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藤原忠通 ふじわらのただみち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原忠通
ふじわらのただみち

[生]永長2(1097).1.29. 京都
[没]長寛2(1164).2.19. 京都
平安時代後期の廷臣。別称,法性寺 (ほっしょうじ) 殿。忠実の長男。母は右大臣源顕房の娘師子。保安2 (1121) 年父が白河法皇との確執で辞職したあとをうけて関白となったが,これによって父と不和になった。翌年左大臣,従一位,翌々年崇徳天皇の摂政,大治3 (28) 年太政大臣,同4年関白となった。同年鳥羽上皇の院政が開始され,政界に復帰した忠実,その寵愛を受ける弟頼長と対立。永治1 (41) 年近衛天皇の摂政,久安6 (50) 年関白となったが,氏長者の地位は頼長に奪われた。保元1 (56) 年保元の乱 (→保元・平治の乱 ) 後再び氏長者となり,同3年関白の地位を嫡子基実に譲って引退。応保2 (62) 年出家,法名を円観といった。漢詩集『法性寺関白集』,和歌集『田多民治集』があり,書では法性寺流の始祖。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐ただみち〔ふぢはら‐〕【藤原忠通】

[1097~1164]平安後期の公卿。忠実の長男。別称、法性寺殿(ほっしょじどの)。摂政・関白。美福門院と結んで父および弟頼長と対立し、保元の乱の原因となった。書にすぐれて、法性寺流の開祖。漢詩集「法性寺関白集」、家集「田多民治(ただみち)集」、日記「法性寺関白記」など。

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百科事典マイペディアの解説

藤原忠通【ふじわらのただみち】

平安後期の高官。藤原忠実の子。法性寺(ほっしょうじ)殿と号す。1121年父の失脚により関白となる。崇徳(すとく)天皇近衛天皇摂政。1150年父との不和で摂関家氏長者(うじのちょうじゃ)を弟頼長に奪われ,頼長と互いに養女入内(じゅだい)を競う。
→関連項目楠葉牧椋橋荘皇嘉門院慈円春木荘藤原良経

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原忠通 ふじわらの-ただみち

1097-1164 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
永長2年閏(うるう)1月29日生まれ。藤原忠実(ただざね)の長男。母は源師子。白河法皇に罷免された父にかわり,関白,摂政,太政大臣を歴任。従一位にいたる。鳥羽(とば)院政で復権した父と権力をあらそい,保元(ほうげん)の乱の一因をつくった。詩歌にすぐれ,書は法性寺(ほっしょうじ)流と称される。長寛2年2月19日死去。68歳。通称は法性寺殿。漢詩集に「法性寺関白御集」,家集に「田多民治(ただみち)集」。
【格言など】わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白波(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原忠通

没年:長寛2.2.19(1164.3.13)
生年:承徳1.閏1.29(1097.3.15)
平安末期の公卿。関白藤原忠実と右大臣源顕房の娘(師子)の子。童名を威徳。嘉承2(1107)年元服,天永1(1110)年従三位,永久3(1115)年内大臣。保安1(1120)年父忠実が娘泰子(高陽院)の入内問題で白河法皇の勘気を被り蟄居となったあとをうけ翌年関白となる。こののち崇徳,近衛,後白河各天皇の摂政関白を務め,左大臣・太政大臣を経て従一位に至る。大治4(1129)年白河法皇の死去,鳥羽院政の開始で父忠実が政界に復帰,内覧(関白に準ずる職掌)となって実権を握ると不仲になり,久安6(1150)年父より義絶され,氏長者を異母弟の頼長に奪われた。また,頼長が養女藤原多子を近衛天皇の後宮に入れたことに対抗して,忠通は藤原伊通の娘呈子(九条院)を養女として同じく後宮に入れるなど,摂関家内部での対立が続いた。しかし,近衛天皇病没による後嗣問題で,忠通は崇徳上皇と対立していた鳥羽上皇に皇位を諮問され,後白河天皇の即位を助言し,鳥羽上皇の信頼を回復。これら諸々の出来事が保元の乱(1156)の一因となっていった。乱後,崇徳上皇方について敗れた父の所領を相続,父の流罪を防ぎ,摂関家の保全に尽力した。 和歌を好み,従来の摂関家には珍しい私的な歌壇が忠通を中心に形成され,大治年間に至るまで歌合や歌会が数多く催された。『金葉集』以下の勅撰集に69首入集。また漢詩の才能にも優れ,詩会を主催する一方,白河院より『続本朝秀句』(散逸)の選を命ぜられた。のち『本朝無題詩』を編纂させる。『相撲立詩歌合』は忠通の発案である。晩年,法性寺の別荘に住んだことから法性寺関白と号する。能書の誉れ高く,その書風は法性寺流と称され,後代にまで影響をおよぼした。保元3(1158)年摂関職を子基実に譲り,応保2(1162)年に出家。法名は円観。子孫は近衛家,九条家に分かれ,さらに五摂家となっていく。<著作>『田多民治集』『法性寺関白御集』『法性寺関白記』<参考文献>角田文衛『王朝史の軌跡』

(渡辺晴美)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのただみち【藤原忠通】

1097‐1164(承徳1‐長寛2)
平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのただみち【藤原忠通】

1097~1164) 平安後期の廷臣。法性寺殿と称される。忠実の長子。摂政・関白、太政大臣に至る。氏長者うじのちようじやを父の寵児である弟頼長と争い、いったんは失ったが、保元の乱で弟を倒し復した。書にすぐれ、法性寺流の祖とされる。家集「田多民治ただみち集」、漢詩集「法性寺関白集」、日記「法性寺関白記」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原忠通
ふじわらのただみち
(1097―1164)

平安後期の公卿(くぎょう)で、能書。関白藤原忠実(ただざね)の長男。悪左府頼長(よりなが)の兄。母は村上源氏右大臣顕房(あきふさ)の女(むすめ)師子。太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位。法性寺(ほっしょうじ)殿。1121年(保安2)父にかわり関白・氏長者(うじのちょうじゃ)となる。以後鳥羽(とば)・崇徳(すとく)・近衛(このえ)・後白河(ごしらかわ)の4代にわたり1158年(保元3)まで摂政(せっしょう)・関白を務める。近衛天皇在位中、天皇の生母美福門院(びふくもんいん)藤原得子(とくし)の信任を得る忠通と、天皇の父鳥羽院の信任を得る忠実・頼長との間に確執が生じ、忠通・頼長はそれぞれ養女を天皇に入内(じゅだい)させて争った。忠実は忠通の氏長者を奪って頼長に与え、さらに頼長を内覧(ないらん)としたが、忠実・頼長は天皇呪詛(じゅそ)の疑いを受けて鳥羽院の信を失い、崇徳院と結んで保元(ほうげん)の乱(1156)に敗れる。忠通はふたたび氏長者となるが、やがて男基実(もとざね)にこれを関白とともに譲り、自らは別業(別荘)法性寺に隠退、詩歌三昧(ざんまい)の余生を送った。62年(応保2)法性寺で出家、法名円観。2年後の長寛(ちょうかん)2年2月19日没。68歳。書に秀で、法性寺流の祖となった。[飯田悠紀子]
 能書家として知られ、白河阿弥陀(あみだ)堂供養願文の清書(18歳)をはじめ、最勝寺、円勝寺、成勝寺、金剛勝院など諸寺の門額(もんがく)の揮毫(きごう)、除目(じもく)の清書、一品経結縁(いっぽんきょうけちえん)供養への参加(59歳)など、華々しい活躍を遂げる。遺墨に東京国立博物館所蔵の書状や『勧学会記(かんがくえのき)』(東京・西新井(にしあらい)大師)などが伝存する。偏平な字形と重厚で強靭(きょうじん)な筆勢を特徴とする書風は孫の後京極良経(よしつね)に受け継がれ、「法性寺流」の名で平安末から鎌倉中期に盛行した。[神崎充晴]

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367日誕生日大事典の解説

藤原忠通 (ふじわらのただみち)

生年月日:1097年1月29日
平安時代後期の公卿
1164年没

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世界大百科事典内の藤原忠通の言及

【歌合】より

…(2)第2期(1107‐92) 院政が進行し院側近の中流貴族が実権を握るにつれて,歌合の本質はまったく変わってきた。前期末に未完成であった《和歌合抄》を増補して20巻本の《類聚歌合》を完成させたのは堀河朝廷の後見者であった源雅実の甥に当たる摂関藤原氏の当主内大臣藤原忠通(ただみち)である。忠通はきわめて温和な人物で,中世的な文芸本位の歌合の時流にも逆らわずみずからも盛んに歌合を催して,源俊頼,藤原顕季,藤原基俊ら革新・中立・保守3派の判者を巧みに操縦して歌合歌論を盛り上げることに成功した。…

【入道】より

…入道は強大であるが,どこかうさんくさく得体の知れないものと感じられているが,それは日本人の仏教に対する感情の深層の反映でもあろう。また,入道の称を,百人一首の作者の中で最も長い名の法性寺入道前関白太政大臣,つまり藤原忠通をさすことばとして使うことがある。【大隅 和雄】。…

【保元の乱】より

…この乱によって武士の重要性が公家に認識されたうえ,武士自身も自分の力を自覚することとなる。藤原忠通の子の僧慈円が《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記したように,保元の乱を契機に武家政権成立への胎動が始まったということができる。平治の乱【飯田 悠紀子】。…

【法性寺流】より

…日本書道の流派の一つで,法性寺に住み法性寺殿と呼ばれた関白藤原忠通にはじまる。小野道風,藤原行成の和様を継いで強さを加え,字形を整えた書風で時好にかなって広く行われ,忠通の子藤原兼実らに承け継がれて,鎌倉時代にも流行した。…

【本朝無題詩】より

…撰者未詳だが,藤原周光(ちかみつ)が有力視される。また藤原忠通が成立になんらか関与したと思われる。五,七言句題詩総集に対蹠的な概念として〈無題詩〉と名づけたもの。…

【類聚歌合】より

…しかし鳥羽天皇の初年,天仁・天永(1108‐13)のころには,その名を《古今歌合》と改めて編集事業が再開され,修正増補を加えて15,16巻の規模に増大していった。さらに雅実のおいに当たる内大臣藤原忠通が協力するに及んで,近来の純文学的な歌合をも数多く吸収し,ついに20巻の規模を持つ《類聚歌合》にまで発展した。収容する歌合の最下限は,現在知られる限り,1126年(大治1)の《摂政左大臣忠通家歌合》であるが,その後まもなく編集事業は停止され,草稿本のまま近衛家に伝襲された。…

【六勝寺】より

…堂塔伽藍の詳細は不明であるが,最初に塔が建てられ,ついで金堂,薬師堂,五大堂,南大門などが建立された。供養にあたり法性寺(ほつしようじ)流の祖藤原忠通が額を書いている。寺領には近江饗庭(あえば)荘,同長岡荘,信濃小川荘,肥前河副(かわそえ)荘などがあった。…

※「藤原忠通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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