鰭ヶ崎村(読み)ひれがさきむら

日本歴史地名大系 「鰭ヶ崎村」の解説

鰭ヶ崎村
ひれがさきむら

[現在地名]流山市鰭ヶ崎・南流山みなみながれやま一―四丁目

流山村の東、江戸川と並行して南下する舌状台地の先端に位置する。村の東から南をさか(新六間堀)が流れ、田地は同川がつくる谷が江戸川低地につながる村の南部に開ける。「本土寺過去帳」の永享九年(一四三七)二月の年紀がある妙正童女(中・一二日条)に「ヒレカサキ」との注記がある。ほかにも室町期の年号がある何人かの結縁者にヒレカサキとある。天正一八年(一五九〇)二月一〇日、高城氏は八木やぎ百姓中に対して、芝崎しばさきの吉野縫殿助屋敷内の溝を外に回し、「ひれかさきさかひ」まで新たに溝を掘ることを命じている(「高城氏黒印状」吉野文書)

元和二年(一六一六)の小金領野馬売付帳(染谷家文書)に地名がみえる。寛文三年(一六六三)旗本本多領になる(宝永五年「郷差出帳」渡辺家文書)。元禄元年(一六八八)本多氏は大名に列し、同一六年の同氏転封以降の変遷は村に同じ。寛文四年の検地では高五一二石余(田方五〇町六反余・畑方一六町七反余)。元禄七年の地押時に高八一石余が打出された。この地押時の内訳は本田畑では斗代一石二斗の上田が六町五反余、以下一石の中田七町余、八斗の下田二〇町八反余、五斗の下々田一六町二反余、九斗の上畑が七町四反余、七斗の中畑八反余、五斗の下畑四町二反余、四斗の下々畑三町二反余、斗代一石の屋敷が九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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