高野瀬村(読み)たかのせむら

日本歴史地名大系 「高野瀬村」の解説

高野瀬村
たかのせむら

[現在地名]豊郷町高野瀬・大町おおまち

愛知えち郡に属し、さわ村の東、上枝かみえだ村の北西にあり、東を中山道が通る。天正一九年(一五九一)五月の愛知郡蔵入目録(芦浦観音寺文書)に東高野瀬村とあり、高四〇〇石余。慶長高辻帳に高七九八石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男二〇九・女二五一、寺社方男三。年代不詳の村絵図(滋賀大学経済学部付属史料館蔵)によれば、中山道沿いに六三戸が描かれる。「木間攫」には、佐々木氏の旗頭高野瀬備中守の在城したところと記される。


高野瀬村
たかのせむら

[現在地名]菊池市隈府わいふ

隈府町の北、迫間はざま川左岸に位置する。北は玉祥寺ぎよくしようじ村、東は正観寺しようかんじ村に接する。隈府町高札辻より約五町。天正一七年(一五八九)検地帳に「高瀬村」とみえ、畠二〇町八反三畝余・田三町四反二畝余、分米一九三石六斗余とあり、畠作に依存する度合が高かった。近世、深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑には高一四四石四斗、田一町九畝余・畑一四町一反三畝余、竈数二七・人数一二五、馬二〇、氏仏観音とあり、迫間川筋に磧二ヵ所(赤仁田磧・車磧)があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

五節舞

日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...

五節舞の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android