平安後期の公卿(くぎょう)で、能書。関白藤原忠実(ただざね)の長男。悪左府頼長(よりなが)の兄。母は村上源氏右大臣顕房(あきふさ)の女(むすめ)師子。太政(だいじょう)大臣従(じゅ)一位。法性寺(ほっしょうじ)殿。1121年(保安2)父にかわり関白・氏長者(うじのちょうじゃ)となる。以後鳥羽(とば)・崇徳(すとく)・近衛(このえ)・後白河(ごしらかわ)の4代にわたり1158年(保元3)まで摂政(せっしょう)・関白を務める。近衛天皇在位中、天皇の生母美福門院(びふくもんいん)藤原得子(とくし)の信任を得る忠通と、天皇の父鳥羽院の信任を得る忠実・頼長との間に確執が生じ、忠通・頼長はそれぞれ養女を天皇に入内(じゅだい)させて争った。忠実は忠通の氏長者を奪って頼長に与え、さらに頼長を内覧(ないらん)としたが、忠実・頼長は天皇呪詛(じゅそ)の疑いを受けて鳥羽院の信を失い、崇徳院と結んで保元(ほうげん)の乱(1156)に敗れる。忠通はふたたび氏長者となるが、やがて長子基実(もとざね)にこれを関白とともに譲り、自らは別業(別荘)法性寺に隠退、詩歌三昧(ざんまい)の余生を送った。1162年(応保2)法性寺で出家、法名円観。2年後の長寛(ちょうかん)2年2月19日没。68歳。書に秀で、法性寺流の祖となった。
[飯田悠紀子]
能書家として知られ、白河阿弥陀(あみだ)堂供養願文の清書(18歳)をはじめ、最勝寺、円勝寺、成勝寺、金剛勝院など諸寺の門額(もんがく)の揮毫(きごう)、除目(じもく)の清書、一品経結縁(いっぽんきょうけちえん)供養への参加(59歳)など、華々しい活躍を遂げる。遺墨に東京国立博物館所蔵の書状や『勧学会記(かんがくえのき)』(東京・西新井(にしあらい)大師)などが伝存する。扁平な字形と重厚で強靭(きょうじん)な筆勢を特徴とする書風は孫の後京極良経(よしつね)に受け継がれ、「法性寺流」の名で平安末から鎌倉中期に盛行した。
[神崎充晴]
平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。また弟の頼長もしだいに昇進して36年(保延2)内大臣となった。41年(永治1)天皇は3歳の異母弟近衛天皇に譲位し,忠通は摂政となった。49年(久安5)太政大臣に再任された。翌年天皇元服後辞任,ついで関白となる。忠通は天皇の生母美福門院藤原得子の信任を得ており,一方忠実,頼長には鳥羽院の支持があった。兄弟はそれぞれ養女の入内を図り,結局頼長養女藤原多子の入内・立后に続き,忠通養女藤原呈子も入内・立后した。左大臣となった頼長は兄の地位を望み,忠実は忠通に譲るよう説得して果たさず激怒し,50年氏長者を奪って頼長に与え,また翌51年(仁平1)頼長は内覧となった。しかし忠実,頼長は近衛天皇没後呪詛の疑いで鳥羽院の信任を失い,弟の後白河天皇の即位で院政への希望を断たれた崇徳院と結び,保元の乱を起こし没落した。忠通は氏長者に復したが,やがて関白を辞し,男基実が関白・氏長者となる。62年(応保2)法性寺で出家して円観と号した。彼は詩文・和歌に優れ,ことに重厚で,力強い書は以後の人々の好尚にかない,法性寺流の祖となった。日記《法性寺関白記》があるが,ごく一部を残すのみである。
執筆者:黒板 伸夫
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(渡辺晴美)
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1097.閏1.29~1164.2.19
法性寺殿(ほっしょうじどの)とも。12世紀の公卿。忠実(ただざね)の長男。母は源顕房の女師子。頼長は異母弟(のち猶子)。1107年(嘉承2)元服,権中納言・権大納言・内大臣をへて,21年(保安2)白河上皇の不興を買った父にかわり関白となる。翌年左大臣従一位。のち崇徳(すとく)・近衛両天皇の摂政・関白・太政大臣。白河上皇没後政界に復帰した忠実と対立を深め,50年(久安6)義絶され,氏長者(うじのちょうじゃ)職を頼長に奪われる。これに対し忠通は美福門院に接近して対抗。後白河天皇即位にともなう忠実・頼長の失脚で再び氏長者となり,58年(保元3)関白を嫡子基実に譲る。62年(応保2)出家,法名円観。忠通の時代,摂関家は父弟との争いにより院権力の介入を許し,弱体化していった。書の名手で法性寺流の祖。
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…(2)第2期(1107‐92) 院政が進行し院側近の中流貴族が実権を握るにつれて,歌合の本質はまったく変わってきた。前期末に未完成であった《和歌合抄》を増補して20巻本の《類聚歌合》を完成させたのは堀河朝廷の後見者であった源雅実の甥に当たる摂関藤原氏の当主内大臣藤原忠通(ただみち)である。忠通はきわめて温和な人物で,中世的な文芸本位の歌合の時流にも逆らわずみずからも盛んに歌合を催して,源俊頼,藤原顕季,藤原基俊ら革新・中立・保守3派の判者を巧みに操縦して歌合歌論を盛り上げることに成功した。…
…入道は強大であるが,どこかうさんくさく得体の知れないものと感じられているが,それは日本人の仏教に対する感情の深層の反映でもあろう。また,入道の称を,百人一首の作者の中で最も長い名の法性寺入道前関白太政大臣,つまり藤原忠通をさすことばとして使うことがある。【大隅 和雄】。…
…この乱によって武士の重要性が公家に認識されたうえ,武士自身も自分の力を自覚することとなる。藤原忠通の子の僧慈円が《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記したように,保元の乱を契機に武家政権成立への胎動が始まったということができる。平治の乱【飯田 悠紀子】。…
…日本書道の流派の一つで,法性寺に住み法性寺殿と呼ばれた関白藤原忠通にはじまる。小野道風,藤原行成の和様を継いで強さを加え,字形を整えた書風で時好にかなって広く行われ,忠通の子藤原兼実らに承け継がれて,鎌倉時代にも流行した。…
…撰者未詳だが,藤原周光(ちかみつ)が有力視される。また藤原忠通が成立になんらか関与したと思われる。五,七言句題詩総集に対蹠的な概念として〈無題詩〉と名づけたもの。…
…しかし鳥羽天皇の初年,天仁・天永(1108‐13)のころには,その名を《古今歌合》と改めて編集事業が再開され,修正増補を加えて15,16巻の規模に増大していった。さらに雅実のおいに当たる内大臣藤原忠通が協力するに及んで,近来の純文学的な歌合をも数多く吸収し,ついに20巻の規模を持つ《類聚歌合》にまで発展した。収容する歌合の最下限は,現在知られる限り,1126年(大治1)の《摂政左大臣忠通家歌合》であるが,その後まもなく編集事業は停止され,草稿本のまま近衛家に伝襲された。…
…堂塔伽藍の詳細は不明であるが,最初に塔が建てられ,ついで金堂,薬師堂,五大堂,南大門などが建立された。供養にあたり法性寺(ほつしようじ)流の祖藤原忠通が額を書いている。寺領には近江饗庭(あえば)荘,同長岡荘,信濃小川荘,肥前河副(かわそえ)荘などがあった。…
※「藤原忠通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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