鵜島の渡
うのしまのわたし
比島村の枝村中島と対岸の畔川村河原を結ぶ渡し。中島の渡ともよばれた。中島という地名は「朝倉始末記」に、本覚寺(現吉田郡永平寺町)や勝厳寺(現坂井郡金津町)の一向一揆勢が天正二年(一五七四)二月平泉寺を討つべく、「中嶋ト云処ニ居陣ス」とみえる。「越前地理便覧」に「中島渡」とある。鵜島は勝山城下後町と立石町の境界の道路を西進して直面する九頭竜川の河原で、畔川村に属していた。天正一〇年の柴田勝安安堵状(「大野郡誌」所収)に「阿せ川とう野嶋」とあり、元禄五年(一六九二)の差上申畔川村無諸役之由緒書の写(勝山市教育委員会蔵)は、天正頃すでに鵜島川原は開田されていたと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 