高戸村
たかどむら
[現在地名]龍ヶ岳町高戸
上島の東南端にあり、東の樋島村と対面している。「和名抄」記載の高屋郷に比定する説もある。戦国時代高戸(鷹戸)氏が割拠したが、上津浦・栖本両氏の勢力下に揺れ動いた。
「八代日記」天文五年(一五三六)一〇月二一日条に「上津浦ヨリ鷹戸方屋形ヘ参上候」とみえ、弘治二年(一五五六)九月一四日上津浦氏は栖本氏勢との合戦で「鷹戸大タウ」を攻め破って六人を討取り、二〇人を生捕りにした。元和三年(一六一七)のイエズス会士コーロス徴収文書(「近世初期日本関係南蛮史料の研究」所収)の上津浦村(現有明町)の項に「きも入あちりあん 鷹戸市良兵衛」の署名があり、当時上津浦村のレジデンシア(宣教師駐在所)の教圏内にあったと推定される。
高戸村
たかどむら
[現在地名]高萩市高戸
関根川流域に平地が開ける。東は海に面し、海岸近くに台地が迫る。北は台地を介して赤浜村。
常陸国赤浜妙法寺過去帳の天文一二年(一五四三)に「妙泉尼五廿二タカト」とみえ、文禄四年(一五九五)の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)に「猟船九艘 弐貫七百文 竜子山領高戸村」とある。「松岡郡鑑」に寛政元年(一七八九)の人数四〇二、馬七五とあり、中山家々士筆「松岡郡鑑」には文化元年(一八〇四)の家数一二二・人数三八〇、馬五八、「公私書記」(渡辺家蔵)には安政三年(一八五六)の家数九六・人数四〇八、馬五八とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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