鶴原庄(読み)つるはらのしよう

日本歴史地名大系 「鶴原庄」の解説

鶴原庄
つるはらのしよう

現泉佐野市の北東端部にあった庄園。寛元三年(一二四五)七月一七日の六波羅下知状案(高野山文書)によると、六波羅探題は近木こぎ(現貝塚市)地頭代朝寛と網曳あびこ御厨下司源基光の間での近木浦支配をめぐる紛争裁決を下しているが、そのなかで当庄は佐野庄とともに藤原忠通が立庄したものとしている。立庄後の経緯はつまびらかでないが、天福二年(一二三四)六月二五日の官宣旨(九条家文書)で「鶴原荒野」も九条家領日根ひね庄内として認められた。また文暦元年(一二三四)一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(同文書)では日根庄を構成する四ヵ村の一つとして鶴原村とみえ、公文中原景俊・田所僧覚心・下司大中臣成綱・地頭代丹波光家がおり、現作田三六町一反余、年荒・常荒・川成などが三町五反余となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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