高岡町(読み)たかおかまち

日本歴史地名大系 「高岡町」の解説

高岡町
たかおかまち

高岡市のほぼ中央に位置。前田利長が慶長一四年(一六〇九)に築いた城下町で、廃城後は武家が加賀金沢城下へ移り、町人町となった。高岡町奉行が置かれ、町が川西かわにし七浦の津頭となり、高岡が北陸街道の宿駅に指定されると、越中西部の政治・経済の中心都市として発展した。長く守山もりやま城にいた前田利長は、庄川の氾濫原に浮かぶ関野せきの台地に注目し、隠居城を設けることとした。利長は交通路として小矢部おやべ川を整備し、陸路は北陸街道を福岡ふくおか(現福岡町)立野たての―高岡―大門だいもん(現大門町)水戸田みとだのルートに変え、水陸交通の要地とした。のち庄川の改修により、西を千保せんぼ川、東を庄川(中田川)が北流し、北は小矢部川が流れ、南には瑞龍ずいりゆう寺が配された。近接の村々は北は懸開発かけかいほつ村・湶分あわらぶん、南は鴨島かもじま村・上関かみぜき村、東は中川なかがわ村・下関しもぜき村、西は横田よこた村・内免ないめん村などであった。

〔城の建設と武家地〕

慶長一四年三月、富山城にいた前田利長は富山大火のため居城の移転を考え、徳川家康より内諾を得ると守山城の近くへ移ることとした。「不歩記」には、「関野ト申ヲ高岡ト御改、御城御築、同年八月十六日御入城」と記す。地名の高岡は、同年五月三〇日の金屋鋳物師引越申渡状(高岡市立博物館蔵)に「高おかへこし候て」とあり、漢字では「高岳」と書いたらしいが、「詩経」に「鳳凰鳴矣、于彼高岡」とあるのを採用して、「高岡」としたと伝える(三州志)。木町文書(高岡市木町自治会蔵)の慶長一四年四月一二日の木町衆屋敷御印では、「木まちの物ともやしき(屋敷)の事(中略)する加(駿河)より志しや(使者)かへり志たひ(次第)に其とき(時)まつ(先)木まちへわたし可申候」と記され、新しい城地はまだ定まっていない。高岡城の縄張り(設計)を行ったのはキリシタン大名として知られる高山南坊(右近)と伝えられる。同年高岡城が築かれると、富山衆全員が当地へ移った。侍屋敷は「御城前後及台ノ上、舛形ノ内」「或ハ土器町、本町迄ノ左右ニ多ク屋敷ヲ取」にあったが(高岡町図之弁)、同一六年八月、前田美作(五千石)・松平伯耆(八千石)・神尾主殿(九千石)・富田下総(八千一三〇石)など三九人、知行一〇万五三〇石が金沢城下へ帰り、屋敷は明地となった。高岡衆が金沢で得た屋敷地は、金沢衆よりも一ランク上であった(加賀藩御定書)。同一九年五月、利長が没すると残っていた武士も金沢に引越し、武家屋敷跡は明地となった。台地南側は下関村に続いており、同村の六六石余が高岳御屋敷奉行に渡された。


高岡町
たかおかちよう

面積:一四四・五八平方キロ

東諸県郡の南部に位置し、東は宮崎市、西は西諸県郡野尻のじり町、南西は北諸県郡高城たかじよう町、南は同郡山之口やまのくち町および宮崎郡田野たの町、北は国富くにとみ町およびあや町に接している。町域全体の約七〇パーセントが丘陵山系(最高標高四五四メートル)に囲まれる山林で、中央部を大淀川が蛇行しながら東流し、浦之名うらのみよう川・さかい川・飯田いいだ川などが合流する。中央部の飯田川と合流する辺りに平地があり、市街地となっている。中央を大淀川沿いに国道一〇号が通り、JRバスの駅として旧国道沿いの市街地に高岡駅(昭和九年設置)がある。

旧石器時代の遺跡はないが、表採資料として浦之名一里山いちりやま地区で出土した剥片尖頭器がある。縄文時代ではとくに早期と晩期の遺跡が多く、橋山はしやま第一遺跡(大字花見)あまじよう(大字内山)宗栄寺そうえいじ遺跡(大字小山田)橋上はしかみ遺跡(大字浦之名)久木野くぎの遺跡(大字浦之名)中原なかばる遺跡(大字五町)小田元こだもと遺跡(大字浦之名)の七遺跡で発掘調査が実施されている。弥生時代では、下倉永の学頭しもくらながのがくとう遺跡があげられる。同遺跡は縄文時代後期から近世までの遺物が確認される複合遺跡で、河川に挟まれた舌状の微高地に位置する生活遺跡である。また花見はなみじようみね遺跡では後期の遺物が出土している。古墳時代では、久木野地下式横穴墓群で三基の調査が行われており、六世紀前半の鉄斧・玉類が出土している。


高岡町
たかおかまち

[現在地名]金沢市高岡町・香林坊こうりんぼう二丁目

東は北陸街道沿いの石浦いしうら町・みなみ町・上堤かみつつみ町・下堤町に、南は石浦町、西は高岡町やぶうち、北は武家地に囲まれた地域で、おもに北陸街道に並行したほぼ南北に延びる通りを中心に、東西の町々に通じる小路よりなる。西への四本の小路はほぼ並行し、各々高岡町藪ノ内、または長町ながまち通に至る。石浦町からの小路を紙屋かみや小路、下堤町からの小路は中川入口なかがわいりぐち小路と称した(文化八年金沢町絵図名帳)。町名は、二代藩主前田利長が越中高岡に隠居し、晩年の慶長一六年(一六一一)一〇万石相当の家臣(高岡衆)を本藩に還付したが、その際の帰還武士の居住地にあてられたことにちなむ(金沢古蹟志)

元禄六年(一六九三)の侍帳にすでに町名がみられるが、広領域のため「堤町ノ後高岡町」などと記され、一方で「石浦町後」など町人居住町名を基準に表されることもある(前掲絵図名帳)


高岡町
たかおかまち

[現在地名]高岡町五町・内山・飯田

高岡郷の麓集落のうちに形成された野町で、五町ごちよう村・内山うちやま村・飯田いいだ村の三ヵ村にまたがる。うち五町村内が七割、内山村内が二割、飯田村内が一割を占めていた(日向地誌)。現在のしん町・なか町・かみ町・しも町の辺り。元禄国絵図には飯田村之内高岡村とあり、高は記されない。明暦三年(一六五七)一一月一九日入野いりの(現綾町)をたった東郷肥前一行は内山村例竿を行い、肥前は同日高岡町の八兵衛宅を宿とした(「日州諸外城引并例竿日帳」東郷家文書)


高岡町
たかおかまち

[現在地名]土佐市高岡町

高岡市たかおかいちを中心に発展した在郷町。高岡市は戦国時代から近世初頭にかけて、蓮池はすいけ城の東北約一キロの高岡郷(高岡村)西部に設けられた。天正一七年(一五八九)の高岡地検帳に「高岡市ヤシキ」として一〇三筆の屋敷と一六筆の畠がみえ、打出分を除いて二〇代の屋敷が七三筆、四〇代の屋敷が二一筆と整然とした規格をもって並ぶ。さらにこれらの屋敷は東西方向に延びる街道沿いの「立町」と、これに直交する南北に派出した「横町」に配列されており、計画的町割をもった市場集落であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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