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安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣秀吉の次男。幼名拾丸(ひろいまる)。母は側室淀殿(よどどの)浅井氏。大坂城で出生。翌1594年(文禄3)12月新築なった伏見(ふしみ)城に移され育てられた。57歳にして実子を得た秀吉の愛育ぶりはひとかたでなく、また周囲からも秀吉の愛児ということで特別に扱われ、95年3月にはその伏見移居の祝儀として朝廷から勅使が遣わされ、太刀(たち)・馬を下賜されるほどであった。同年7月関白秀次が自刃してからは、豊臣家の世嗣(よつぎ)と目された。秀吉は、拾丸の将来を非常に疑懼(ぎく)し、傅役(もりやく)には前田利家(としいえ)を選び、また徳川家康、毛利輝元(てるもと)らの大名には血判の誓書を出させ、拾丸に対して忠誠を誓わせ、翌96年(慶長1)正月にも再度この誓書提出のことを行わせている。同年5月秀頼は秀吉に伴われて参内して天盃(てんぱい)を賜り、従(じゅ)五位下に叙され、同12月には秀頼と改名した。97年9月禁中において元服し、従四位下・左近衛権(さこのえごん)少将に叙任され、その翌々日には左近衛中将に進み、98年4月には6歳にして従二位・権中納言(ごんちゅうなごん)となった。同年、重態となった秀吉は再三諸大名に血判の誓紙を書かせ、秀頼を助けて忠誠を尽くすことを誓わせたが、秀吉が死去するとそれも反故(ほご)同然となり、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍大敗すると、豊臣氏は摂河泉約70万石の一大名に転落した。03年4月内大臣となり、同7月には徳川秀忠(ひでただ)の女(むすめ)千姫(せんひめ)をめとり、05年4月右大臣に上るが、政治的大勢のなかで豊臣氏の退潮は覆うべくもなかった。14年11月大坂の役(冬の陣)が起こり、15年(元和1)5月再度の大坂の役(夏の陣)で大坂城は徳川軍の総攻撃を受けて落城し、秀頼は生母淀殿とともに自刃し、豊臣氏は滅亡した。
[橋本政宣]
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安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の側室淀君が生んだ次子。幼名拾(ひろい)。長子の鶴松は1591年(天正19)8月に3歳で死んでおり,名実ともに秀吉の世嗣。秀吉が死ぬ98年(慶長3)には従二位権中納言に昇進していた。このとき徳川家康らの年寄衆,石田三成らの五奉行はじめ主要武将は秀頼への忠誠を誓約している。関ヶ原の戦後も大坂城に居城し,公儀権力に支えられた存在であったが,実体は摂津,河内,和泉の60万石を領有する一大名にすぎなかった。1603年家康の将軍宣下のおりに内大臣。徳川秀忠の娘千姫と結婚。05年秀忠の将軍宣下のおりに右大臣となる。14年,方広寺大仏殿の開眼供養の問題(鐘銘事件)で徳川氏と対立し戦闘となったが,和議が結ばれた。しかし翌年5月の大坂夏の陣で落城し,淀君とともに大坂城で自殺し豊臣氏は滅亡した。公家文化に親しみ名筆でも知られている。
執筆者:三鬼 清一郎
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1593.8.3~1615.5.8
織豊期の武将。秀吉の子。側室浅井氏(茶々のち淀殿)を母として大坂城内で誕生,拾(ひろい)と名づけられた。1594年(文禄3)伏見城に移る。翌年,養嗣子秀次を処分した秀吉は,有力大名に秀頼への忠誠を誓約させた。秀吉の死後,遺言により大坂城へ移る。1600年(慶長5)関ケ原の戦後は実質上,摂津・河内・和泉65万石余の大名となるが,公儀権力としての側面も保持,官位も徳川氏との均衡を保ちながら累進。この間徳川秀忠の女千姫と結婚,11年に二条城で徳川家康と会見した。14年,方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂冬の陣が勃発,翌年の夏の陣で大坂城が陥落。母淀殿とともに自害し,豊臣氏は滅んだ。
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…追加の署名には上杉景勝を加えて6名とするが,この人々は後のいわゆる豊臣氏五大老に当たるから,この条目は豊臣氏五大老の署名による大名・公家・門跡統制令ということができる。そしてこの条目は,豊臣秀頼の家督継承が確定し,同年7月いわゆる五大老・五奉行並びに在京諸大名が忠誠を誓ったその翌月発布されており,秀頼による豊臣政権の基本的法令とみなすことができる。条目5ヵ条追加9ヵ条計14条のうち前者の第1条では大名間通婚の制,第2条では大名間の私的誓約の禁止を定め,そして第3条では喧嘩口論に対する措置,第4条で無実の事件を訴訟した場合の措置,第5条で乗物に対する特権付与の制を定めている。…
…江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。
[原因]
1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限を手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。…
…したがって五奉行は豊臣氏諸奉行の代表として秀吉没後の政務を担当したわけであり,長束は主として財務を,前田は所司代として洛中洛外ならびに社寺に対する諸政を担当し,他の3奉行は諸大名との交渉や人質問題,一般庶政・司法を担当したといわれる。そして日常の政務については1人ないし2人,大事の政務については5人協力のもとにこれを処置し,とくに豊臣氏蔵入地(太閤蔵入地)の算用については責任を有し,豊臣秀頼が成人したときにこれを報告する責任を負うものとされ,全般について五大老の上首である徳川家康と前田利家の指揮・監督を受けるように遺命されていた。したがって五奉行は秀頼擁立体制の実務面における中枢であったといえよう。…
…1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。…
…京都市東山区にある天台宗の寺院。大仏殿とも呼ぶ。豊臣秀吉の創建で1595年(文禄4)完工。6丈(約18m)木製金漆塗座像大仏が安置されたが96年(慶長1)地震のため大破し,98年秀吉の死後,秀頼は復興を命じ,1612年銅像大仏が落成。大仏は62年(寛文2)の地震で再び小破したので木像に造り替えられたが,1798年(寛政10)雷火のため大仏,本堂,楼門が焼失した。天保年間(1830‐44)に尾張国の有志が半身の像を造り,仮堂に安置したが,1973年火災で焼失,現在は鐘楼と鐘のみを残す。…
※「豊臣秀頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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