三〇間、人数三六〇・家数五四。郷蔵・自分山二一・池八・野草山二(福住村との立会)・野草山(近江寺・福住村との立会)、梅樹など。堂は辻堂・地蔵、小祠は若宮森・天王森・山神森・三十八社宮・大将軍・大才宮。
西村
にしむら
[現在地名]藤沢市西富・西富一―二丁目・大鋸三丁目
境川左岸に位置し、鎌倉郡に属した。東は藤沢宿大鋸町、西は境川を隔てて藤沢宿大久保町に対する。東南を東海道が通る。村名は集落が時宗清浄光寺(遊行寺)の西方にあたることから起こったという(風土記稿)。
天正一九年(一五九一)徳川家康は清浄光寺に寺領一〇〇石を寄進(「徳川家康寺領寄進状写」清浄光寺文書)、この寺領が西村になったという(相中留恩記略)。
西村
にしむら
[現在地名]福岡町西
鳥倉村の北東、小矢部川左岸の平野部に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に西村とみえ役家数七、三日市組に属した。正保郷帳では高二六五石余、田方一七町・畑方六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二七九石、免六ツ、小物成は山役三一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)の村鑑写(窪田家文書)によれば家数一六(うち頭振一)・人数六四(ただし六〇歳以下のみ)、牝馬数三。享保九年(一七二四)には災害により五一石余の地不足で一ツ四歩の引免となった。田三反ほどは麦や菜種の両毛作をし、四反余には菅を作った。菜種は八斗を高岡町に、菅は一五六束ほどを福岡町や立野町(現高岡市)へ売った。
西村
にしむら
[現在地名]小野市河合西町
新部村の北に位置し、西は青野原台地。集落は加古川と台地の中間低地に形成されている。慶長五年(一六〇〇)の西村本田本畑改帳(掘井家文書)によると高五〇五石余、うち田高四二三石余・反別二九町八反余、畑高八二石余・反別一一町六反余。領主の変遷は長町村に同じ。正保郷帳では田方三四四石余・畑方六七石余。天保三年(一八三二)の高五五九石余、うち前之池敷引七石余、残高五五二石余・反別五二町六反余、うち田高三九八石余・反別二八町一反余(「田畑反別仕訳帳」掘井家文書)。
西村
にしむら
[現在地名]熊野川町西
那智に至る熊野街道中辺路(雲取越)の中間に位置する。小口川南流(現小口川)と小口川北流(現和田川)が村の北部で合流。古く小口村と称したが、小口は小口川谷の総称であるため、東南の赤木村枝郷東村に対して西村としたという(続風土記)。西行の「山家集」に「くもとりや志古の山路はさておきて小口が原の淋しからぬか」の歌があり、「小口が原」は当村と長井村付近とされている。中辺路はこの付近から本宮までを小雲取越、那智までを大雲取越といった。
慶長検地高目録に奥地川谷の村として小口村がみえ、村高三四石余。
西村
にしむら
[現在地名]馬瀬村西村
下山村の北にある。津保街道が通る。馬瀬川西岸の坂本が本村で、のち東岸に耕地も集落も移ったが、村名は西岸にあった時のままとしたという(斐太後風土記)。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高五二石余、田三町一反余・畑八町七反余。「飛騨国中案内」では免四割三分六厘、家数二一、うち百姓一七・門屋四。坂本山に松の家木山があった(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)。
柿本には口留番所(下馬瀬口)が置かれ、勤番一名が詰めた。下馬瀬口は下山村より卯野原村(現金山町)に向かう下山通、当村坂本から楢尾峠を経て弓懸村(現金山町)に出る通り、そして下呂(現下呂町)方面に出る近道として利用された柿坂峠への通りの分岐点となっていた。
西村
にしむら
[現在地名]賀陽町西
宮地村の北西に位置し、槙谷川の西岸より佐与谷川の最上流部までを占める。集落は原を中心に実光・野伏・湯原・大沢・二本木などに分れている。正保郷帳に村名がみえ高二四二石余、枝村に二本木村・湯原村・大沢村が記される。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)によれば、古高七三九石余・新高八七二石余。
西村
にしむら
[現在地名]浜松市西町
東村の西に位置し、西は立野村、北は金折村。松平忠頼領郷村帳では高五〇石余、田一町四反余・畑四町五反余、ほか同所野方一二石余。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえる。領主は正保郷帳、国立史料館本元禄郷帳、旧高旧領取調帳のいずれも浜松藩領で、寛文四年(一六六四)の太田資宗領知目録(寛文朱印留)、元禄一二年(一六九九)の青山忠重領知目録、享保一六年(一七三一)の松平信祝領知目録、明和九年(一七七二)の城附領分村々高帳写、天保一〇年(一八三九)の水野忠邦領知目録写などに村名がみえることから、元和五年以降浜松藩領として推移したものとみられる。
西村
にしむら
[現在地名]和歌山市西
名草郡に属し、和田川の北、福飯ヶ峯南東麓にある。西は神前村。西南の和田村から東の森村に至る塩屋路が通る(「道巾帳」貴志家蔵)。中世は岡崎庄に含まれ、永禄四年(一五六一)九月八日付掃部三郎田地売券(念誓寺文書)に「岡崎西」とみえる。慶長検地高目録では岡崎村(高一千八二九石余、小物成二斗七升四合)に含まれ、同村の注記に「御手堀寺内西村森村」とみえる。のち分村し、天保郷帳によると高五八七石余。「続風土記」は西・森・寺内・小手穂四村合せて家数三〇六、人数一千二一二を記す。
西村
にしむら
[現在地名]浅井町西村
田村の北、草野川右岸に位置。北隣寺師村から板杭川が流入し草野川に合流する。縄文時代の草野川遺跡がある。天正一五年(一五八七)一二月二八日の売券(草野文書)に村名がみえる。慶長二〇年(一六一五)には「くさのノ内西村ノ二郎太郎」が子供のうち「はつ千世」を米三斗五升で三田村の又十郎に売渡している(北川文書)。
西村
にしむら
[現在地名]和歌山市山口西
名草郡に属し、上野村の東にある。淡島街道(旧南海道)が東西に通る。「続風土記」は「此地旧名は坂上村といひしとそ、今田地の字に坂上といふあり、又坂のうちといへる所もあり、古の遺名にや、又坂ノ上姓の旧家村中にあり」と記し、地元では当村を坂上村とよぶという。坂上は天文一六年(一五四七)三月一五日付の山口庄中司等連署下地売渡状(国立史料館蔵名草郡古文書)の売人の加判者の一人宮内三郎の肩書に「サカノウヘ」とみえる。
西村
にしむら
[現在地名]西伯町西
小原村の南にある。絹屋川が西部を北流し、東に耕地が開け、集落は同川右岸台地に位置する。拝領高は一九一石余、本免は四ツ四分。藪役銀一九匁が課され(藩史)、岡野氏・米子組士中島氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二二九石余、竈数三七。「伯耆志」では家数三七・人数一五七。明治三年(一八七〇)の御用方諸事手控(細田家文書)によると耕地面積二〇町五反余・山林面積四町六反余、職人として大工・木挽各二がいた。慶応三年(一八六七)当村ほか絹屋・小原・寺内・法勝寺各村の若者三四名が、在中で無許可の万才芸を行い罰せられている(西伯町誌)。
西村
にしむら
[現在地名]神岡町西
山田川と西の数河村(現古川町)境に源を発する谷川と、流葉山麓の広大な傾斜地に挟まれる。南は山田村、北は伏方村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「上山田村所々七村」に含まれ、同一八年の郷帳ではにし村とあり、高原郷に属し、高六三石。元禄検地反歩帳では高一二四石余、田一町八反余・畑九町二反余。「飛騨国中案内」では免四割九厘五毛、家数三四(うち寺一・百姓一九・門屋一一・地借二・門前一)。天明八年(一七八八)の村明細帳によれば、田九五石余・一二町一反余、畑六七石余・一二町一反余。
西村
にしむら
[現在地名]鹿島町西
邑知地溝帯の北東部、石塚川の末流部の低平地に位置し、北は坪川村。水田耕作が主であるが、地形的に灌漑用水に恵まれず、上流部の余水と天水に頼る。天正一四年(一五八六)の山地子銭定(西区有文書)に村名がみえ、宛先の当村太郎右衛門の下に「きもいり也」とあるのは村肝煎の古い例とされる。慶長一一年(一六〇六)の田畠先高出分書付(同文書)によれば年貢米先高二五一俵・出分二一俵。元和二年(一六一六)の検地高は田畑屋敷ともで一四六石余(「検地打渡状」同文書)。正保郷帳では高一五〇石余、田方八町余・畑方一町九反余。
西村
にしむら
[現在地名]津川町西 西
阿賀野川左岸に位置し、東に津川町、北の対岸に京瀬村がある。「新編会津風土記」に家数五四、北西の端村赤岩は一三とある。文化元年(一八〇四)の地誌書上帳(東蒲原郡史編纂室蔵)では赤岩は大坂(現在小字名が残る)とともに小名として書上げられる。文政三年(一八二〇)の人馬改帳(佐藤一二氏蔵)に村高三九九石二斗余、家数六五・人数三三六、馬三六とある。また漆木役は八六本七分とあるが、「津川旧記」によれば元和六年(一六二〇)には六三〇本九分であった。
西村
にしむら
[現在地名]熊本市元三町
東は田迎手永の木部村、西は平野村、南は加勢川、北は西牟田村である。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では惣畝数一四町七反四畝余・高一四三石余で、うち御蔵納は田一〇町六反九畝余・畑三町二反四畝余で、他は井手下などである。本庄手永に属し、宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では惣畝数一五町一反一畝余、うち御蔵納は田畑一三町八反八畝余・高一四三石余で、他は新地永荒などである。下ケ名には上ノ町・中ノ町などがある。天保一三年(一八四二)の本庄手永手鑑では家数七、男一六・女一七、馬三で、加勢川大塘九七間が築かれている。
西村
にしむら
[現在地名]有田市糸我町西
有田川南岸、中山脈の山腹および山麓扇状地を村域とし、西里が中心集落。山麓の西谷・真砂・西山にも小集落がある。糸我庄の西部にあるのでそれを村名にしたという(続風土記)。慶長検地高目録によれば村高五〇五石余、小物成六斗九升八合。家数九三、人数三九〇(続風土記)。宮原組に所属。
西村
にしむら
[現在地名]上野市西高倉
東村の西。中央部の尾ノ上に石斧・弥生式土器の出土の包含地があり、上の鳥居出には後期古墳がある。伊賀と近江を結ぶ御斎峠越道が南東から北西に貫き、険峻だが京都への近道として利用された。元禄四年(一六九一)新検を改め、本高一二九三・五六八石、平高一七六七・八石、うち箕浦藤兵衛ほか四名の給地一〇三石余。寛延(一七四八―五一)頃の戸数二〇六、人口一千二、馬七〇、社寺は氏神・八幡・諏訪合祀、高倉寺・峯庵寺・徳楽寺(真言宗御室派)・地蔵寺・灯明寺(宗国史)。
西村
にしつじむら
[現在地名]新庄町大字西辻
林堂村の東南、高野街道の要所の辻に発達した村。
江戸時代初期、福島兵部領。村高は三一七・四七九石。寛永一〇年(一六三三)旗本佐久間実勝領。正保四年(一六四七)旗本水野忠貞が五畿内・近江・丹波・播磨国奉行職となって大和国忍海郡西辻村・南花内村・脇田村・山田村(現新庄町)、式上郡武蔵村・海智村(現天理市)で合計一千五〇〇石が加増された際、同氏領となり明治維新に至った。
西村
にしむら
[現在地名]二見町西
荘村の西にある。年不詳だが、伊勢未依治田売券(光明寺古文書)に「二見内堅田里卅坪字御□田」とある。「字御□田」の欠字の部分は塩と考えられ、御塩田は西村の字名である。御塩田の西には十九、その南に廿坪、西に十八の字があり、当村周辺には条里制が施行され、今も地割りにそれが認められる。御塩田は仁平三年(一一五三)一〇月の公侯若末塩田処分状案(同文書)の端裏書に「二見御塩田」とあって「在二見郷内字御塩田」と記されている。長寛二年(一一六四)九月一二日付の源盛清塩田売券案(同文書)や年未詳の藤原武国田地売券(同文書)にも「二見郷内字御塩田」がみえる。
西村
にしむら
[現在地名]高清水町小山田
高清水村の北から北西にかけての一帯で、善光寺川が南東流する。並行して流れる小山田川の両岸にいくらか平坦地があるが、村域の大部分は丘陵地。西は荻生田村。正保郷帳に村名がみえ、田七五貫一三文・畑七貫四九文で、ほかに新田五貫五四文とある。「封内風土記」に戸数六三とあり、堰田・中里・石沢・川崎などの地名が記される。
西村
にしむら
[現在地名]京北町大字西
周山一二ヵ村の一。大堰川の支流明石川に沿った山間集落。川を北東にさかのぼれば矢代中村に達し、下流(南)は浅江村。山を隔てて東は下熊田村、西は宇野村。
中世は吉富新庄に含まれる。
西村
にしむら
[現在地名]野村町西
肱川左岸の小山村。北は大洲藩領に接し、南は栗木村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「西村 茅山有、川有」とある。
太閤検地の石高は四八石六斗九升、耕地面積の比率は田三〇パーセント、畑七〇パーセントであった。寛文一二年(一六七二)には石高が約二・四倍に増加し、田二三パーセント、畑七七パーセントである。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「上」、水掛りは「悪」とされている。
西村
にしむら
[現在地名]小国町北里
樅木川沿いに広がり、東は北里村、北西は下城村に接する。元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)には、近世に当村の小村となる尻江田が他三村とともに料木一本を負担している。また尻江田は文明九年(一四七七)七月二五日の阿蘇惟家置文写(満願寺文書)の満願寺(現南小国町)の寺領中にみえる。
西村
にしむら
[現在地名]加古川市西神吉町西村
宮ノ前村の南、神吉台地の中央部に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一七四石余・畑方二四石余。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(西村町内会文書)によると田一三町九反余・分米二〇一石余、畑三町五反・分米二八石余、新田畑一反余・分米三石余、小物成は夫口米・犬米・草藁銀、家数四七・人数二三九、牛八、池二(新櫃上之池・下池)、威鉄砲二、大歳神社・八王子社、観音堂・地蔵堂がある。
西村
にしむら
[現在地名]小国町西・幸町
北村の西に位置する。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二五五石余、免二ツ八分、家数七(うち役家一・肝煎一)・人数三七、役木として漆をあげる。蒲生氏高目録帳では小国を冠して北・西と併記され両所を合せ修正前の高は二六一石余、村柄は下。このことから邑鑑の高・戸数などは北村分を含んだ数値と考えられる。
西村
にしむら
[現在地名]三木市細川町西
細川中村の北西に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。寛永九年(一六三二)上知され、正保郷帳では幕府領で、田方一七七石余・畑方二九石余。元禄郷帳では高二二九石余。「寛文朱印留」に村名がみえないので、この頃も幕府領であったとみられる。その後松平直明が明石藩主となった天和二年(一六八二)か、二万石加増となった天保一三年(一八四二)のどちらかの時点で明石藩領となり、幕末に至る(「御年譜」松平家蔵、旧高旧領取調帳)。
西村
にしむら
[現在地名]久喜市東二―三丁目・西
「風土記稿」に「吉羽村ノ内に差入リタレハ、村ノ広サ及四境ノ村々別ニイヒカタシ」とあるように、吉羽村の中に点在する。百間領に所属。検地は吉羽村に同じ(同書)。田園簿によれば田高八二石余・畑高八七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三上領で、同領として幕末まで続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
西村
にしむら
[現在地名]坂内村広瀬
羽根村の西に位置する。正保郷帳では大垣藩領で、田七石余・畑八四石余・紙木高四石余、ほかに綿六〇匁・ひそ木一七一本・入木一七一束が課せられていた。元禄郷帳でも大垣藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田五石余・畑七五石余、田四反余・畑九町八反余、家数六四、男一八六・女一五八、牛三一。
西村
にしむら
[現在地名]藪塚本町藪塚
大間々扇状地中央東部に位置し、西は山神村、東は西野村。寛文年間(一六六一―七三)の笠懸野開発により西野村地先に成立した新田村。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)に「西野村新田場」とみえ、一万六千七〇五坪。元禄一〇年(一六九七)の笠懸野新田絵図(同家蔵)でも西野村新田とあり、民戸は描かれていない。
西村
にしむら
[現在地名]浜松市協和町
乙君村の南西、庄内半島の中ほどに位置。記録御用所本古文書によれば、寛永二年(一六二五)に当村の二九石余が旗本大沢氏に与えられている。元禄郷帳でも高二九石余。国立史料館本元禄郷帳・享保郷村高帳では旗本大沢領。
西村
にしむら
[現在地名]龍神村西
日高川沿いの山間の村。北は上流の宮代村、東は対岸東村、南西は下流の安井村。慶長検地高目録では村高九〇石余、小物成九斗三升三合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によると田畑九町余で村高九四石余、家数三五、人数一二八、牛六、鉄砲二。家数の内訳は本役八、無役二二、庄屋・杖突・肝煎各一、年寄二で、無役が圧倒的に多く、家数に比して田畑面積が少ないことから、農業より山稼中心の生活であったと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報