釜屋町(読み)かなやまち

日本歴史地名大系 「釜屋町」の解説

釜屋町
かなやまち

[現在地名]津市北丸之内きたまるのうち

塔世とうせ町の西に門前もんぜん町・釜屋町と続く。城下町形成時より、辻越後守家種らの鋳物師が居住した。寛永期(一六二四―四四)と推定される藤堂采女正の書状(津市史)には「鋳師越後殿」「か満屋越後殿」「釜屋」などとあるから、釜屋を屋号としていたらしい(三国地志)。当初は鋳物師いもじ屋敷とよばれたが、しだいに市街化して釜屋町と称した。町名は早くから「かなや」と訛ったらしく、寛永期および慶安期(一六四八―五二)の城下図(多羅尾家蔵)には「金屋町」と記される。初代藩主藤堂高虎によって城下町が整備された頃は塔世川分流のさくら川に沿って南側に形成された釜屋町は、津城下町の北端にあたり、それより北の安濃あのう川までの低地人家はなかった。釜屋町の南側は藤堂仁右衛門(津城代家老)の家来衆の屋敷が接し、これより武家屋敷地に入るので、釜屋町口番所が設けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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