1587年(天正15)豊臣秀吉が薩摩島津氏の服属を主目的に九州統一をするため,みずから行った戦役。島津氏は1578年大友氏を下して以降,その勢力を肥後,肥前,筑後に及ぼし九州を手中にする勢力に拡大した。その報を聞き,全国統一を画していた秀吉は,85年10月,勅を奉じて島津義久を諭し,大友氏と和を図らせる停戦令を出したが,島津氏は〈秀吉は由来なき仁,返書は笑止〉として応諾しなかったばかりか,島津氏の行動を正当とし,対決姿勢を示した。秀吉は翌86年3月,九州国分(くにわけ)策として肥後半国と筑後を大友氏に,肥前1国を毛利氏に,筑前は京都より知行,それ以外は島津氏領国にすると提案するとともに,大友氏の島津氏征服の強い要請により,毛利氏に軍事動員を指示して,島津氏からの返書を待った。しかし,7月に大友氏から島津氏は同心せずの書状を得て,秀吉みずから遠征の意を決めた。秀吉は大唐国の征服をも意図し,その出兵基地として九州を構想していたので,島津氏征服はその構想にも好つごうであった。そこで8月,黒田孝高らを九州に派遣して豊前を攻略させ,また仙石秀久を豊後に派遣して島津氏攻略を開始した。さらに12月に檄(げき)を畿内,北陸などの諸国に伝えて20万余の大軍を構成し,翌87年正月に九州攻略の部署を決定し,3月1日みずから京都を出発した。弟秀長らには豊後路を南下させ,みずからは筑前・肥後方面から攻撃した。攻略は順調に進み,4月19日には肥後八代城に進み,ついで5月4日薩摩川内(せんだい)泰平寺を本営とした。その間,大唐渡海の地として博多の直轄都市化を命じた。秀吉軍の勢いをみた島津氏はついに屈し,5月8日義久は剃髪して罪をわび,弟義弘,家久がともに泰平寺で秀吉に下り,秀吉の九州統一は完了した。秀吉は島津氏に侵略地の返上を命じ,6月7日には帰途の博多で九州国分を行い,大唐遠征の基地として筑前に小早川氏を入封させ,博多を直轄都市とし,また長崎貿易独占のため伴天連(バテレン)追放令を出し,九州を〈五畿内同前〉の体制とすることとした。
→文禄・慶長の役
執筆者:森山 恒雄
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