黒瀬城跡
くろせじようあと
光教寺谷池から登る標高三五〇メートルの黒瀬山の山頂にある。城跡には四段の平坦面があり、空堀の跡と思われる地形が残る。
「宇和旧記」は、一説として宇和西園寺氏一九代実充の時、下松葉の松葉城を捨て黒瀬山に築城したが、完成をみずに実充は死去し、その子公家の代に移転した。公家の子公高は弘治二年(一五五六)飛鳥城(現宇和町東多田)で喜多郡の領主宇都宮豊綱と戦って戦死したので、同年来村(現宇和島市)から公次を迎えて世継とし、その後公宣・公広と続いたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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