アイルランド共和軍Irish Republican Armyの略称。この呼称はすでに19世紀のナショナリスト急進派のアイルランド共和主義同盟IRB(フィニアン)によって使われており、イースター蜂起(ほうき)に際しても蜂起軍が使っている。広くナショナリスト全体で使われ始めたのは1919年にシン・フェイン党がアイルランド国民議会を開設し、独立を宣言してからである。国民議会は国際的に独立が認められなくても国家としての実体をつくろうと、これまでの義勇軍を共和国軍として認知したのである。しかしアイルランド自由国の成立に際して分裂し、自由国を認めず、したがってその後の共和国も認めないで武力闘争を続ける勢力が主体となると、IRAの活動はもっぱら北アイルランドに限定されていった。そして北アイルランド国家の確立と第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)によってしだいにその活動の場を失っていった。
IRAの活動が復活したのは、1960年代の公民権運動の展開によってであった。運動に対するユニオニスト(プロテスタント)の攻撃が暴力化し、鎮圧に入ったイギリス軍がカトリック取締りに集中したからで、イギリスを敵とし、アイルランドの統一を目標とするIRAの格好の出番となったのである。しかしアイルランドの急進的ナショナリストはIRB以来、民族の意向に敏感に反応する伝統をもち、カトリック住民の揺れ動く感情のままに停戦に踏み切ることもあり(たとえばイギリスの直接統治のはじまった1972年)、またその過激なテロ活動も、イギリスの無差別的な抑圧や冤罪(えんざい)のせいでカトリック住民の支持を失うことがなかった。1970年にシン・フェイン党の分裂とともに分裂、オフィシャル(公式派)IRAはその後武力闘争をやめて労働者党になる。その後のIRAはプロビジョナル(暫定派)IRAをさす(プロボとよばれた)。
1993年12月のダウニング街宣言でイギリス政府とアイルランド政府がシン・フェイン党の地位を認め、和平協議への参加を認める条件としてIRAに停戦を求めると、1994年8月IRAは停戦に踏み切った。しかし協議前の武装解除にイギリス政府と北アイルランドのユニオニストが固執したため、1996年2月IRAは停戦を放棄し、武力闘争を再開した。その後イギリス政府が労働党政権にかわり、アメリカのミッチェル元上院議員を議長とする国際委員会の提案にしたがって和平協議と武装解除を並行することに決定したため、IRAは1997年7月ふたたび停戦を宣言し、その結果シン・フェイン党も加わっての和平協議が1998年5月に行われた。しかしIRAオフィシャルから成立したアイルランド民族解放軍(INLA)やIRAの分派はユニオニストの最過激派と競ってテロを続けた。
[堀越 智]
和平協議の結果、北アイルランドはイギリスにとどまるかわりに、北アイルランド議会を設置して自治権を確立する、北アイルランド議会とアイルランド政府の協議機関を設置するなどの和平案がまとまり、1998年5月に実施された住民投票で72%の賛成を得た。この結果を受けて、翌6月に北アイルランド議会選挙が行われ、和平派が多数を占めた。そして1999年12月に北アイルランド自治政府が発足した。しかし、和平合意に含まれていたIRAの武装解除はなかなか進展せず、イギリス政府は2000年2月に自治政府の機能を停止し、直轄統治を復活させる強硬処置に出た。これに対しIRAも反発し、和平そのものの崩壊の危機に直面した。5月には自治政府が復活したが、これを受けてIRAもようやく武装解除のプロセスを提示した。IRAの武装解除に対する査察も実施され、和平へ大きく前進するとみられた。しかし、2001年6月にIRA武装解除の期限を迎えたが、警察のほとんどがプロテスタント勢力で占められていること、イギリス軍が北アイルランドに駐留を続けていることなどを理由にIRAが武装解除を拒否したため、混迷が深まった。そして以後、IRAの武装解除をめぐって紛糾し、ふたたび北アイルランド自治が凍結される事態となった。その後、テロ活動に対してさらに厳しさを増した世論の動向をみて、IRAは2002年4月、2003年10月と段階的に武装解除を実施、そしてついに2005年7月、IRAによって「メンバーに武器の放棄と武装闘争の終結を命じた」という声明が出された。9月には中立的な「独立国際武装解除監視委員会」もIRA武装解除の完了を確認した。こうして、IRAは長い武装闘争に終止符を打ったが、これにより2007年5月に北アイルランドの自治が復活した。
[編集部]
『鈴木良平著『IRA』(1991・彩流社)』▽『小野修著『アイルランド紛争―民族対立の血と精神』(1991・明石書店)』▽『堀越智著『北アイルランド紛争の歴史』(1996・論創社)』
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アイルランド全島の独立共和国化を目ざすカトリック系の非合法軍事組織〈アイルランド共和主義軍団Irish Republican Army〉の略称。萌芽形態はアイルランド共和主義同盟(IRB,1858結成)の軍事組織にあるとされるが,イースター蜂起(1916)でアイルランド義勇兵として初めて歴史の表面に出る。1919年のシン・フェーン党議員によるアイルランド国民議会の開催,共和国の独立宣言後,義勇兵はIRAと呼ばれ,正規軍としてイギリスを相手に独立戦争を戦った。しかし英愛(イギリス・アイルランド)条約によるアイルランド自由国の発足をめぐって分裂し,全島の共和国としての独立を主張する反対派は賛成派(自由国政府軍)との内戦(1922-23)のすえ鎮圧された。以後のIRAは組織自体の連続性はないが,内戦時の反対派と同じ政治的立場にたつ。31,36年に非合法化されたが,断続的にテロ行為を繰り返し,69年以降,差別待遇の廃止を求める北アイルランドのカトリック市民とプロテスタント過激派との紛争を契機に,北アイルランドからのイギリス軍の撤退と完全独立を求めて武力抗争が活発化した。なお69年武力抗争を主張する暫定派と社会主義路線をとる正統派とに分裂した。
執筆者:上野 格
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…そして,プロテスタントの支配を維持するために,政治的・経済的にカトリック系住民を差別する政策が徹底してとられた。 北アイルランド政府は発足当初からIRA(アイアールエー)の存在という難題をかかえていた。カトリック系住民を背景にもつIRAは,北アイルランドの存在自体を否定し,アイルランド全島のイギリスからの分離,独立共和国化を進めようとする。…
…この再分裂の後に残ったシン・フェーン党は,30,40年代には,北アイルランドからのイギリス軍の撤退と全島の再統合を主張し,37年の新憲法,49年のアイルランド共和国法をともに拒否した。40年代後半には非合法組織IRAの同党への影響力が強まる。60年代には社会主義的な方針をとり,68年の北アイルランド公民権運動を支持したが,IRAの暫定派と正統派への分裂にともないシン・フェーン党も70年に暫定派Provisionalと正統派Officialとに分裂した。…
※「IRA」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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