高松宮宣仁(読み)タカマツノミヤ ノブヒト

20世紀日本人名事典 「高松宮宣仁」の解説

高松宮 宣仁
タカマツノミヤ ノブヒト

大正・昭和期の皇族,海軍軍人 大正天皇第三皇男子。



生年
明治38(1905)年1月3日

没年
昭和62(1987)年2月3日

出生地
東京・青山

学歴〔年〕
海大〔昭和11年〕卒

経歴
ご幼少時の称号光宮(てるのみや)。大正2年7月6日高松宮家を創立。昭和5年2月4日故徳川慶久二女・喜久子さまとご結婚。11年海軍大学校ご卒業。大本営海軍参謀などをつとめられた。敗戦時は海軍大佐。戦後は皇室会議議員、日本赤十字名誉副総裁、日仏協会総裁、日伊協会総裁、済生会総裁を歴任された。平成6年大正時代の少年期から敗戦直後まで27年間にわたって記していた日記が発見された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「高松宮宣仁」の意味・わかりやすい解説

高松宮宣仁
たかまつのみやのぶひと
(1905―1987)

皇族。大正天皇第三皇子。光宮(てるのみや)と称したが、1913年(大正2)高松宮の号を受け有栖川(ありすがわ)宮の祭祀(さいし)を継いだ。24年海軍兵学校卒業。30年(昭和5)徳川慶久(よしひさ)の次女喜久子(きくこ)と結婚、その後1年余のヨーロッパ訪問をする。海軍大学校卒業後、軍令部畑を歩き、42年大佐となる。太平洋戦争末期、国体護持による和平工作に尽力細川護貞(もりさだ)(元第二次近衛(このえ)内閣首相秘書官)の収集した情報を天皇に伝える役割を果たした。細川の『情報天皇に達せず』(のち『細川日記』と改題)はその間の事情を記したものである。戦後は皇室会議議員、国際文化振興会総裁などを務める。

[小田部雄次]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「高松宮宣仁」の意味・わかりやすい解説

高松宮宣仁【たかまつのみやのぶひと】

大正天皇第3皇子。幼称光宮(てるのみや)。有栖川宮家の家督を継ぎ,1913年宮家を創立。1930年徳川喜久子と結婚。海軍に籍を置き,敗戦時海軍大佐。

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367日誕生日大事典 「高松宮宣仁」の解説

高松宮 宣仁 (たかまつのみや のぶひと)

生年月日:1905年1月3日
明治時代-昭和時代の皇族,大正天皇第三皇男子
1987年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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