精選版 日本国語大辞典 「海軍」の意味・読み・例文・類語
かい‐ぐん【海軍】
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国家が保有する軍事力のうち、おもに海からの侵略阻止や海洋支配の維持を目的とする軍種をいう。人間は陸の生物であるが、一方、地球表面の3分の2は水に覆われている。戦争の場も、生活圏が拡大するにつれ、文明の母胎である川のほとりから海へと広がっていき、その過程で水面を戦闘空間とする海軍が生まれた。長い間、その力の行使の場は沿岸と風力に依存していたが、19世紀、動力推進機関が導入されると全海洋に及ぶ自在な活動が可能となり、さらに潜水艦や航空機の出現によって海軍の行動領域は、水上はもとより水中、空中を含む立体的なものへと拡大された。技術の進展により海軍戦術にも大きな区切りがある。古代から中世にかけての海戦は、木造帆船に武装した兵士を乗り込ませ、敵船に衝角(しょうかく)を突き当てて接舷(せつげん)させたあと船内に踏み込んでゆく、沿岸における「陸戦の延長」の域を出なかった。大航海時代の幕開きによって新大陸の発見、大洋への航海、植民地建設の時代が始まると、舷側に大砲を並べた帆走軍艦が海軍の主役となり、単横陣や単縦陣などの艦隊運動を行いながら砲戦の応酬で決着をつける海戦が一般的形態となった。その後、産業革命が鋼鉄、蒸気機関、旋回砲を出現させる時代の到来とともに、海軍と海戦の様式も革命的変化を遂げ、戦艦を主力とする艦隊決戦によって海洋そのものの支配を目ざす制海権獲得が列国海軍の目標となる。さらに第二次世界大戦以後の現代海軍においては、原子力推進艦艇による無制限の航続力や、海中から世界のどの地点をも核攻撃できるSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)はじめ各種ミサイルの開発により、その用法は海上支配のみに止まらなくなり、陸と海の境界が急速に失われつつある。
[前田哲男]
海軍は国家の出現、文明の発達とともに姿を現した。最初にそれが目撃できるのは地中海世界においてである。紀元前2000年ごろのエジプト王国は多数の軍船をナイル川に浮かべていた。前1192年ラムセス3世の時代にペリシテ人とザカルス人をナイル河口に迎え撃った戦闘の様相は、メディネ・アブの薄浮彫りによって後世に残されているが、この時代エジプト王国がすでに多数の櫂(かい)と大きな角帆を備えた戦闘艦を保有していたことが示されている。しかし、エジプトの軍船はナイル川から出ようとしなかったので、地中海を最初に支配したのはフェニキア人たちであった。彼らは前1500年ごろから前332年アレクサンドロス大王に滅ぼされるまで、史上初の航海民族、通商都市国家として、地中海全域への航海はむろん、ジブラルタル海峡を越えてアフリカ周航さえ成し遂げていた。フェニキア人は3種類の船をつくったが、その一つは戦争用ガレー船で、船首に衝角(しょうかく)をもち、2列に並んだ漕(こ)ぎ手の席の外側に戦士が盾を舷側(げんそく)に立てて乗り組んだ。
古代の海戦として名高いのは、ギリシアとペルシアの間で戦われたサラミスの海戦(前480)、およびローマの三頭政治が破綻(はたん)して起こった、オクタウィアヌス対アントニウス‐クレオパトラ連合軍によるアクティウムの海戦(前31)であろう。サラミスの海戦は、ダリウス1世の手で強大な帝国となったペルシアが、エーゲ海の支配者ギリシアを征服しようとして起こした長い戦争のいわば決戦にあたる戦闘である。ダリウス1世の子クセルクセス1世に率いられたペルシア帝国の大軍は、テルモピレーの戦いにギリシア軍を破りアクロポリスを陥落させ、最後の決をギリシア、アッティカの西方海岸に近い小島サラミス島に待機するギリシア艦隊を撃破することで達成しようと図った。ギリシア海軍310~380隻、ペルシア海軍450~600隻からなるガレー船の艦隊は、狭い湾内で激突して衝角と弓矢による戦闘を展開、クセルクセス1世は壊滅的損害を受けて敗走した。この海戦を契機にペルシアはギリシア征服を断念し、以後アテネの繁栄が花咲くことになる。サラミスの海戦はまた、強力な陸軍大国といえども海戦に勝利を収めない限り小さな海洋国を支配しえない制海権論の初めての実証でもあった。一方アクティウムの海戦は、カエサルの死後、養子オクタウィアヌスと、エジプト女王クレオパトラの魅力のとりことなったカエサルの部下アントニウスとの間で、両軍あわせて500隻近い軍船を動員し、イオニア海アクティウム沖で戦われた海戦である。アントニウス‐クレオパトラ連合軍の敗北によってエジプト王国は滅び帝政ローマが建設された。
[前田哲男]
中世に入ると、火薬の発明と砲の実用化で海戦の規模は(依然、船上の陸戦であったとはいえ)拡大した。1571年、ギリシアのレパント沖でのオスマン・トルコと反トルコ神聖同盟(ベネチア、ジェノバ、スペイン、教皇、マルタ)間の海戦は、ガレー船艦隊どうしをもってする最後の大規模な戦いであった。オスマン・トルコはこの海戦を失い、なお最強の陸軍国を誇りながらも、以後ヨーロッパに進出することはできなくなった。教皇ピウス5世が、レパントの海戦の勝利を祝って10月7日を永遠の祝日と定めたことにも、この海戦がヨーロッパにもたらした意義の大きさをみることができる。レパント以後の海軍の目的と海戦の性格は、大航海時代の到来とともに、ヨーロッパ強国間における新大陸の植民地の争奪をめぐるものへと変わる。活動海域も地中海から大西洋、カリブ海、インド洋へと拡大し、ヨーロッパの帝国は植民地維持に不可欠な海洋交通路を支配する目的で外洋艦隊を建設して戦った。そのなかでスペイン無敵艦隊(アルマダ)とイギリス海軍の戦い(1588年、イギリス海軍勝利)、イギリスとオランダの3次にわたる海戦(1652~1673年、イギリス海軍優勢)などを経過しながら、18世紀に入ると海上権力はイギリスとフランスによって争われることになる。その頂点をなすのがトラファルガーの海戦(1805)で、ナポレオンが大陸ヨーロッパを征服した勢いをかってイギリスの海上支配力に挑戦したのに対し、ネルソン指揮のイギリス艦隊はフランス艦隊をスペインのトラファルガー沖で完敗させ、ナポレオンのイギリス侵攻計画を挫折(ざせつ)させるとともに、太陽の没することのない海洋帝国イギリスへの道を確立する。この海戦の主役となったのは、戦列艦とよばれる3本マストを帆装し3層の砲甲板をもつ木造船としては極限まで発展した艦で、イギリス27隻、フランス‐スペイン連合艦隊33隻の戦列艦が戦いに加わった。ネルソン座乗の「ビクトリー」は約3500排水トン、両舷に砲104門を積み、800人以上の乗組員を擁した。その戦法も衝角利用や斬(き)り込みではなく砲戦が主体であり、信号旗で発せられる命令の下、艦隊の分散集中能力の巧拙や射撃の速度、正確さが海戦の決め手となっていった。
[前田哲男]
トラファルガーの海戦を最後に、海軍史は帆船時代から鋼鉄船と蒸気船の時代へと移ってゆく。この時期までの海軍の歴史を研究したアメリカ海軍大学校校長A・Tマハンは、海軍力によって打ち立てられたシーパワー(海上権力)こそ世界支配の決定要因だとする制海権理論を、その著書『歴史に及ぼしたシーパワーの影響1660―1783』(邦訳題『海上権力史論』1890年刊)で発表し、各国の海軍政策と建艦計画に大きな影響を与えた。そして1905年(明治38)日露戦争のさなか、近代海戦のもっとも大規模な形としての日本海海戦が起き、日本艦隊がロシア艦隊に対してトラファルガー的な勝利を収めると、列国はこの生きた戦例とマハンの教義に従って大艦巨砲の艦隊整備を競うようになる。イギリスが口径12インチの巨砲と21ノットの速力をもつ戦艦「ドレッドノート」を建造(1906)すると、ド級、超ド級の巨艦時代が現出し、英・米・日3国を軸に激しい建艦競争が展開された。しかし第一次世界大戦における海戦は、大艦巨砲の戦艦どうしが戦ったユトランド沖海戦(1916)の帰趨(きすう)によるより、ドイツの無制限潜水艦戦によって大きく左右された。新興海軍国ドイツは、戦艦主体の水上戦闘ではイギリスに対し勝算はないと判断し、当時新兵器であった潜水艦に着目、Uボートを使って通商破壊戦と海のゲリラ活動を敢行した。潜水艦の出現によって海戦は水上と水中の二次元に拡大され、かつ中立国の船舶や商船をも撃沈の対象とする全面的で無警告・無制限の色合いを濃くするようになった。ドイツの無制限潜水艦戦は1か月間に423隻、84万9000トンの戦果(1917年4月)をあげたが、一方ではこの戦法に憤激した中立国アメリカの参戦を招く結果となり、ドイツ帝国を敗戦へと導く端緒ともなった。
国力を度外視した建艦競争は、第一次世界大戦後の二度にわたる海軍軍備の制限を目的とする会議(1921~1922年のワシントン海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議)が開催されたことによって、英・米・日・仏・伊の主力艦保有量を5対5対3対1.75対1.75に制限し、また補助艦艇(巡洋艦、潜水艦など)に関しても日本の総括保有量を対米6.97割とするなどの妥協が図られたが、この条約によっても海軍軍拡を解消するに至らなかった。とくに日本では、この二つの軍縮会議を契機に海軍内部に条約に不信を抱く艦隊派と穏健派の条約派が反目をはじめるしこりを生み、「押し付けられたロンドン条約」の劣勢意識は、1936年(昭和11)末で有効期限が切れると、「大和(やまと)」「武蔵(むさし)」の巨大戦艦建造へとつながっていった。これに対抗してアメリカも対日戦を想定した大規模な建艦政策を進めたので、最大の海洋・太平洋が日米海軍の決戦場として認識されるようになった。
[前田哲男]
第二次世界大戦は、海軍による戦いが世界の主要海域すべてに及んだ意味で、またその戦域が空中にまで広がって立体化、高速化した点でも空前の戦いであった。戦場を海洋と大陸に引き裂かれた日本とドイツが敗北し、海上交通路を守り抜いたイギリスと、自国を戦場の外に置き、多数の艦艇、航空機と軍需物資の渡洋輸送能力を開発したアメリカが、世界戦争における海戦の勝者となった。しかしこの戦争においても戦況は、海軍当局が事前に想定した大艦巨砲による艦隊決戦の形で進展することはなかった。大西洋では第一次世界大戦と同じくドイツ海軍のUボート対連合国軍の対潜作戦・船団護衛を軸に推移し、ドイツ潜水艦隊は戦争の全期間に連合国および中立国船舶2828隻、1468万トンを撃沈したが、自らも781隻のUボートを失い、戦争末期には商船1隻沈めるのに1.5隻のUボートを沈められる労功不償の戦いを強いられて敗退した。一方、太平洋戦域では、アメリカ海軍の空母機動部隊と水陸両用戦能力が、日本海軍の戦艦主力の決戦艦隊を制空戦闘と島嶼(とうしょ)獲得戦闘の消耗戦に引きずり込み、打ち破った。とくにガダルカナル戦以後定型となった島嶼基地争奪戦―航空基地建設―制空権獲得―制海権確保―戦線前進の戦闘方式と、それに適合させるべく建造された大量の水陸両用艦艇(典型的にはLST=戦車揚陸艦など上陸用舟艇)は、航空機とともに太平洋戦域の主役ともいうべき働きをした。こうして海戦史からみる第一次と第二次の世界大戦は、サラミスの海戦以来続いた、海上における戦闘艦どうしの決戦が戦争に決着をつけるという長い海軍の伝統に決別し、艦隊の存在は規模として最高度に充実されながらも、使用領域からみると船団護衛や対潜作戦、あるいはノルマンディー上陸作戦や沖縄戦に典型的に現れているように、渡洋侵攻、水陸両用戦、他兵種との連合作戦など、独立性と独自性を低下させる戦争に転換していった。海軍と海洋とがそれ自体一つの世界たりえた時代は終わったのである。
[前田哲男]
江戸時代の国防は、鎖国の徹底化による孤立・隔離政策に置かれていたため、江戸期以降200年余り、日本には海軍なる軍事力は存在しなかった。しかし19世紀に入って、西欧各国の軍船が開国を求めて日本に出没するようになると、にわかに海軍創設の声が高まった。海防論の先駆者としては林子平(しへい)、佐久間象山(しょうざん)、横井小楠(しょうなん)、坂本龍馬(りょうま)らの名があげられる。
幕府はペリー艦隊来航2年後の1855年(安政2)、長崎に海軍伝習所を設立、オランダ海軍を範に、航海術、造船学、砲術などの習得、訓練に乗り出した。勝海舟(初代海軍卿(きょう))、川村純義(すみよし)(同2代)、榎本武揚(えのもとたけあき)(同3代)、中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)(初代海軍軍令部長)らの人材が同伝習所から巣立ってゆく。1860年(万延1)、勝海舟を指揮官とする咸臨(かんりん)丸が太平洋を横断してアメリカへ航海し、ここに近代海軍の礎石が築かれた。
明治維新後、新政府は太政官(だじょうかん)の官制中に「海陸軍総務総督」を設けて海軍育成を開始、1869年(明治2)、東京・築地(つきじ)に海軍操練所(後の海軍兵学校)、また1871年に横須賀造船所(後の海軍工廠(こうしょう))を完成させるなど、海主陸従の国防政策を実施した。1868年、大阪天保山(てんぽうざん)沖で行われた最初の観艦式の参加艦艇はわずか6隻、排水量合計2450トンにすぎなかったが、1878年には国産の鋼鉄艦「清輝」(898トン)を完成させ、ヨーロッパ諸国へ初の遠洋航海を成し遂げるまでに成長した。明治海軍の創建期は、木造帆船から鋼鉄動力船への移行という、世界史的な技術転換期とも合致していたため、各国ともおおむね同一の条件下にあり、日本海軍は時代の利も得て急速に列国海軍中に頭角を現す存在となった。日清(にっしん)・日露の両戦争では、海軍の制海、輸送両面にわたる活動が大きく寄与した。日本海軍はこの両戦争に備え、常備艦隊、連合艦隊という近代的艦隊編制を確立、同時にそれまで陸軍参謀総長の下にあった統帥上の地位を陸軍と対等のものとした。清国とロシアの海軍力を打倒して以後、仮想敵はアメリカ海軍、想定戦場は西太平洋における艦隊決戦として描かれるようになる。
大正から昭和初期の間、日本は世界の「三大海軍国」の地位を謳歌(おうか)した。戦艦「長門(ながと)」、「大和(やまと)」に代表される大艦巨砲時代の絶頂期である。しかし一方でアメリカ海軍との均衡を求めつつも、陸軍主導の大陸進出政策によって対米関係が悪化していくなかで、国力に勝るアメリカ海軍の大規模な増強に直面せねばならない時代環境でもあった。1941年(昭和16)12月の真珠湾奇襲は、日米間の艦隊勢力逆転を図る作戦であったが、結果的にはアメリカの国論を対日戦に一致させ、また空母中心の艦隊編制を促すことにより、日本海軍が長年温めてきた太平洋上における艦隊決戦の機はついに訪れず、戦況は空母機動部隊による制空権獲得と南・中部太平洋での島嶼(とうしょ)基地争奪戦が主軸となり、3年余りの戦いのすえ、日本海軍は壊滅した。
[前田哲男]
第二次世界大戦後の海軍は、第一に原子力推進機関が開発され望むままの航続力が得られるようになった動力革命により、第二に、核兵器の出現およびその運搬手段が海洋に主要な活動領域を求めた戦術革命により、その目的と任務に大きな変化を刻み込むことになった。海軍の力の象徴も、戦艦から航空母艦へ、そして戦略ミサイルを搭載した原子力潜水艦へと移っていった。核抑止戦略の下で、核弾道ミサイルを搭載した戦略原潜の攻撃目標が、敵の海軍にではなく敵国の政治・軍事中枢の戦略的破壊に置かれた結果、古典的な海軍の任務が「敵艦隊の撃滅」「制海権の確保」にあった時代と異なり、「海から陸を制する」根源的な変化が現代海軍に持ち込まれたのである。
冷戦期、米ソ両海軍は弾道ミサイル搭載潜水艦を34隻と80隻(1980年代)就役させ、相手国の陸上重要拠点を海からの射程に収めて常時哨戒(しょうかい)していた。双方が保有する戦略核弾頭の数は、この時期アメリカ9665発、ソ連8880発に達したが、このうちアメリカは5.3割、ソ連は2.6割を戦略潜水艦に搭載して海洋に展開させた。この一事に核時代がもたらした海洋と海軍の関係が根本的なところで変化していることが示されている。冷戦期の海軍は海洋に移動した戦略核兵器を軸に、したがって核大国であった米ソ両国海軍の活動を中心に東西両陣営に再編された。かつて七つの海に覇を唱えたイギリス海軍も、大西洋の局地勢力にすぎなくなった。
核時代におけるアメリカ海軍の任務は、(1)ソ連に対する戦略的抑止、(2)海洋の管制、(3)陸上への戦力投入、(4)存在の誇示、の四つとされ、最大任務は「抑止と均衡」の維持および抑止が破れた場合、敵国内の戦略的破壊だと位置づけられていた。一方、ソ連側も、海軍総司令官ゴルシコフ元帥がその著書(『国家の海洋力』1976年刊)で明らかにしたとおり、海軍の主任務を「敵の陸上戦略目標を戦略ミサイル潜水艦によって破壊すること」と核による対陸上報復力を筆頭に掲げた。海洋核による米ソのせめぎ合いが頂点に達したのは1980年代で、1981年11月、第一艦が就役したアメリカ海軍の戦略原潜「オハイオ」(水中排水量1万8700トン)は、潜水艦発射弾道ミサイルのトライデントⅠ型C-4を24基艦内に格納しており、射程は7400キロメートル。各ミサイルにはMIRV(マーブ)(個別誘導複数目標弾頭)が組み込まれているので、最大192か所の陸上目標を核攻撃しうる能力をもった。これに対しソ連が開発した「タイフーン級」戦略原潜は水中排水量2.5万トン、ミサイル射出装置20基を有し、8300キロメートル離れた自国近海の水中や北極海の氷の下からアメリカ本土に核攻撃が可能と推定されていた。
このように冷戦期にあっては核抑止戦略の主体が残存能力の高い戦略潜水艦に移された(初期は戦略爆撃機、ついで地上発射のICBMだった)ことにより、米ソ海軍は国家安全保障における中心的な軍事力として巨大な破壊力を有するに至ったが、しかしそれは在来型の海軍とはまったく違う、核による抑止戦略の遂行という役割によってであった。米ソだけでなく、わずかながら戦略原潜を保有する英・仏海軍にあっても、やはり同様な任務の転換が行われた。また中国も、核保有後はその一部を潜水艦に積んで海洋に移動させたので、核保有国の海軍はすべて核抑止戦略の担い手となった。冷戦の終結、ソ連解体に伴い、20世紀最終期の海洋支配者として残ったのは、アメリカ海軍であった。核抑止戦略をめぐる海洋の争覇に緩和期が訪れたのは確かだが、核軍縮にめどがたたない状況の下で、広大な核兵器の発射場としての海洋と海軍の役割はいまだ終わっていない。
だがその一方で、第二次世界大戦後の国際関係を特徴づける主権国家の急激な増加と、それに伴う海洋ナショナリズム、すなわち領海の拡大(3海里から12海里)や排他的経済水域設定(200海里)にみられる海洋主権拡大の潮流は、中小国や第三世界の海軍に新たな挑戦の場を与える契機ともなった。同時にジェット推進やロケット推進の艦載ミサイルが出現したことで、かつての大艦巨砲にかわる海軍戦術も新しい時代の到来を告げた。1967年10月、第三次中東戦争のさなか、エジプト海軍の小さな警備艇がソ連供与の対艦ミサイル「スティックス(SS-N-2)」を用いてイスラエル軍の駆逐艦「エイラート」(2300トン)を撃沈したできごとは、ミサイル海軍時代の始まりとして各国海軍に大きな衝撃を与えた。1982年のフォークランド紛争においては、当初問題なく劣勢とみられていたアルゼンチン側が、対艦ミサイル「エグゾセ」(フランス製)を駆使して、水平線彼方の空中からイギリス駆逐艦「シェフィールド」(4100トン)など3隻を撃沈、世界を驚愕(きょうがく)させた。使用された6発の「エグゾセ」中、4発までが目標に命中したといわれる。この事実は、空母など巨大水上艦の生き残り能力に深刻な疑問を提示するとともに、中小国であっても小型・安価・操作簡便なPGM(精密誘導兵器)を装備することで、大国海軍と渡り合えるという教訓を残した。長期的観点にたつ限り、水上艦がミサイルのえじきになってしまう時代の到来は避けられそうにない。
したがって、21世紀を迎えた海軍の地位は、一方で核ミサイルの長距離化と発射基地の海中移動がなされた結果、海洋戦略の独自性が失われ、他方、従来無視するに足る存在でしかなかった中小国に対する大国の決定的優位も崩れつつあるという、両面での転換期に直面しているといえよう。
[前田哲男]
『麻田貞雄訳・解説『アメリカ古典文庫8 アルフレッド・T・マハン』(1977・研究社)』▽『外山三郎著『西欧海戦史 サラミスからトラファルガーまで』(1981・原書房)』▽『池田清著『海軍と日本』(中公新書)』
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