海軍(読み)カイグン(英語表記)navy

翻訳|navy

デジタル大辞泉 「海軍」の意味・読み・例文・類語

かいぐん【海軍】[書名]

獅子文六が、本名の岩田豊雄名義で発表した長編小説。主人公のモデルは真珠湾攻撃で戦死した軍人、横山正治。昭和17年(1942)朝日新聞に連載され、同年度の朝日文化賞を受賞。翌昭和18年(1943)、田坂具隆の監督・脚色により映画化。

かい‐ぐん【海軍】

海上の国防を主な任務とする軍備・軍隊。日本では江戸末期に成立。維新後は天皇の統帥のもとに陸軍と併存したが、第二次大戦後に廃止。
[補説]書名別項。→海軍

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精選版 日本国語大辞典 「海軍」の意味・読み・例文・類語

かい‐ぐん【海軍】

  1. 〘 名詞 〙 海上の国防を主たる任務とする軍備・軍隊の総称。海上兵力を主力とする軍隊。日本では明治以降、大日本帝国海軍が天皇を大元帥とする統率下に存在したが、第二次大戦後、解体された。〔和蘭字彙(1855‐58)〕
    1. [初出の実例]「海軍の如きに至りては他の諸侯嘗て之を有するものなし」(出典:日本開化小史(1877‐82)〈田口卯吉〉一三章)

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改訂新版 世界大百科事典 「海軍」の意味・わかりやすい解説

海軍 (かいぐん)
navy

海洋の軍備を総称し,国家がその軍事力を海洋に行使するすべての手段が含まれる。一般に軍備は陸・海・空の3軍に大別されるが,海軍の使命,編成,戦略は時代と国家形態に応じて変化した。初期の海軍は水上に乗り出す小武装団にすぎなかったが,今日では,広く水上・水中を活動舞台とする直接の戦闘部隊(艦船,航空機,潜水艦,海兵隊など)のほか,その統率や管理,維持のための組織と施設(官庁,工厰(こうしよう),基地,防備隊,病院,学校など)が含まれる。海軍の使命は元来,国家が必要とする海洋を制して,海を自国のために利用し敵側に利用させないこと,いわゆる制海権の獲得を目標とし,艦艇中心の戦闘部隊として独自に発達してきた。A.T.マハンの《海上権力史論》(1890)で定着した海軍本来のこの使命は,第2次世界大戦後も基本的には変わっていない。しかしミサイルを含む武器体系や電子機器による情報手段が飛躍的に発達して,戦争が多面化しつつある今日,海軍自体の独立的性格はしだいに薄れ,各国とも陸海空3軍の統合による軍事力の一体的運用の方向を模索中である。

古代の戦争は陸上戦闘が多く,海軍の演ずる役割は戦場への陸兵輸送や奇襲隊の揚陸など副次的なものであった。船自体もほとんど小型で,平時は交易や漁業に使われたものが,時に応じて戦闘や兵士の輸送に転用された。次いで衝角,渡り板を備えた漕走のガレー船が軍船として活躍する。古代海軍発祥の地は東地中海で,通商貿易や在外国民の保護を使命として生まれた。まずフェニキア海軍が前1400年から前500年ころまで地中海を支配し,次いでギリシア海軍が前300年ころまで制圧した。古代海戦の代表的な一例はサラミスの海戦(前480)である。対戦したペルシア,ギリシア両海軍とも主力は三段櫂座(かいざ)の軍船(120~200人乗り,80~90トン)で,陸兵が乗り込んで弓,槍,盾を使った敵船への斬込みや衝角による破壊が行われた。テミストクレスの率いるギリシア艦隊(310~380隻)はペルシア艦隊(450~600隻)を大敗させ,東方の専制政治に対してギリシア市民の自由と独立を守った。当時のギリシア軍船の船長は操船や船上任務専門の騎士で,国が派遣する将軍の指揮下に自分の船を就役させ,漕ぎ手は奴隷や捕虜から補充された。

 古代から中世にかけて地中海の交易が拡大するにつれて,海賊の跳梁も盛んになった。交易の安全をはかるため,カルタゴ,ローマ,東ローマ,サラセン,トルコの諸国は海軍を建設した。各国海軍は地中海の覇権をめぐって盛衰を繰り返した。11世紀以降はベネチア,ジェノバなど北イタリア都市国家の海軍が雄飛し,絹と香料を扱う独占的な東方貿易を保護した。やがて15~16世紀にはこの独占貿易に挑戦してポルトガルとスペインの海軍が登場し,舞台は地中海から世界の海へと広がっていく。こうした〈大航海時代〉の開幕は,コンパスの発明による航海術の発達,漕走から帆走への進歩,造船技術の向上,火薬と大砲の発明など,多くの技術革新によってもたらされたものである。中世最後で最大のレパントの海戦(1571)では,新旧戦術の優劣が争われ,スペインを中心にする西ヨーロッパの同盟艦隊がトルコ艦隊を破って,東西の決戦はふたたび西側が勝利した。戦闘ではなお櫂で漕ぐ300トン前後のガレー船が多く参加したが,500トン前後のガレオン船や1500トン前後のガレアス船まで登場し,火力が斬込みを圧倒する場面も見られた。一方,騎士階級が没落し,乗組員には専門の士官や水夫が多くなった。

 喜望峰を迂回するインド航路の開拓(1498)やアメリカ大陸の発見によって,軍艦,艦隊は大洋航海と洋上戦闘の時代へと移る。戦争と発見と交易がほぼ同じ意味をもつこの時代,商船も海賊や私掠(しりやく)船に備えて大砲を搭載した。18世紀末になるまで商船は備砲の数を除いては速力や外装で軍艦と大差がなかった。カリブ海やベルベル海岸の海賊の跳梁に悩まされたスペインは,中南米の植民地を保護し財貨を本国に輸送するために大艦隊を建設した。これに対抗してイギリスやオランダのプロテスタントの小貴族たちは私掠船を仕立てて挑戦した。私掠船と海賊の区別はあいまいで,彼らは補助海軍として海軍力の弱い政府の内密許可や暗黙の命令下に海賊行為をはたらき,ローマ教皇の権威によって確立されていたスペインやポルトガルの交易独占に挑戦した。とくにイギリスでは,プロテスタンティズムと愛国と略奪は同義語となり,堅実な商人からエリザベス女王自身までがこの有利な事業に出資して海賊国民の悪名を高めた。初期の私掠船では,船長,航海士のほか専門職の士官はまだ存在せず,水夫も商船員や漁夫のほか海賊や浮浪者からも徴募された。また船主,投資者,船長,乗員間の略奪品や拿捕(だほ)報償金の配分は,国と時代によって異なっていた。スペインのフェリペ2世はイギリスに侵入しようとして〈無敵艦隊〉130隻を派遣したが,かえって私掠船団から発展した計94隻のイギリス・オランダ同盟艦隊にイギリス海峡で敗れ(1588),その後衰えていった。

 ヨーロッパ近代国家の君主たちはその権力を維持し中央集権をすすめるために官僚と常備軍を創設したが,そのための財源として貨幣を必要とした。そこで輸出を奨励し国内の産業を保護育成することに努めた。この重商主義政策の実施のため,ヨーロッパ列強は原料の生産地ならびに製品の市場として植民地を必要とし,植民地獲得のための戦争が展開された。各国は競って海軍の拡張に乗り出した。スペイン,ポルトガルに代わって17世紀末まではオランダが制海権を握った。オランダは早くから商工業が発達し,通商貿易や海外企業に進出する冒険商人たちが多かったからである。一方,イギリスではクロムウェルの独裁時代に重商主義政策を推進するため,海軍が近代的に組織化され大拡張された。オランダ商船のイギリス港への出入を禁ずる航海条令の発布(1651)を契機に衝突したイギリス,オランダ両国の海軍は,北洋で3度にわたり制海権を争ったが決着はつかなかった。しかし編隊の機動や集中・分散,横陣による砲撃効果の最大化,封鎖による敵国への圧力行使など,組織的な海軍戦術と戦略が生まれたのはこのイギリス・オランダ戦争(英蘭戦争)からであった。国力の衰えたオランダに代わって,やがてフランスがイギリスの制海権に挑戦した。〈交易は戦争の一形態〉と見たコルベールによって海軍拡張が強行され,七年戦争(1756-63),フランス革命戦争,ナポレオン戦争(1796-1815)など,19世紀初頭にいたるまでイギリスの脅威となる。だがイギリスはトラファルガー(トラファルガル)の海戦(1805)をはじめとする海戦でフランスの挑戦をしりぞけた。この海戦は,帆走船時代の海戦の最大かつ最後のものとなった。

 絶対主義体制下のヨーロッパ列強は,海軍を国家権力の象徴であり手段であると見,私掠船を吸収する形で官僚制度,財政制度の整備と並行して海軍を発展させた。同時に統率・管理・財政面での陸・海軍の分離が始まった。常設海軍の維持には陸軍の保持以上に経費がかかり,より多くの専門職層を必要としたからである。18世紀末までに列強の海軍はしだいに専門職業化され,軍艦は国王の造船所で建造されるようになった。志願,強制徴募による兵員が軍隊として専任の正規士官によって指揮され,戦略も中央で策定されるようになった。こうして,17世紀初頭まではまだ野放しだったヨーロッパ社会の暴力的要素は国家秩序の枠内に封じこめられ,戦争遂行手段に国家支配がしだいに浸透した。これ以降,愛国心と専門主義とがヨーロッパ諸国間の戦争の中核となる。国家権力の確立と組織の発展がこのような専門的海軍を可能にした。同時に,洋上での長期にわたる商船護衛や封鎖・補給作戦,また編隊による機動や横陣による一斉砲撃など新しい海軍独自の戦略や戦術に応ずるため,海軍には規律と訓練と専門知識とが強く求められ,陸軍からいよいよ独立して専門化していった。トラファルガー沖でのフランス海軍大敗(38隻中約20隻が撃沈破)の主因は,革命によって専門職高官が追放され,指揮と補給の体系が分解していたことにあった。海戦後約1世紀にわたって,イギリスが〈七つの海〉の制海権を握り,〈パクス・ブリタニカ〉を支えた。イギリスはその海軍力をつねに他の2国海軍の合計力以上に維持する方針,すなわち〈二国標準主義〉を堅持し,拡大しつつある通商ルートの防衛,示威による政治的圧力の行使たる〈砲艦政策〉に利用した。

 一方,フランス革命で点火されたナショナリズムはヨーロッパ列強の国民を戦争に動員し,大衆軍隊と全体戦争の時代が開幕する。この傾向は19世紀後半の技術進歩でさらに拍車がかかった。とくに1840年代に発明された蒸気機関は速度,機動の点で軍艦に革命をもたらし,汽走艦隊の時代が到来する。しかも冶金工学や造船技術の発達は鉄を利用した大型の装甲艦を出現させ,攻撃力も後装の無反動砲や徹甲弾,また魚雷などの実用化にともない飛躍的に強大になった。トラファルガーの海戦での戦列艦はせいぜい2000トンにすぎなかったが1860年代の装甲艦では9000トンに,19世紀末には2万トンになる。玄側にあった大砲は180度旋回できる砲塔に移されて艦の中心線に収まり,20世紀初頭には射程も約20kmに達した。各国ともに,軍艦を国家近代化の象徴と見なし,砲の大きさ,速力,装甲の厚さを競い,遅れて海軍建設に乗り出した新興の日本,ドイツ,アメリカもこの建艦競争に参加する。こうした快速の装甲軍艦の威力は,リッサ海戦(1866),黄海海戦(1894)を経て,日本海海戦(1905)で決定的に証明された。

 日本海海戦でロシアのバルチック艦隊38隻中19隻を撃沈し5隻を捕獲した日本海軍の圧勝から,各国海軍はいよいよ大艦巨砲主義に傾斜,とくに,イギリスのドレッドノートの進水(1906)は砲数,口径,スピードで建艦上の革命をもたらした。なかでも戦艦は帝国主義時代における国家の威信と力の象徴となり,一国の工業力と技術水準を反映して巨費を投じての激烈な建艦競争が展開された。海軍の規模が拡大するにつれて,士官中の貴族出身者の比率が低下し,兵員も徴兵が志願兵を圧倒していく。新興のドイツ第二帝国は,〈ドイツの将来は海上にあり〉と信じた皇帝ウィルヘルム2世とティルピッツ提督の下に大航洋艦隊の建設に乗り出し,イギリスの制海権に挑戦した。20世紀初頭に始まった英独間のこの激烈な建艦競争も一因となって,やがて第1次世界大戦がひき起こされる。優勢のイギリス艦隊は北海,バルト海,地中海,大西洋でドイツ艦隊を追撃し決戦を挑んだが,ドイツ艦隊は守勢を堅持し沿岸防御に専念した。そこでイギリスは封鎖作戦を強化した。1916年のユトランド沖海戦は,前航空機時代のド級戦艦を主力とする史上最大のそして最後の艦隊戦闘となった。戦艦,巡洋戦艦など主力艦の隻数では劣るドイツ艦隊は,イギリス艦隊に大きな被害を与え戦術的には勝利したが,大西洋への進出を阻まれて戦略的に敗退し,北海に封じ込められた。これ以降,機雷や潜水艦による封鎖戦略や駆逐艦による船団護衛が戦争の様相を変え,長期持久の総力戦時代へと移っていく。両陣営ともに全海軍力を封鎖戦略に投入し,ドイツは外洋潜水艦を開発してイギリスを一時苦境に陥れた。しかし封鎖に悩んだドイツは,ついに無制限潜水艦戦を宣言(1917)してアメリカの参戦を招き,国力を消耗した末に敗北した。

 巨大化した海軍力の維持は,大戦後の各大国財政を圧迫した。アメリカの提唱でワシントン海軍軍縮条約が締結(1922)され,日英米仏伊の5ヵ国は,主力艦保有の比率を3:5:5:1.75:1.75に協定しひとまず建艦競争の緩和に成功した。次いでロンドン会議(1930)でも補助艦について日英米は同じ比率を承認し,潜水艦保有についても協定したが,仏伊は参加しなかった。しかしこうした軍縮条約による平和の維持(〈海軍休暇期naval holiday〉)は,各国の利害関係が複雑に対立して長く続かず,1936年以降無条約時代に突入し,建艦競争がふたたび激化した。戦間期の各国海軍はなお主力艦中心に編成され,戦略・戦術も艦隊決戦主義による制海権の奪取をめざしていた。一方,第1次大戦では,偵察や地上戦闘に協力する程度にすぎなかった航空機は,戦後その戦闘機能が飛躍的に向上した。イギリスはいちはやく空軍を独立させ,軍艦と航空機の優劣を問う海空戦略論争が展開された。国際連盟脱退後のナチス・ドイツは,ゲーリング元帥の下に大空軍の建設をはかり,イギリスの制海権を脅かした。だが総じて各国の保守的な海軍首脳部は,海戦における制空権の意義を評価しないまま第2次大戦に突入したのである。

 6年に及ぶ第2次大戦は,各国の工業力と人的資源を総動員した長期持久の大消耗戦であり,戦場も陸海空にわたり大規模に立体化した。軍艦に対する航空機の威力は,真珠湾攻撃マレー沖海戦(1941)で決定的に実証された。艦隊の編成も主力艦中心から航空母艦中心の機動部隊へとしだいに改編され,太平洋では航空基地の争奪戦が日米間で激しく展開した。前線と銃後の区別が失われ,空襲による生産力破壊と,機雷や潜水艦を併用した補給封鎖が勝敗を決した。ヨーロッパ海域でドイツの空軍や潜水艦は初め善戦したが,連合国側のレーダーやソナーなど電波・音響兵器に抑え込まれた。主力艦中心の水上艦艇は船団護衛などの脇役に回され,制空権の保護なしにはその攻撃力や抑止効果を発揮できなかった。軍艦中心の古典的海軍の時代はすでに第1次大戦で終わっていた。日米両海軍が全兵力を投入し史上最大規模の海空戦となったレイテ湾海戦(1944)は,空中,海上,海中で多様な戦闘形態を展開,太平洋戦争の一典型であったが,制空権を奪われた日本海軍の水上部隊は壊滅的な被害を受けた。

 第2次大戦後は,電子兵器,ジェットエンジンの超音速航空機,原子力推進の潜水艦や航空母艦(空母),ミサイルなどが飛躍的に発達し,艦艇や装備に一大革命をもたらし,同時に軍事費をいよいよ巨大化させつつある。現在も海軍の使命が制海権の獲得にあることに変りはないが,この使命を達成するためよく整備されているのはアメリカ海軍だけといってよい。アメリカは西側防衛の指導国家としての立場から,抑止と緊急展開の戦略に立って海軍力を重視し,1996年現在,大西洋,太平洋,インド洋・ペルシア湾・紅海,地中海,西太平洋に艦隊を派遣し,空母12,潜水艦95など大量の艦船を擁して世界に君臨している。冷戦下ではソ連はアメリカに対抗して,海上戦力の顕示による政治的軍事的影響力の行使を重視し,沿岸防衛型の海軍から保有量世界第1位の潜水艦を中心にした航洋型の海軍への発展を目指したが,ソ連崩壊後のロシア連邦は自衛に徹する軍事ドクトリンをとり,昔日のおもかげはない。
海戦
執筆者:

現在の海軍の任務および作戦のうち主要なものは以下の通りである。

海洋は,世界に通じており,運搬路として利用する場合,その運搬能力は大きい。前述のごとく,海上交通を確保し,自国の船団を安全に護送し(船団護衛),敵の商船などを攻撃し海上交通を阻止すること(通商破壊,もしくは海上交通破壊),すなわち制海は,古くから海軍の主要な任務であった。制海を確保するためには,敵に大きな損害を与える打撃力と,高速で自由に移動しうる機動力を必要とする。この目的にこたえるためさまざまな軍艦が造られてきた。とくに第2次大戦中より海軍航空兵力の重要度が高まり,それまでの大砲を主要兵器とする戦艦などの軍艦に代わって,空母が艦隊の中核的な位置を占めることになった。近年,遠距離から攻撃可能な対艦ミサイルが用いられるようになり,米・ソは海上にある軍艦を探知するための軍事衛星を配備し,軍艦が以前のような隠密性をもちえなくなるなどのため,制海を獲得する手段は著しく変化している。

(1)海上交通線の破壊,(2)艦船の攻撃(潜水艦,とくに敵の管制水域内にある戦略ミサイル潜水艦に対する攻撃を含む),(3)巡航ミサイルを使用した陸上の攻撃,(4)潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)などを使用した戦略攻撃(一般に(3)(4)は潜水艦戦に含めない)が潜水艦の主要任務である。潜水艦戦は,制海権の保持が戦争の勝敗に必ずしも死活的重要性をもたない大陸国の海洋国に対する作戦として重視されてきた。それは,その隠密性と大きな水中行動力のために,敵の制海・制空権内で有効な作戦を行いうる唯一の兵力だからである。冷戦終結後の現状においても潜水艦の保有隻数はロシア連邦においてはなはだしく多い。

 潜水艦を発見し,これを無力化する作戦を対潜水艦戦という。とくにSLBMや巡航ミサイルを搭載した潜水艦が核戦略の重要な一環を担うことになり,これに対する攻撃および味方の潜水艦を攻撃する潜水艦に対する対潜水艦戦が重視されることになった。近年SLBMの射程が増大したため,戦略潜水艦は自軍の管制水域から,世界中の目標を射程に入れることが可能となりつつある。
潜水艦

敵の抵抗が予想される海岸へ,抵抗を排除して揚陸する作戦をいう。第2次大戦の中期以降大規模に行われるようになった。この作戦は空母あるいは揚陸艦の艦載機の援護のもとで,ヘリコプター,揚陸艇などを使用して行う。水陸両用作戦で揚陸部隊の主力となるのは海兵隊である。海兵隊はもともとは艦船に乗り組み,艦隊戦闘では敵艦に横づけし,斬込隊となって白兵戦を演じ,その他上陸作戦,陸上の警備に従軍したものである。その後,海兵隊は固有の編成として陸上で教育訓練され,作戦時のみ艦船に乗り組んで水陸両用(上陸)作戦などに従事することになった。なお,陸戦隊は艦船固有の乗員で臨時に編成する上陸作戦,警備,救難などを任務とする部隊をいう。旧日本海軍では,固有の部隊として特別に編成され,海兵隊と同様の任務を行うものを特別陸戦隊と称した。
水陸両用作戦

機雷を利用し,局地,海峡,港湾などを閉塞し,あるいは艦船の航路にそって敷設し,通航艦船に損害を与える作戦を機雷戦といい,これを探知し無効化する作戦を対機雷戦という。
機雷 →掃海

敵の沿岸地域の軍事施設などの破壊を目的とするものである。第2次大戦中より,空母艦載機による陸上攻撃,戦艦部隊による艦砲射撃が大規模に行われるようになった。戦後はこの種の任務は空軍によって行われる場合が多いが,目標が海洋をへだてて存在し,陸上基地の威力圏外に存在する場合などは,優勢な空母と水上艦による砲爆撃やミサイル攻撃によって行われることが予想される。

上記の力を保持することにより,敵の攻撃を抑止する機能をもつ。抑止のうち戦略的核抑止は,各核兵器保有国で重視されている。敵の先制攻撃により破壊されにくい核戦力をもてば,敵は報復をおそれ核攻撃を加えなくなる(戦争を抑止できる)と考えられている。潜水艦,とくに原子力潜水艦は発見が困難であり,陸上基地にくらべ先制攻撃により破壊されにくい。このため,巡航ミサイルやSLBMを搭載する潜水艦の開発が1950年代より進められてきた。冷戦時代からSLBMを搭載した原子力潜水艦は最も信頼性のある核戦争の抑止力と考えられてきた。米,ソ(現,ロシア連邦),中,仏,英の各核保有国はSLBM搭載の潜水艦(一部非核動力)を配備してきた。

平時には,(1)航海,通商,漁業,在外居留民,在外権益などの保護,(2)遠隔の地に海軍を派遣し,海軍力のプレゼンス(顕示)により政治的影響力を行使するいわゆる砲艦外交などにたずさわる。(1)に関しては,主として自国の沿岸海域で,航海の安全,警備,救難,漁業保護,密輸取締りなどを任務とする沿岸警備隊を海軍組織とは別にもつ国がある。沿岸警備隊は戦時には海軍の指揮下に入るのが一般的であり,準海軍組織と見られている。

冷戦下で強力な海軍力をもつのはアメリカとソ連の2国のみであったが,ソ連崩壊後はアメリカが突出する状況となっている。

 アメリカは世界最大の海軍力をもち,多くの海外基地に支えられ世界の広い範囲で活動している。アメリカは大型正規空母を多数保有し,実質的に空母部隊を運用している唯一の国であり,制海の確保,陸上目標の攻撃に総合的な戦力を保持している。このほか,強力な海兵隊をもち,VTOL機を搭載する強襲揚陸艦など多数の揚陸艦艇を保有しており,水陸両用作戦能力においても優れている。また,SLBM潜水艦によって構成される強力な核戦力をもつ。

 ソ連は第2次大戦後,沿岸警備を主任務とする海軍を,外洋での作戦能力をもつ,アメリカに次ぐ世界第2の海軍へと急成長させた。ソ連海軍は,北海,バルト海,黒海,太平洋の4艦隊に分割されており,その出入口は北海艦隊および太平洋艦隊の一部をのぞき西側諸国に管制されやすいという地理的制約を受けていた。このため,海外基地獲得の努力を続け,1980年代にはベトナム,エチオピア,南イエメンなどの基地を追求した。ソ連艦隊の中心は潜水艦であった(ロシア連邦になっても1996年に133隻をもつ)。従来,空母を1隻ももたず,海軍航空兵力も陸上基地にのみ展開されていたが,75年以降VTOL機を搭載する空母の就役を開始し,80年代末の就役をめざし原子力推進の正規空母の建造も目指していたとされる。ソ連崩壊後のロシア連邦では全般的な軍縮がすすめられ,1996年に海軍の兵力は推定19万人(ソ連末期の89年には約44万人)であり,アメリカの約43万人(ほかに海兵隊17万余人)に比ぶべくもない。

 かつて世界の海に艦隊を展開していたイギリス海軍は,現在では規模も縮小され,海外からの撤収を完了し,その役割はおもにヨーロッパに限定されたものとなっている。イギリスをはじめとして西側ヨーロッパ諸国の大半は北大西洋条約機構(NATO)にアメリカとともに加盟し,集団安全保障体制をとっており,加盟各国はその海軍の一部またはすべてをNATO軍に編入している。これらヨーロッパ諸国は制海の確保をアメリカに依存しており,その海軍力も限定されたものとなっている。

 他の中小国,とくにいわゆる第三世界の海軍は沿岸警備を主任務とするものが多く,装備も,高速哨戒艇程度である場合が多い。これらの国にあってもインドとパキスタン,大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国など隣接諸国と対立をかかえる国,あるいは南アメリカ諸国などの中には,限定されてはいるが,制海,水陸両用作戦,潜水艦戦,機雷戦などの能力をもつ国がある。
海上自衛隊
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日本における近代的海軍の建設は幕末に開始された。ペリー艦隊の浦賀来航直後の1853年(嘉永6),幕府は鎖国以来の大船建造の禁を解き,水戸藩に石川島造船所開設を命じるとともに,海軍の編成に乗り出した。またオランダをはじめ欧米諸国から軍艦の買付けに努め,55年(安政2)日本最初の洋式軍艦観光丸をオランダから入手し,以後約15年間に45隻の洋式艦船を保有した。さらに幕府は海軍創設のため,55年長崎に海軍伝習所を開設し,57年には江戸に軍艦教授所(のちに軍艦操練所)を,63年(文久3)には兵庫に海軍操練所を設立し,幕臣や各藩藩士を集めて訓練した。同時に長崎や横須賀に造船所,製鉄所を設置して海軍建設の基礎づくりをした。幕府以外にも薩摩,肥前,土佐などの諸藩が軍艦購入と海軍建設に努めた。明治維新に際し,朝廷側は1隻の艦船も保有しておらず,諸藩所有の軍艦を指揮しただけであるが,明治新政府は68年(明治1)幕府軍艦4隻を没収し,さらに函館に逃れた榎本武揚を五稜郭の戦で降服させ,幕府所有の全艦を没収した。この後も諸藩所有の軍艦を徴集し,外国艦船購入にも努めて海上軍備の充実を急いだ。新政府の軍制では海軍独自の統轄機関はなく,海陸軍務課,軍防事務局,軍務官,兵部省と変遷したが,72年海軍省が独立した。またこの間1870年には,まちまちだった海軍の制式をイギリス式に統一することにし,教育機関として1869年海軍操練所,70年には海軍兵学寮(1876年に海軍兵学校と改称,88年広島県江田島に移る)を開設し,教育訓練のためイギリス人教官団を招くとともに,有能な幹部をイギリスに留学させた。また73年の徴兵制施行に際して,海軍は技術修得に時間がかかることを理由に,徴兵より志願兵制度を重視した。

 明治初年においては海軍は陸軍に従属的な位置にあり,陸主海従的な軍備政策が実行されたが,93年海軍独自の軍令機関としての海軍軍令部が設立され,日清戦争に備えて海軍の大規模な軍備拡張がはかられた。初期議会における紛糾の最大の原因は国民生活を圧迫するこの軍備拡張予算にあった。日清戦争では日本は軍艦31隻,水雷艇24隻で,艦船数では優勢な清国海軍と対戦したが,日本の連合艦隊は黄海海戦,威海衛作戦で勝利した。これは近代的な訓練戦法と新鋭艦を多く保有していたことによる。日清戦後は対露戦に備えて海軍拡張が急がれ,予算面で陸軍と対等になるとともに,六六艦隊(戦艦6,装甲巡洋艦6)の陣容を整えて日露開戦に臨んだ。海軍力では全体ではロシアが優勢だったが,日本側が新鋭艦を多く擁し,訓練・戦法にも優れ,連合艦隊は日本海海戦でロシア艦隊に大勝利を収めた。日露戦争後,日本海軍はアメリカを仮想敵国として大規模な軍備拡張に向かった。各国による建艦競争が始まると,軍艦の国産化を達成した日本は八八艦隊の実現を目ざした。しかし海軍予算は国家財政中最大の比重を占めて国民生活を圧迫し,国際的にも軍縮の世論が高まったため,1922年のワシントン海軍軍縮条約(四ヵ国条約)により主力艦の制限が実現した。こののち,補助艦の建艦競争が続いたが,30年のロンドン軍縮会議により制限が課せられた。軍縮条約締結をめぐっては,それまで一体性を保っていた海軍部内にも,海軍軍令部内を中心に反発の動きが台頭していたが,ロンドン条約をめぐり条約派と艦隊派の対立がいっきに激化した。満州事変後,派閥的人事により条約派の首脳が退陣させられ,海軍は軍縮条約離脱を目ざし,36年両条約の廃棄を実現する。政党政治が崩壊し軍部が台頭するなかで,海軍は陸軍に追随して軍備拡張の実をとり,戦艦〈大和〉〈武蔵〉などの巨大戦艦を建造した。日中戦争が全面化するなかで米内光政海相などは日独伊三国軍事同盟の締結に一時は抵抗したが,結局,海軍首脳は勝算のないまま日米開戦の道をたどることになった。太平洋戦争開戦にあたっては真珠湾奇襲攻撃で勝利を収めたが,42年6月のミッドウェー海戦に敗北し,以後惨敗を重ね,連合艦隊も潰滅した。敗戦直後,旧海軍機構の解体と武装解除がなされた。

 海軍は伝統的にイギリス海軍を模範とし,高度の機械技術に対応するため海軍兵学校の教育は理数系を重視し,また遠洋航海などで国際的接触も多く,海軍軍人は陸軍とくらべると国際性,合理性,近代性をもっていたといわれる。また陸軍がしばしば露骨に政治介入したのに対し,海軍は陸軍と政党の調停者となったり,〈穏健的〉立場を示して国民の期待を集めることがあった。しかし陸軍が徴兵制や在郷軍人会などにより強固な社会的基盤をもっていたのに対し,兵員数も少なく海上勤務の多い海軍は一般国民との接触が少なく,また首脳部は建艦を通じて大資本と関係が密接であった。海兵出身の海軍士官と下士官兵との身分的隔絶も大きく,スマートな海軍士官の様相とはうらはらに,部内の事大主義,保守主義は根強かった。昭和期には英米との艦艇比率に固執する硬直した戦略思想が風靡(ふうび)し,軍縮条約廃棄後は大艦巨砲主義にもとづく軍備拡張を強行し,太平洋戦争では航空優位が明らかになっても十分な対応ができなかった。また陸軍との対抗心は強く,作戦面でもしばしば対立したが,日米開戦にいたる過程では,自信のないまま陸軍の開戦論に追随した海軍首脳の責任は大きい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海軍」の意味・わかりやすい解説

海軍
かいぐん
navy

国家が保有する軍事力のうち、おもに海からの侵略阻止や海洋支配の維持を目的とする軍種をいう。人間は陸の生物であるが、一方、地球表面の3分の2は水に覆われている。戦争の場も、生活圏が拡大するにつれ、文明の母胎である川のほとりから海へと広がっていき、その過程で水面を戦闘空間とする海軍が生まれた。長い間、その力の行使の場は沿岸と風力に依存していたが、19世紀、動力推進機関が導入されると全海洋に及ぶ自在な活動が可能となり、さらに潜水艦や航空機の出現によって海軍の行動領域は、水上はもとより水中、空中を含む立体的なものへと拡大された。技術の進展により海軍戦術にも大きな区切りがある。古代から中世にかけての海戦は、木造帆船に武装した兵士を乗り込ませ、敵船に衝角(しょうかく)を突き当てて接舷(せつげん)させたあと船内に踏み込んでゆく、沿岸における「陸戦の延長」の域を出なかった。大航海時代の幕開きによって新大陸の発見、大洋への航海、植民地建設の時代が始まると、舷側に大砲を並べた帆走軍艦が海軍の主役となり、単横陣や単縦陣などの艦隊運動を行いながら砲戦の応酬で決着をつける海戦が一般的形態となった。その後、産業革命が鋼鉄、蒸気機関、旋回砲を出現させる時代の到来とともに、海軍と海戦の様式も革命的変化を遂げ、戦艦を主力とする艦隊決戦によって海洋そのものの支配を目ざす制海権獲得が列国海軍の目標となる。さらに第二次世界大戦以後の現代海軍においては、原子力推進艦艇による無制限の航続力や、海中から世界のどの地点をも核攻撃できるSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)はじめ各種ミサイルの開発により、その用法は海上支配のみに止まらなくなり、陸と海の境界が急速に失われつつある。

[前田哲男]

海軍の歴史

古代の海軍と海戦

海軍は国家の出現、文明の発達とともに姿を現した。最初にそれが目撃できるのは地中海世界においてである。紀元前2000年ごろのエジプト王国は多数の軍船をナイル川に浮かべていた。前1192年ラムセス3世の時代にペリシテ人とザカルス人をナイル河口に迎え撃った戦闘の様相は、メディネ・アブの薄浮彫りによって後世に残されているが、この時代エジプト王国がすでに多数の櫂(かい)と大きな角帆を備えた戦闘艦を保有していたことが示されている。しかし、エジプトの軍船はナイル川から出ようとしなかったので、地中海を最初に支配したのはフェニキア人たちであった。彼らは前1500年ごろから前332年アレクサンドロス大王に滅ぼされるまで、史上初の航海民族、通商都市国家として、地中海全域への航海はむろん、ジブラルタル海峡を越えてアフリカ周航さえ成し遂げていた。フェニキア人は3種類の船をつくったが、その一つは戦争用ガレー船で、船首に衝角(しょうかく)をもち、2列に並んだ漕(こ)ぎ手の席の外側に戦士が盾を舷側(げんそく)に立てて乗り組んだ。

 古代の海戦として名高いのは、ギリシアとペルシアの間で戦われたサラミスの海戦(前480)、およびローマの三頭政治が破綻(はたん)して起こった、オクタウィアヌス対アントニウス‐クレオパトラ連合軍によるアクティウムの海戦(前31)であろう。サラミスの海戦は、ダリウス1世の手で強大な帝国となったペルシアが、エーゲ海の支配者ギリシアを征服しようとして起こした長い戦争のいわば決戦にあたる戦闘である。ダリウス1世の子クセルクセス1世に率いられたペルシア帝国の大軍は、テルモピレーの戦いにギリシア軍を破りアクロポリスを陥落させ、最後の決をギリシア、アッティカの西方海岸に近い小島サラミス島に待機するギリシア艦隊を撃破することで達成しようと図った。ギリシア海軍310~380隻、ペルシア海軍450~600隻からなるガレー船の艦隊は、狭い湾内で激突して衝角と弓矢による戦闘を展開、クセルクセス1世は壊滅的損害を受けて敗走した。この海戦を契機にペルシアはギリシア征服を断念し、以後アテネの繁栄が花咲くことになる。サラミスの海戦はまた、強力な陸軍大国といえども海戦に勝利を収めない限り小さな海洋国を支配しえない制海権論の初めての実証でもあった。一方アクティウムの海戦は、カエサルの死後、養子オクタウィアヌスと、エジプト女王クレオパトラの魅力のとりことなったカエサルの部下アントニウスとの間で、両軍あわせて500隻近い軍船を動員し、イオニア海アクティウム沖で戦われた海戦である。アントニウス‐クレオパトラ連合軍の敗北によってエジプト王国は滅び帝政ローマが建設された。

[前田哲男]

中世の海軍と海戦

中世に入ると、火薬の発明と砲の実用化で海戦の規模は(依然、船上の陸戦であったとはいえ)拡大した。1571年、ギリシアのレパント沖でのオスマン・トルコと反トルコ神聖同盟(ベネチア、ジェノバ、スペイン、教皇、マルタ)間の海戦は、ガレー船艦隊どうしをもってする最後の大規模な戦いであった。オスマン・トルコはこの海戦を失い、なお最強の陸軍国を誇りながらも、以後ヨーロッパに進出することはできなくなった。教皇ピウス5世が、レパントの海戦の勝利を祝って10月7日を永遠の祝日と定めたことにも、この海戦がヨーロッパにもたらした意義の大きさをみることができる。レパント以後の海軍の目的と海戦の性格は、大航海時代の到来とともに、ヨーロッパ強国間における新大陸の植民地の争奪をめぐるものへと変わる。活動海域も地中海から大西洋、カリブ海、インド洋へと拡大し、ヨーロッパの帝国は植民地維持に不可欠な海洋交通路を支配する目的で外洋艦隊を建設して戦った。そのなかでスペイン無敵艦隊(アルマダ)とイギリス海軍の戦い(1588年、イギリス海軍勝利)、イギリスとオランダの3次にわたる海戦(1652~1673年、イギリス海軍優勢)などを経過しながら、18世紀に入ると海上権力はイギリスとフランスによって争われることになる。その頂点をなすのがトラファルガーの海戦(1805)で、ナポレオンが大陸ヨーロッパを征服した勢いをかってイギリスの海上支配力に挑戦したのに対し、ネルソン指揮のイギリス艦隊はフランス艦隊をスペインのトラファルガー沖で完敗させ、ナポレオンのイギリス侵攻計画を挫折(ざせつ)させるとともに、太陽の没することのない海洋帝国イギリスへの道を確立する。この海戦の主役となったのは、戦列艦とよばれる3本マストを帆装し3層の砲甲板をもつ木造船としては極限まで発展した艦で、イギリス27隻、フランス‐スペイン連合艦隊33隻の戦列艦が戦いに加わった。ネルソン座乗の「ビクトリー」は約3500排水トン、両舷に砲104門を積み、800人以上の乗組員を擁した。その戦法も衝角利用や斬(き)り込みではなく砲戦が主体であり、信号旗で発せられる命令の下、艦隊の分散集中能力の巧拙や射撃の速度、正確さが海戦の決め手となっていった。

[前田哲男]

大艦巨砲時代

トラファルガーの海戦を最後に、海軍史は帆船時代から鋼鉄船と蒸気船の時代へと移ってゆく。この時期までの海軍の歴史を研究したアメリカ海軍大学校校長A・Tマハンは、海軍力によって打ち立てられたシーパワー(海上権力)こそ世界支配の決定要因だとする制海権理論を、その著書『歴史に及ぼしたシーパワーの影響1660―1783』(邦訳題『海上権力史論』1890年刊)で発表し、各国の海軍政策と建艦計画に大きな影響を与えた。そして1905年(明治38)日露戦争のさなか、近代海戦のもっとも大規模な形としての日本海海戦が起き、日本艦隊がロシア艦隊に対してトラファルガー的な勝利を収めると、列国はこの生きた戦例とマハンの教義に従って大艦巨砲の艦隊整備を競うようになる。イギリスが口径12インチの巨砲と21ノットの速力をもつ戦艦「ドレッドノート」を建造(1906)すると、ド級、超ド級の巨艦時代が現出し、英・米・日3国を軸に激しい建艦競争が展開された。しかし第一次世界大戦における海戦は、大艦巨砲の戦艦どうしが戦ったユトランド沖海戦(1916)の帰趨(きすう)によるより、ドイツの無制限潜水艦戦によって大きく左右された。新興海軍国ドイツは、戦艦主体の水上戦闘ではイギリスに対し勝算はないと判断し、当時新兵器であった潜水艦に着目、Uボートを使って通商破壊戦と海のゲリラ活動を敢行した。潜水艦の出現によって海戦は水上と水中の二次元に拡大され、かつ中立国の船舶や商船をも撃沈の対象とする全面的で無警告・無制限の色合いを濃くするようになった。ドイツの無制限潜水艦戦は1か月間に423隻、84万9000トンの戦果(1917年4月)をあげたが、一方ではこの戦法に憤激した中立国アメリカの参戦を招く結果となり、ドイツ帝国を敗戦へと導く端緒ともなった。

 国力を度外視した建艦競争は、第一次世界大戦後の二度にわたる海軍軍備の制限を目的とする会議(1921~1922年のワシントン海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議)が開催されたことによって、英・米・日・仏・伊の主力艦保有量を5対5対3対1.75対1.75に制限し、また補助艦艇(巡洋艦、潜水艦など)に関しても日本の総括保有量を対米6.97割とするなどの妥協が図られたが、この条約によっても海軍軍拡を解消するに至らなかった。とくに日本では、この二つの軍縮会議を契機に海軍内部に条約に不信を抱く艦隊派と穏健派の条約派が反目をはじめるしこりを生み、「押し付けられたロンドン条約」の劣勢意識は、1936年(昭和11)末で有効期限が切れると、「大和(やまと)」「武蔵(むさし)」の巨大戦艦建造へとつながっていった。これに対抗してアメリカも対日戦を想定した大規模な建艦政策を進めたので、最大の海洋・太平洋が日米海軍の決戦場として認識されるようになった。

[前田哲男]

第二次世界大戦

第二次世界大戦は、海軍による戦いが世界の主要海域すべてに及んだ意味で、またその戦域が空中にまで広がって立体化、高速化した点でも空前の戦いであった。戦場を海洋と大陸に引き裂かれた日本とドイツが敗北し、海上交通路を守り抜いたイギリスと、自国を戦場の外に置き、多数の艦艇、航空機と軍需物資の渡洋輸送能力を開発したアメリカが、世界戦争における海戦の勝者となった。しかしこの戦争においても戦況は、海軍当局が事前に想定した大艦巨砲による艦隊決戦の形で進展することはなかった。大西洋では第一次世界大戦と同じくドイツ海軍のUボート対連合国軍の対潜作戦・船団護衛を軸に推移し、ドイツ潜水艦隊は戦争の全期間に連合国および中立国船舶2828隻、1468万トンを撃沈したが、自らも781隻のUボートを失い、戦争末期には商船1隻沈めるのに1.5隻のUボートを沈められる労功不償の戦いを強いられて敗退した。一方、太平洋戦域では、アメリカ海軍の空母機動部隊と水陸両用戦能力が、日本海軍の戦艦主力の決戦艦隊を制空戦闘と島嶼(とうしょ)獲得戦闘の消耗戦に引きずり込み、打ち破った。とくにガダルカナル戦以後定型となった島嶼基地争奪戦―航空基地建設―制空権獲得―制海権確保―戦線前進の戦闘方式と、それに適合させるべく建造された大量の水陸両用艦艇(典型的にはLST=戦車揚陸艦など上陸用舟艇)は、航空機とともに太平洋戦域の主役ともいうべき働きをした。こうして海戦史からみる第一次と第二次の世界大戦は、サラミスの海戦以来続いた、海上における戦闘艦どうしの決戦が戦争に決着をつけるという長い海軍の伝統に決別し、艦隊の存在は規模として最高度に充実されながらも、使用領域からみると船団護衛や対潜作戦、あるいはノルマンディー上陸作戦や沖縄戦に典型的に現れているように、渡洋侵攻、水陸両用戦、他兵種との連合作戦など、独立性と独自性を低下させる戦争に転換していった。海軍と海洋とがそれ自体一つの世界たりえた時代は終わったのである。

[前田哲男]

日本海軍の歴史

江戸時代の国防は、鎖国の徹底化による孤立・隔離政策に置かれていたため、江戸期以降200年余り、日本には海軍なる軍事力は存在しなかった。しかし19世紀に入って、西欧各国の軍船が開国を求めて日本に出没するようになると、にわかに海軍創設の声が高まった。海防論の先駆者としては林子平(しへい)、佐久間象山(しょうざん)、横井小楠(しょうなん)、坂本龍馬(りょうま)らの名があげられる。

 幕府はペリー艦隊来航2年後の1855年(安政2)、長崎に海軍伝習所を設立、オランダ海軍を範に、航海術、造船学、砲術などの習得、訓練に乗り出した。勝海舟(初代海軍卿(きょう))、川村純義(すみよし)(同2代)、榎本武揚(えのもとたけあき)(同3代)、中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)(初代海軍軍令部長)らの人材が同伝習所から巣立ってゆく。1860年(万延1)、勝海舟を指揮官とする咸臨(かんりん)丸が太平洋を横断してアメリカへ航海し、ここに近代海軍の礎石が築かれた。

 明治維新後、新政府は太政官(だじょうかん)の官制中に「海陸軍総務総督」を設けて海軍育成を開始、1869年(明治2)、東京・築地(つきじ)に海軍操練所(後の海軍兵学校)、また1871年に横須賀造船所(後の海軍工廠(こうしょう))を完成させるなど、海主陸従の国防政策を実施した。1868年、大阪天保山(てんぽうざん)沖で行われた最初の観艦式の参加艦艇はわずか6隻、排水量合計2450トンにすぎなかったが、1878年には国産の鋼鉄艦「清輝」(898トン)を完成させ、ヨーロッパ諸国へ初の遠洋航海を成し遂げるまでに成長した。明治海軍の創建期は、木造帆船から鋼鉄動力船への移行という、世界史的な技術転換期とも合致していたため、各国ともおおむね同一の条件下にあり、日本海軍は時代の利も得て急速に列国海軍中に頭角を現す存在となった。日清(にっしん)・日露の両戦争では、海軍の制海、輸送両面にわたる活動が大きく寄与した。日本海軍はこの両戦争に備え、常備艦隊、連合艦隊という近代的艦隊編制を確立、同時にそれまで陸軍参謀総長の下にあった統帥上の地位を陸軍と対等のものとした。清国とロシアの海軍力を打倒して以後、仮想敵はアメリカ海軍、想定戦場は西太平洋における艦隊決戦として描かれるようになる。

 大正から昭和初期の間、日本は世界の「三大海軍国」の地位を謳歌(おうか)した。戦艦「長門(ながと)」、「大和(やまと)」に代表される大艦巨砲時代の絶頂期である。しかし一方でアメリカ海軍との均衡を求めつつも、陸軍主導の大陸進出政策によって対米関係が悪化していくなかで、国力に勝るアメリカ海軍の大規模な増強に直面せねばならない時代環境でもあった。1941年(昭和16)12月の真珠湾奇襲は、日米間の艦隊勢力逆転を図る作戦であったが、結果的にはアメリカの国論を対日戦に一致させ、また空母中心の艦隊編制を促すことにより、日本海軍が長年温めてきた太平洋上における艦隊決戦の機はついに訪れず、戦況は空母機動部隊による制空権獲得と南・中部太平洋での島嶼(とうしょ)基地争奪戦が主軸となり、3年余りの戦いのすえ、日本海軍は壊滅した。

[前田哲男]

現代の海軍

第二次世界大戦後の海軍は、第一に原子力推進機関が開発され望むままの航続力が得られるようになった動力革命により、第二に、核兵器の出現およびその運搬手段が海洋に主要な活動領域を求めた戦術革命により、その目的と任務に大きな変化を刻み込むことになった。海軍の力の象徴も、戦艦から航空母艦へ、そして戦略ミサイルを搭載した原子力潜水艦へと移っていった。核抑止戦略の下で、核弾道ミサイルを搭載した戦略原潜の攻撃目標が、敵の海軍にではなく敵国の政治・軍事中枢の戦略的破壊に置かれた結果、古典的な海軍の任務が「敵艦隊の撃滅」「制海権の確保」にあった時代と異なり、「海から陸を制する」根源的な変化が現代海軍に持ち込まれたのである。

 冷戦期、米ソ両海軍は弾道ミサイル搭載潜水艦を34隻と80隻(1980年代)就役させ、相手国の陸上重要拠点を海からの射程に収めて常時哨戒(しょうかい)していた。双方が保有する戦略核弾頭の数は、この時期アメリカ9665発、ソ連8880発に達したが、このうちアメリカは5.3割、ソ連は2.6割を戦略潜水艦に搭載して海洋に展開させた。この一事に核時代がもたらした海洋と海軍の関係が根本的なところで変化していることが示されている。冷戦期の海軍は海洋に移動した戦略核兵器を軸に、したがって核大国であった米ソ両国海軍の活動を中心に東西両陣営に再編された。かつて七つの海に覇を唱えたイギリス海軍も、大西洋の局地勢力にすぎなくなった。

 核時代におけるアメリカ海軍の任務は、(1)ソ連に対する戦略的抑止、(2)海洋の管制、(3)陸上への戦力投入、(4)存在の誇示、の四つとされ、最大任務は「抑止と均衡」の維持および抑止が破れた場合、敵国内の戦略的破壊だと位置づけられていた。一方、ソ連側も、海軍総司令官ゴルシコフ元帥がその著書(『国家の海洋力』1976年刊)で明らかにしたとおり、海軍の主任務を「敵の陸上戦略目標を戦略ミサイル潜水艦によって破壊すること」と核による対陸上報復力を筆頭に掲げた。海洋核による米ソのせめぎ合いが頂点に達したのは1980年代で、1981年11月、第一艦が就役したアメリカ海軍の戦略原潜「オハイオ」(水中排水量1万8700トン)は、潜水艦発射弾道ミサイルのトライデントⅠ型C-4を24基艦内に格納しており、射程は7400キロメートル。各ミサイルにはMIRV(マーブ)(個別誘導複数目標弾頭)が組み込まれているので、最大192か所の陸上目標を核攻撃しうる能力をもった。これに対しソ連が開発した「タイフーン級」戦略原潜は水中排水量2.5万トン、ミサイル射出装置20基を有し、8300キロメートル離れた自国近海の水中や北極海の氷の下からアメリカ本土に核攻撃が可能と推定されていた。

 このように冷戦期にあっては核抑止戦略の主体が残存能力の高い戦略潜水艦に移された(初期は戦略爆撃機、ついで地上発射のICBMだった)ことにより、米ソ海軍は国家安全保障における中心的な軍事力として巨大な破壊力を有するに至ったが、しかしそれは在来型の海軍とはまったく違う、核による抑止戦略の遂行という役割によってであった。米ソだけでなく、わずかながら戦略原潜を保有する英・仏海軍にあっても、やはり同様な任務の転換が行われた。また中国も、核保有後はその一部を潜水艦に積んで海洋に移動させたので、核保有国の海軍はすべて核抑止戦略の担い手となった。冷戦の終結、ソ連解体に伴い、20世紀最終期の海洋支配者として残ったのは、アメリカ海軍であった。核抑止戦略をめぐる海洋の争覇に緩和期が訪れたのは確かだが、核軍縮にめどがたたない状況の下で、広大な核兵器の発射場としての海洋と海軍の役割はいまだ終わっていない。

 だがその一方で、第二次世界大戦後の国際関係を特徴づける主権国家の急激な増加と、それに伴う海洋ナショナリズム、すなわち領海の拡大(3海里から12海里)や排他的経済水域設定(200海里)にみられる海洋主権拡大の潮流は、中小国や第三世界の海軍に新たな挑戦の場を与える契機ともなった。同時にジェット推進やロケット推進の艦載ミサイルが出現したことで、かつての大艦巨砲にかわる海軍戦術も新しい時代の到来を告げた。1967年10月、第三次中東戦争のさなか、エジプト海軍の小さな警備艇がソ連供与の対艦ミサイル「スティックス(SS-N-2)」を用いてイスラエル軍の駆逐艦「エイラート」(2300トン)を撃沈したできごとは、ミサイル海軍時代の始まりとして各国海軍に大きな衝撃を与えた。1982年のフォークランド紛争においては、当初問題なく劣勢とみられていたアルゼンチン側が、対艦ミサイル「エグゾセ」(フランス製)を駆使して、水平線彼方の空中からイギリス駆逐艦「シェフィールド」(4100トン)など3隻を撃沈、世界を驚愕(きょうがく)させた。使用された6発の「エグゾセ」中、4発までが目標に命中したといわれる。この事実は、空母など巨大水上艦の生き残り能力に深刻な疑問を提示するとともに、中小国であっても小型・安価・操作簡便なPGM(精密誘導兵器)を装備することで、大国海軍と渡り合えるという教訓を残した。長期的観点にたつ限り、水上艦がミサイルのえじきになってしまう時代の到来は避けられそうにない。

 したがって、21世紀を迎えた海軍の地位は、一方で核ミサイルの長距離化と発射基地の海中移動がなされた結果、海洋戦略の独自性が失われ、他方、従来無視するに足る存在でしかなかった中小国に対する大国の決定的優位も崩れつつあるという、両面での転換期に直面しているといえよう。

[前田哲男]

『麻田貞雄訳・解説『アメリカ古典文庫8 アルフレッド・T・マハン』(1977・研究社)』『外山三郎著『西欧海戦史 サラミスからトラファルガーまで』(1981・原書房)』『池田清著『海軍と日本』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「海軍」の意味・わかりやすい解説

海軍【かいぐん】

制海権の確保維持を目的とする軍事組織。平時の任務として航海,通商,貿易,海外居住,植民地の保護,水路調査などを行う。艦艇部隊のほかに航空部隊,陸戦部隊などを包含し,これらの指揮,管理,補給,維持の組織を総称する。 紀元前のフェニキア,ギリシア,ペルシアなどで海軍が発達し,カルタゴ,ローマ,トルコ,北イタリア諸都市に継承された。15−16世紀にはポルトガル,スペインの海軍が有勢であったが,オランダ,イギリスが台頭し,フランス,ドイツ,アメリカなどがこれを追った。 日本海軍の基礎となったのは,江戸幕府の海軍伝習所,軍艦伝習所,海軍操練所などでオランダ式であったが,1870年以後海軍の制式は英国式に統一。海軍省軍令部の設置など制度が整えられた。日露戦争後は米国を仮想敵国として大艦巨砲主義にのっとる膨大な建艦が行われ,海軍予算は国家財政中最大となった。第1次大戦後,ワシントン条約(ワシントン会議),ロンドン条約(ロンドン会議)で国際的建艦競争は一時中断した。1930年代の無条約時代に入って巨艦大和・武蔵や多数の空母が建造されたが,太平洋戦争で壊滅。 第2次大戦後,原子力潜水艦航空母艦,ミサイルなどが米ソ両国を中心に研究開発され,艦艇や装備は飛躍的に発達した。1998年現在の米ロの主要保有艦艇数などは次のとおり。米国は,兵力37万320人,海兵隊17万2620人,潜水艦55隻,空母11隻,主要水上戦闘艦142隻。ロシアは,兵力18万人,潜水艦98隻,主要水上戦闘艦44隻。→海軍大学校海軍兵学校軍隊
→関連項目空軍軍艦戦艦潜水艦鎮守府予科練陸軍陸戦隊

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海軍」の意味・わかりやすい解説

海軍
かいぐん
navy

主として海洋,湖水,河川などの水上,水中およびその上空において国の防衛を任務とする武装兵力,およびこれを建設し,支持し運用する国家の機関。平時には,航海,貿易,漁業,在外居留民,権益などの保護にあたる。戦時には敵の海軍力を撃滅して制海権を獲得し,これを戦争目的達成のために行使する。敵の海上交通の破壊によって,敵の国力に打撃を与え,あるいは戦略ミサイル搭載の潜水艦によって戦略攻撃を行い,その潜在力によって戦争の抑止を任務とするものもある。フェニキア,ギリシア,ローマなど古代から海軍は創設されており,前5世紀頃のアテネ海軍は 300隻の軍艦を保有していた。ポエニ戦争当時のローマ,カルタゴ海軍はガレー船から成り,平常は帆走し,戦闘に際しては櫂 (オール) によって推進し,接舷移乗して白兵戦を演じていた。 15~16世紀には,航海術,造船術の発達と東洋への航路開拓の欲求から大航海時代が始り,外洋海軍時代となって,ポルトガル,スペイン,オランダ,フランス,イギリスなどは海外植民地の獲得とその航路の安全維持のため,競って大海軍を建設した。 19世紀初め頃ナポレオン1世の敗退によって,世界の制海権はイギリスの手に帰し,イギリスは海洋帝国を建設した。第1,2次世界大戦を経て,世界の海洋支配力はアメリカの手に帰したが,1960年代以後ソ連海軍力の増強によって一時,米ソ二大海軍力の対決時代となった。現代の海軍は,弾道ミサイル原子力潜水艦が戦略兵力の中核的存在となっており,航空母艦は依然外洋における制海兵力の主力的存在である。その他潜水艦を主とする海上交通破壊兵力,艦艇,航空機,固定施設,潜水艦より成る対潜兵力,上陸作戦を任務とする水陸両用作戦兵力,機雷敷設,機雷掃海を任務とする航空機を含む機雷戦,対機雷戦兵力などより成っている。多くの国では陸戦を主任務とする海兵隊も海軍の一部である。

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デジタル大辞泉プラス 「海軍」の解説

海軍

1943年公開の日本映画。監督・脚色:田坂具隆、原作:岩田豊雄(獅子文六)による同名小説、脚色:沢村勉、撮影:伊佐山三郎。出演:山内明、風見章子、瀧花久子、志村久、青山和子、小杉勇、原保美ほか。

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