神奈川県南東部にある市。三浦半島の南東部を占める。1907年(明治40)横須賀、豊島(としま)の2町が合併して、県内第2番目に市制施行。1933年(昭和8)田浦町と衣笠(きぬがさ)村、1937年久里浜(くりはま)村、1943年浦賀、逗子(ずし)、大楠(おおくす)、長井の4町と武山(たけやま)、北下浦(きたしたうら)の2村を編入。1950年(昭和25)逗子を分離。2001年(平成13)中核市に移行。面積100.82平方キロメートル。人口38万8078(2020)。
JR横須賀線、京浜急行電鉄本線・久里浜線、国道16号、134号、横浜横須賀道路、三浦縦貫道路が通じる。港には、横須賀本港・新港のほか、長浦、新安浦(やすうら)、浦賀、久里浜、佐島などの諸港がある。久里浜・金谷(かなや)(千葉県)両港間には東京湾フェリーが通っている。
地形上は上町台地、大楠、武山の丘陵性の地塁山地と平作(ひらさく)川の地溝性の谷がほぼ東西方向に並行して走り、大正関東大地震(1923)には野比(のび)、長沢の両断層をはじめ、各地で構造性の地形変化が現れた。北東部と浦賀半島の沿岸にリアス海岸が発達している。市内には多くの台と谷(谷戸)が発達し、それらは坂とトンネルで結ばれ、市内交通路の特色とされている。気候は一般に温暖、冬少雨の関東地方型(太平洋式)で、西浦(相模(さがみ)湾岸)、下浦(浦賀水道岸)は湘南(しょうなん)気候区に入れられる。
[浅香幸雄]
市域は開発の歴史が古く、丘陵や海岸には縄文遺跡が多い。ことに佐原の茅山(かやま)と夏島の貝塚は縄文早期、吉井の吉井貝塚は早・前・中諸期の典型的遺跡として知られる。猿島(さるしま)の洞穴からは弥生(やよい)後期の土器片や骨角器が発見されている。古代には市域のほぼ中央部に古東海道が通って、三浦・房総両半島連絡の要路をなし、『古事記』にみられる走水(はしりみず)の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水(じゅすい)伝説や公郷町(くごうちょう)の宗元(そうげん)寺跡の古代瓦はそれにちなむものとされている。中世初めから三浦党の拠点となり、衣笠城を本拠として主要地にその一族が配置され、一族による地域独占の好例をなしている。江戸中期には伊豆の下田(しもだ)にあった奉行(ぶぎょう)所が浦賀へ移されて(1720)、海上より江戸の防衛にあたることとなり、廻船(かいせん)や商業の諸問屋が多く集まって、物資の輸送や売買にあたり、流通の拠点となった。幕末には米使ペリーが浦賀に来航(1853)、久里浜に上陸して開国における重要舞台となった。1865年(慶応1)江戸幕府は横須賀製鉄所を開き(1871年横須賀造船所と改称)、のち海軍造船廠(しょう)、海軍工廠と改められた。1884年(明治17)には東海鎮守府が横浜から横須賀へ移されて横須賀鎮守府となり、上町台地には陸軍の東京湾要塞(ようさい)司令部が設けられた。こうして横須賀は、鎮守府と工廠、要塞を中心とする軍事都市となり、日清(にっしん)・日露の両戦争、第一次・第二次世界大戦を契機として急速な発展を続けた。この間に軍関係施設は、東京湾に面する本港のほか、長浦、追浜(おっぱま)、久里浜、小田和の諸湾岸へも拡大され、岬角(こうかく)や台地、丘陵上にも要塞施設が設けられ、全市域が軍事施設地域となった。第二次世界大戦後、旧軍の施設はほとんどアメリカ軍と海上自衛隊に使用され、横須賀は全国有数の米軍接収地の高率地区となり、市勢の発展に大きな障害をなしていた。
[浅香幸雄]
第二次世界大戦後、市勢発展の基本方針を平和産業と港湾都市の充実とし、まず旧軍施設をこの目標に転換することに努めた。長浦、小川、安浦の3港は国内貿易港、浦賀は造船地区、久里浜は漁港とし、各港の沿岸や後背地区は、それぞれの関連業務用地として整備に努めてきた。北の追浜・浦郷(うらごう)地区は化学と自動車整備、田浦・長浦地区は電気と機械、浦賀地区は橋梁(きょうりょう)と建設機械、久里浜地区は水産加工と火力発電を主とする工業地区となったが、先端産業誘致のために「久里浜テクノパーク」がつくられている。
市街地は、東京湾岸の業務と商業地区、平作川流域の衣笠(市内第二の中心商店街)と久里浜を中心とする地は、商業と港湾地区となっている。大楠山地から南は、浦賀水道、相模湾岸がともに自然海岸のままに残され、中央に緑深い山地が広がり、横浜横須賀道路が通じ、市民をはじめ京浜都市群居住者に対する休養地域となっている。
[浅香幸雄]
自然、歴史、産業、スポーツなどの観光レクリエーション資源が豊富で、首都圏有数の観光地となっている。ことに観音崎(かんのんざき)は城ヶ島、油壺(あぶらつぼ)(ともに三浦市)とともに三浦半島の三大観光地の一つである。横須賀の記念艦三笠(みかさ)、久里浜のペリー公園と久里浜緑地(くりはま花の国)、北下浦海岸、大楠山、佐島、猿島、衣笠山公園、立石、荒崎などがこれに次ぐ。観音崎は三浦半島東端の岬で、浦賀水道を隔てて鋸(のこぎり)山(千葉県)に対し、内外の大型船の通航が目の当たりに見られ、背後は県立観音崎公園に続き、原始林相がみごとで、日本最初の洋式灯台、自然・人文博物館などもある。文化財も多く、芦名(あしな)の浄楽寺(じょうらくじ)の阿弥陀如来(あみだにょらい)と両脇侍(わきじ)像、毘沙門天(びしゃもんてん)立像、不動明王立像、満願寺の菩薩(ぼさつ)立像と地蔵菩薩立像、満昌寺の三浦義明坐像(ざぞう)、清雲寺の観音菩薩坐像はともに国指定重要文化財、また、ヴェルニー記念館に保存されているスチームハンマーは、近代日本を発展させた最初期の機械として国の重要文化財になっている。塚山公園の三浦按針(あんじん)の墓(按針塚)と夏島貝塚は国指定史跡。
[浅香幸雄]
『『横須賀市史』(1958・横須賀市)』▽『『横須賀市制施行60周年記念要覧』(1987・横須賀市)』
静岡県掛川市(かけがわし)の南西部にある地区。高校、中学、小学校、図書館等があり、市街地は横須賀藩城下町の名残(なごり)を残す。1578年(天正6)高天神(たかてんじん)城に拠(よ)る武田勝頼(かつより)攻略のため、徳川家康は大須賀康高(やすたか)に命じて横須賀城を築城。以後城下町として繁栄した。城跡は本丸、西丸等の遺構が残り国指定史跡、本丸跡一帯は史跡公園になっている。4月には三熊野神社(みくまのじんじゃ)の大祭(祭囃子(はやし)は県指定無形民俗文化財)が行われる。
[川崎文昭]
愛知県西尾市(にしおし)の一地区。旧横須賀村。旧吉良氏の所領で、華蔵(けぞう)寺に義央(よしなか)の墓や、水防堤の黄金堤(こがねづつみ)(1686年築造)がある。また、作家尾崎士郎の出身地でもあり、福泉寺に墓と文学碑がある。名古屋鉄道西尾線上横須賀駅がある。
[編集部]
愛知県東海市の一地区。旧横須賀町。伊勢(いせ)湾東岸の、製鉄をはじめとする臨海工業地帯。名古屋鉄道常滑(とこなめ)線尾張横須賀駅、太田川駅、同河和(こうわ)線高横須賀駅、南加木屋駅があり、国道155号、247号が通じる。9月には山車(だし)を中心とした横須賀まつりが行われる。
[編集部]
神奈川県南部,三浦半島の大部分を占める市。浦賀水道をはさんで房総半島に対する。1907年横浜市に次いで県内2番目に市制をしき,1933年海軍からの要請で,隣接の田浦町,衣笠(きぬかさ)村を合併,その後も久里浜村,逗子町,浦賀町などを合併して市域を拡大し,第2次大戦後,50年に逗子が分離・独立し,現在の市域となった。人口41万8325(2010)。
海岸線は屈曲に富むことから良港が多く,古くから漁業と水運が盛んであった。古くは東海道が走水(はしりみず)付近から上総(かずさ)国に通じ,記紀は日本武尊東征のおり,弟橘媛(おとたちばなひめ)が走水の海で入水したと伝える。この地に勢力をもち源頼朝の挙兵に応じた三浦氏も衣笠城が落ちた後,安房国に渡っている。浦賀は後北条氏の水軍の拠点で,江戸中期以降浦賀番所,浦賀奉行所が置かれ,干鰯(ほしか)問屋が繁栄した。幕末にはイギリス船,アメリカ船が浦賀沖に来航し,1853年(嘉永6)ペリーが久里浜に上陸した。
幕末のころ,東京湾に突出する横須賀,箱崎の2小半島に囲まれた横須賀湾が良港として注目され,1866年(慶応2)湾奥部に横須賀製鉄所が設立された。これが明治政府の横須賀造船所となり,海軍に引き継がれた。84年,横浜の東海鎮守府が横須賀に移されて横須賀鎮守府となった。1903年には造船所は海軍工厰となり,以後諸施設が置かれ日本海軍最大の軍港に発展した。石川島造船所(現,石川島播磨重工業),浦賀船渠(ドツク)(現,住友重工業)など民間の造船業も発達した。一方,陸軍は東京湾要塞司令部を横須賀に置き,三浦半島一帯の要塞化を図った。戦後,横須賀港は貿易港となったが,横須賀本港はアメリカ海軍と海上自衛隊の専用となっている。そのため小川町の地先海面が埋め立てられ1974年に横須賀新港が完成し,自動車の輸出などに利用されている。近年丘陵地の開発が進み,南部の浦賀・久里浜地区には大規模な住宅団地がある。東京湾岸の馬堀(まぼり)海岸も埋め立てられ住宅地となっている。JR横須賀線は市域内を田浦から久里浜に通じるが,海軍用にしかれた性格が強い。1930年に浦賀,42年に久里浜まで通じた京浜急行線が横須賀の市街部を結び,その横須賀中央駅が都心部の核となっている。日本で最初の洋式灯台のある観音崎,水と音と光の公園,三笠公園,桜の衣笠山など観光地も多い。
→三浦半島
執筆者:伊倉 退蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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…北部は小笠山に連なる丘陵地帯で,南部には遠州灘海岸平野が広がる。1956年横須賀町と大淵村が合体,大須賀町となった。中心の横須賀は,天正年間(1573‐92)に大須賀康高が横須賀城を築城して以来の城下町で,1682年(天和2)西尾氏が2万5000石(のち3万5000石)で入城し,明治維新を迎えた。…
…北帯には円海山,天台山,鷹取山などがあり,中帯には二子山,畠山,南帯に半島の最高所大楠(おおぐす)山(241m),武山,富士山がある。半島の海岸線は屈曲に富み,東京湾岸には長浦湾,横須賀湾,浦賀水道には浦賀湾があり,いずれも良港となっている。相模湾岸には北から鎌倉,逗子,葉山と続く砂浜海岸があって良好な海水浴場となり,南端の三崎台地の西岸には小網代(こあじろ),油壺,諸磯(もろいそ)の小湾入が溺れ谷の地形を示し,ヨットハーバーとなっている。…
※「横須賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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