日本歴史地名大系 「松葉町」の解説
松葉町
まつばちよう
宇和盆地南部、宇和川沿いの街村。天保郷帳などの公簿には松葉町とあるが、普通卯之町といい、たびたび火災に遭ったため、江戸初期の慶安四年(一六五一)卯年に卯之町と改称されたと伝えられる。水辺に縁のある鵜の字にちなんだともいう(墅截)。「宇和旧記」によれば、戦国時代、
天正九年(一五八一)土佐勢の侵入で町は焼かれ、城主西園寺公広は同一二年長宗我部元親に屈服し、翌一三年小早川隆景の軍門に下り、一五年戸田勝隆が宇和郡領主となった。ついで、文禄四年(一五九五)から慶長五年(一六〇〇)まで藤堂高虎の支配を受けたが、この新旧勢力の交代期に、松葉町に土豪一揆が起こっている。慶長五年藤堂高虎が関ヶ原合戦に出陣中、松葉町の有力名主三瀬六兵衛は、
松葉町
まつばちよう
岡崎城外郭西の出口、松葉総門を出て東西に通ずる東海道往還筋の町。町の長さ一町五六間・幅三間半。町の東端に幅一三間の松葉川が流れ、松葉橋が架かっているところから町名が付けられたものである。橋の西に高札場があった。天正一九年(一五九一)田中吉政が沼地を埋め町屋をつくったという。松葉総門があり、岡崎城の西の出はずれということもあって名高く、浅井了意の「東海道名所記」に「宿はづれに川あり、松葉川と云ふ、橋あり長さ三十二間」とある。また宝暦一〇年(一七六〇)成稿の土御門泰邦の「東行話説」に「木の葉のやうなる橋あり、道理こそ松葉橋と名付たれ」などとある。松葉橋は安永八年(一七七九)土橋となり、長さも二四間一尺・幅二間五尺五寸となった。
松葉町
まつばちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報