佐野庄(読み)さののしよう

日本歴史地名大系 「佐野庄」の解説

佐野庄
さののしよう

荘域は明らかでないが、現佐野・三輪崎みわさきを中心とした地と考えられる。立荘年代不明。荘名は「吾妻鏡」貞応元年(一二二二)四月二七日条に

<資料は省略されています>

みえ、鳥居禅尼からその子長詮に地頭職が相伝されている。鳥居禅尼は源頼朝の叔母で第一九代熊野別当行範の妻「立田腹の女房」(参考源平盛衰記)のことで、丹鶴姫ともいう。行範の死後禅尼となり、当庄地頭職を領有したようである。その後の変遷は不詳だが、禅尼の出自から考えて新宮別当家の所領であったと考えられる。戦国時代には熊野七上綱の一人であった新屋氏(新氏・新宮氏)の領地となり、その一族の鈴木氏が支配していたが(新宮市史)、その後佐野の石垣氏が代々下司職となって佐野庄を領有し、次いで堀内氏の所領に帰したという(続風土記)


佐野庄
さののしよう

現佐野市北部から現安蘇あそ葛生くずう町・田沼たぬま町の一部と、現下都賀しもつが岩舟いわふね(小野寺保分を除く)にかけてのはた川東岸の地域。安蘇郡司で開発領主の藤姓足利家綱が、寛治八年(一〇九四)以前に開発所領を太政大臣藤原信長に寄進したといわれている(佐野系図)。平安後期には「下野庄」「太政大臣庄」とみえ、天仁元年(一一〇八)浅間あさま山の爆発による大被害のため、当庄からの年貢・公事の上進が途絶したことがきっかけとなり、太政大臣後家(御子左家女、信長の妻)と現地支配に当たっていた下司宗佐との間で紛争が勃発した。太政大臣家の使者の宿所は、下司の子息らの手によって焼払われている(「中右記」永久二年八月三日・一三日・二五日、一〇月二七日、一一月一六日条)。こののち当庄は摂関家庶流御子左家に伝えられ、御子左家基から左大臣藤原頼長へ寄進された(「平戸記」寛元二年八月二八日条)


佐野庄
さののしよう

古代の佐濃さの(和名抄)域に成立した荘園で山城石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)領であった。近世の佐野村を中心にした地域かと考えられるが、中世末まで佐野郷も存続しており、両者の地域的関係は不分明である。

荘名は保元三年(一一五八)一二月三日付官宣旨(石清水文書)に、八幡宮寺領として「丹後国佐野庄」とみえる。その後の経緯は不詳だが八幡宮領として推移したことは、丹後国田数帳に佐野郷とは別に、

<資料は省略されています>

とあることからもわかる。


佐野庄
さののしよう

近代の佐野村一帯に比定される庄園。庄名は「民経記」安貞二年(一二二八)一〇月巻裏文書の某陳状に「佐野庄下司中(太カ)」とみえる。この陳状では中大が非法によって和泉国在庁官人より訴えられている十生長官の寄人ではないかと疑われ、それに対する陳述を行っている。寛元三年(一二四五)七月一七日の六波羅下知状案(高野山文書)は、近木こぎ(現貝塚市)の地頭遊馬忠基代僧長寛と内膳司領網曳あびこ御厨下司源基光との間での近木浦支配をめぐる紛争に裁決を下しているが、そのなかで当庄は鶴原つるはら庄とともに藤原忠通が立庄したものとしている。


佐野庄
さののしよう

現佐野を遺称地とする京都賀茂別雷かもわけいかずち(上賀茂社)領の庄園。院庁下文を受けて同社領に対する武士の濫妨停止を命じた、寿永三年(一一八四)四月二四日付の源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)に「淡路国 佐野庄 生穂庄」がみえる。ただし貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に庄名はみえない。文明一二年(一四八〇)四月、同社の装束新調の役が社領に課された際には「淡路御庄」が貴布禰禰宜分を担当しており、この「淡路御庄」は佐野庄・生穂なまりほ庄をさすものとも考えられる(「装束新調庄役書立」賀茂別雷神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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