津城下(読み)つじようか

日本歴史地名大系 「津城下」の解説

津城下
つじようか

伊勢平野中部の安濃あのう川・岩田いわた川が形成する三角洲にある津藩藤堂氏の城下町。本丸と東丸・西丸の周囲を二ノ丸で包み、その外側を囲む外堀を挟んで、北・西・南の三方を武家屋敷とし、東側を南北に伊勢参宮街道が走り、その両側に町屋が並ぶ。小規模ながら両河川を守りとして取入れた低湿地に形成された典型的な平城および城下町である。

〔築城と城内〕

織田信長の伊勢平定政策の一環として、当地方に根を張る長野氏の養子となった信長の同母弟織田信包が、戦陣の間を縫って元亀二年(一五七一)頃から天正八年(一五八〇)までかかって築城した。「累世記事」(上野市立図書館蔵)に「地の利自然と備りたるゆえ、一益なわ張りし、塁を築き、一、二の円郭、三つの外曲輪、両門を構えて要害に用ふ、営成りて織田上野介信包、天正八年此所に移る」とある以外、詳細は不明。宝暦五年(一七五五)写の織田氏安濃津城古図(樋田清砂氏蔵)があるが、略図のうえに後代の写図であるので、根拠は明らかでない。この図によれば本丸の東に二ノ丸(のち東丸)があり、南にも二ノ丸があり、その東に三ノ丸がある。この三ノ丸に門矢倉と橋があり、これが大手門となる。内堀の周囲の丸之内まるのうちの外側に外堀があり、地頭領じとうりよう町口と分部わけべ町口の二つの土橋が架かり、これが城の二大手口となる。本丸西の内堀の西側(のちの西丸付近)に織田民部殿屋敷とある。これは信包の長男民部少輔信重で、のちに一万石で奄芸あんげ郡のはやし(現安芸郡芸濃町)城主となった。慶長五年(一六〇〇)の富田信高の籠城戦に関する記録や、城の旧観を述べた江戸初期の記録が数種あり、それらより推測される城の構造は、前記古図とも比較的共通する。公室年譜略・玉置覚書(国訳聿修録)などに「富田信濃殿御在城の時」の様子が記されるが、織田時代の城の構造とほとんど変化がないようである。

慶長一三年藤堂高虎が伊賀一国と伊勢中部で二二万九五〇石を領して入部し、同一六年津城と伊賀上野城の修築を本格的に開始した。公室年譜略にこの時の城地改修の要領が一〇ヵ条ほどにまとめられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の津城下の言及

【津[市]】より

…津藩主藤堂氏の山荘であった市立偕楽公園はツツジ,桜の名所で,南部の阿漕(あこぎ)浦は海水浴場として知られる。【成田 孝三】
[津城下]
 伊勢国安濃郡の城下町。古くは安濃津(あのつ)と呼ばれ,博多津,坊津(ぼうのつ)と並ぶ三津の一つであったが,15世紀末の地震によって港湾としての機能は弱まり,一海浜農村になった。…

※「津城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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