日本歴史地名大系 「瀬戸浦」の解説
瀬戸浦
せとうら
〔中世〕
弘安四年(一二八一)七月二日、壱岐島沖に結集したモンゴル軍に対して、鎮西奉行少弐経資を総大将として肥前・肥後・筑前・薩摩などの御家人が攻撃を仕掛けており、瀬戸浦海戦ともいうが、「鎮西要略」は「松浦党・彼杵党・千葉・高木・龍造寺等数万の兵を以て壱岐島の瀬戸浦に襲ひ相戦ふ。先に克く勝に乗ず。異族は舸上の高楼に登り、大いに火鉄砲を放ち大いに之を禦がんとす。我が兵が為に砕き破るも死創は若干なり」と記している。同年七月二日の「壱岐島瀬戸浦」での合戦には肥前国御家人の龍造寺家清が参陣しており、合戦証人の起請文を肥前国守護の北条時定に提示し、時定は鎌倉幕府に披露することを約束している(同五年九月九日「肥前守護北条時定証状」龍造寺文書)。龍造寺系図(太宰府天満宮史料)には瀬戸浦で合戦したのは季時で、顕高が討死したと記されているが、「伏敵編」では季時が討死したことになっている。これより先、文永一一年(一二七四)頃瀬戸浦は
瀬戸浦
せとうら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報