日本歴史地名大系 「高萩市」の解説 高萩市たかはぎし 面積:一九三・七九平方キロ県の北東部に位置し、東は太平洋、北は北茨城市。西部は阿武隈高地の支脈多賀山地が東に向かって傾斜し、東縁部は台地となり、平野は太平洋との間東西五キロほどの狭い地域に開ける。総面積の約七割五分は山林原野。竪破(たつわれ)山(六五八・三メートル)・土(つち)岳(五九九・七メートル)をはじめ、西の久慈郡里美村との分水嶺に標高六〇〇―八〇〇メートルの峰々が続く。これらを水源として関根(せきね)川・花貫(はなぬき)川がほぼ東流、山間部ではところにより狭隘なV字谷や狭小な谷底平野を形成し、海岸近くの下流域には肥沃な沖積平地が開ける。海岸線に沿って国鉄常磐線と国道六号が並行し、国道より県道が分岐して山側へ延びる。〔原始・古代〕先土器文化の上君田(かみきみだ)遺跡・宿(しゆく)遺跡・竪石(たていし)遺跡・赤浜(あかはま)遺跡・上手綱(かみてつな)遺跡がある。縄文時代では早期から晩期にかけての遺跡が広範に広がり、多賀山地山腹に竪石遺跡・上君田遺跡、多賀山地東麓に小場(おば)遺跡・釈迦堂(しやかどう)遺跡・大高台(おおたかだい)遺跡・前の内(まえのうち)遺跡など、多賀山地東麓尾根上に若狭前(わかさまえ)遺跡・館の坊(たてのぼう)遺跡・北久保(きたくぼ)遺跡・南原(みなみはら)遺跡など、花貫川の左岸台地上に新田前(しんでんまえ)遺跡・土器台(かわらけだい)遺跡・後田(うしろだ)遺跡・堀の内(ほりのうち)遺跡・宮の脇(みやのわき)遺跡など、関根川の丘陵性台地上に鐘撞堂(かねつきどう)遺跡・下上原(しもうわばら)遺跡・滝の脇(たきのわき)遺跡、海岸段丘上に大久保(おおくぼ)遺跡・堤(つつみ)遺跡などがある。弥生時代では中期の赤浜遺跡のほか、後期の遺跡が多く、十王台式土器の盛行期にあたる。上宿尻(わじゆくじり)遺跡・坂の上(さかのうえ)遺跡・館の坊遺跡・神馬塚(じんばづか)遺跡・寺跡(てらあと)遺跡・向原(むこうはら)遺跡・南原遺跡・若狭前遺跡などは台地縁辺部に、西原(にしはら)遺跡・地蔵前(じぞうまえ)遺跡・前塚(まえつか)遺跡・北久保溜池(きたくぼためいけ)遺跡などは谷地周辺部に、落ヵ沢(おちかさわ)遺跡・定田(さだた)遺跡・堤遺跡などは沖積地の真ん中にある低い独立性の小丘陵にある。古墳時代の遺跡は太平洋岸の海岸段丘上および海岸平野・丘陵性台地上に広く分布する。向原古墳群・石滝(いしたき)古墳群・赤浜古墳群・高戸(たかど)横穴群・大久保横穴群・竜貝(りゆうがい)横穴群・肥前山(ひぜんやま)古墳群・高萩山王(たかはぎさんのう)横穴・上原(うわばら)遺跡・宮後(みやうしろ)遺跡などである。とくに赤浜古墳群中の琵琶墓(びわはか)古墳は全長三三メートル、当地方最大の前方後円墳である。これらの古墳や横穴は六世紀から八世紀にかけての築造と考えられ、当地方が五世紀頃から大和朝廷の勢力下にあったことを示す。五世紀末から六世紀にかけ、当市を含む地域は「常陸国風土記」に記す多珂(高)国の地とされ、七世紀後半には多珂(たか)郡に属し、「和名抄」に載る多珂郡八郷のうち高野(たかの)郷・多珂郷・藻嶋(めしま)郷がほぼ当市域に比定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高萩市」の意味・わかりやすい解説 高萩〔市〕たかはぎ 茨城県北東部,太平洋に臨む市。 1954年高萩町,松岡町の2町と高岡村,および黒前 (くろさき) 村,櫛形村の2村の一部と合体して市制。律令時代は多珂郡の所在地。中世以後は大塚氏,佐竹氏,磐城氏,戸沢氏が交代して支配。江戸時代には水戸徳川家の領有地を経て,水戸藩付き家老中山信正の知行地。 1897年常磐線の開通後は常磐南部炭田の中心炭鉱都市として発達した。現在は産炭地振興政策により松久保工業団地の造成,花貫ダムの建設など地域開発が進められている。高萩海岸には海水浴場があり,土岳と花貫渓谷はハイキングの好適地。日立市との隣接部に KDDI茨城衛星通信所がある。安良川 (あらかわ) 八幡宮にある安良川の爺スギは国の天然記念物。沿岸部を JR常磐線,国道6号線が通り,461号線が分岐,常磐自動車道のインターチェンジがある。市域の一部が花園花貫県立自然公園に属する。面積 193.58km2。人口 2万7699(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by