1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉が長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)を討って四国を統一した戦い。元親は1575年(天正3)土佐(とさ)(高知県)を統一、ついで阿波(あわ)(徳島県)、讃岐(さぬき)(香川県)、伊予(いよ)(愛媛県)に侵攻し、1585年春四国を制覇した。その間、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは柴田勝家(しばたかついえ)、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは徳川家康・織田信雄(のぶかつ)と結び、紀伊征伐では根来衆(ねごろしゅう)と通じて秀吉に敵対した。そのため秀吉は元親の行動を憎み四国征伐の軍をおこした。元親は家臣の谷忠兵衛(ちゅうべえ)を秀吉のもとに送り、伊予一国の返納で妥協しようとしたが、秀吉は土佐以外の3国の返上を命じたので交渉は決裂した。
元親は白地(はくち)(徳島県三好(みよし)市池田町)に本営を置き、阿波の木津・一宮(いちのみや)・岩倉城、讃岐の植田城、伊予の金子・高尾城などに将兵を配し防備を固めた。当時秀吉は佐々成政(さっさなりまさ)と対戦中であったので、弟秀長(ひでなが)を将として三好秀次(みよしひでつぐ)を添え、1585年6月16日出征命令を発し、主力6万を阿波に向かわせた。宇喜多秀家(うきたひでいえ)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)・家政(いえまさ)、黒田孝高(よしたか)、仙石秀久(せんごくひでひさ)らの軍2万3000は讃岐に上陸、毛利輝元(もうりてるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)、吉川元長(きっかわもとなが)の兵3万余は伊予に向かって進撃を開始した。元親は三方から攻撃を受け、7月中旬には諸城が落城したので、谷忠兵衛らの勧告をいれて7月25日降伏した。兵農分離を終えた秀吉の軍に長宗我部の農民的武士は敵しえなかったのである。秀長は元親に土佐一国を与え、元親の三男親忠(ちかただ)を人質として凱旋(がいせん)した。秀吉は論功行賞を行い、阿波を蜂須賀家政、讃岐を仙石秀久、十河存保(そごうまさやす)、伊予を小早川隆景に与え、四国全土を支配した。
[山本 大]
『山本大著『長宗我部元親』(1960・吉川弘文館)』▽『山本大校注『四国史料集』(『第2期 戦国史料叢書5』1966・人物往来社)』
豊臣政権による天下統一の過程で,重要な一段階となる1585年(天正13)の四国制圧戦争をいう。1575年に土佐一国を統一した長宗我部元親は,引き続いて伊予,阿波,讃岐に進攻,各地を席巻した。当初,織田信長はこれを黙認していたが,82年5月,三好三人衆の康長(笑岩)を先鋒軍として阿波に入れ,三男の織田信孝と丹羽長秀を将とする四国討伐動員令を下した。しかし,これは6月の本能寺の変によって途絶し,以後,元親は柴田勝家,徳川家康と通じ,豊臣(羽柴)秀吉を牽制しながら軍を進め,85年春,念願の四国統一を成し遂げた。ところがこのとき,秀吉は家康と和睦し天下人としての地歩を固めており(7月,関白就任),6月,弟秀長・甥秀次を畿内から阿波へ,宇喜多秀家・蜂須賀家政・黒田孝高らを備前・播磨から讃岐へ,また毛利輝元・小早川隆景を安芸・備後から伊予へと三方から進攻させ,各地で四国勢を撃破した。兵農分離を終え,装備の優れた秀吉の大軍に対し,一領具足(地侍)を主とした四国勢の劣弱さは《南海治乱記》によく描かれている。こうして,8月,元親は秀吉に降って土佐一国を安堵され,阿波は蜂須賀家政・赤松則房,讃岐は仙石秀久・三好存保,伊予は小早川隆景・安国寺恵瓊らに分与され,四国全土が豊臣政権下に組み入れられた。そして翌年の九州征伐には,仙石秀久を将とする長宗我部,三好らの四国勢がその先鋒となる。
執筆者:下村 效
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