シンフェーン党(読み)シンフェーンとう(英語表記)Sinn Fein

翻訳|Sinn Fein

改訂新版 世界大百科事典 「シンフェーン党」の意味・わかりやすい解説

シン・フェーン党 (シンフェーンとう)
Sinn Fein

アイルランドの独立運動を推進した政治団体。名称は〈われら自身〉を意味するアイルランド語。1905年にアーサー・グリフィスの指導でグラタン議会再現を目的として結成され,機関紙《シン・フェーン》(1906-14)を発行。アメリカにも支援団体が組織された。経済政策にドイツのフリードリヒ・リストの保護主義を採用するなど,現実的な政策を掲げたが,当初あまり大きな支持は得られなかった。第1次大戦に際して徴兵反対運動を起こし,にわかに支持を集めたが,1916年のイースター蜂起では,直接にはかかわりをもたなかった(ただし,この蜂起を鎮圧側はシン・フェーン反乱と呼んだ)。17年春,デ・バレラ議長に就任し,目標を独立共和国の樹立に定める新しい運動が展開された。18年の総選挙で圧倒的支持を得たシン・フェーン議員は,ウェストミンスター議会に出席することを拒み,19年1月ダブリンで第1回国民議会を開催,独立宣言を採択し,デ・バレラを大統領に選出した。これを認めぬイギリスとの間の独立戦争ののちイギリス・アイルランド条約によりアイルランド自由国が成立(1922)するが,条約賛否をめぐってシン・フェーン党も分裂した。賛成派はゲール党と改称し,のちにフィネ・ゲール統一アイルランド党)となる。デ・バレラの率いる条約反対派は,シン・フェーンを名乗って自由国議会選挙(1923)で44議席をとるが,議会には出席しなかった。しかし,26年にはデ・バレラも自由国議会に出席する方針をとって離党し,フィナ・フォイル共和党)を結成した。この再分裂の後に残ったシン・フェーン党は,30,40年代には,北アイルランドからのイギリス軍の撤退全島の再統合を主張し,37年の新憲法,49年のアイルランド共和国法をともに拒否した。40年代後半には非合法組織IRA同党への影響力が強まる。60年代には社会主義的な方針をとり,68年の北アイルランド公民権運動を支持したが,IRAの暫定派と正統派への分裂にともないシン・フェーン党も70年に暫定派Provisionalと正統派Officialとに分裂した。77年に正統派シン・フェーンはシン・フェーン労働者党と改称,民主的社会主義共和国としてアイルランド全島が独立することを目標とする合法政党として再出発し,さらに82年にはシン・フェーンという名称を廃して,労働者党となり,現在にいたっている。なお92年には,同党のマルクス・レーニン主義に反対するグループが離脱して,民主左派Democratic Left党を結成した。従ってシン・フェーンを名乗るのは暫定派のみとなり,これが現在はシン・フェーン党として,IRAと連絡のある合法政党となっている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シンフェーン党」の意味・わかりやすい解説

シン・フェーン党
シン・フェーンとう
Sinn Féin

アイルランドの政党。1900年アーサー・グリフィスの呼びかけにより民族独立を目指す政治結社として結成された。その名称はゲール語(→スコットランド・ゲーリック語)で「われわれ自身だけで」の意味。自治法案を求める運動,政治,経済,社会,文化の各分野で具体的な自立政策を掲げて独立を志向。1913年にはアルスター義勇軍に対抗してダブリンでアイルランド義勇軍を創設,反イギリスの姿勢を示し,1916年4月24日の復活祭に,ジェームズ・コノリー指導の市民軍と協力してダブリンで反乱を起こし,1週間イギリス軍と戦って鎮圧された(→復活祭蜂起)。1918年の選挙で大勝。イギリス議会への出席を拒み,翌 1919年1月に国民議会(ダール・エーレン)を開いて独立を宣言。イギリスとの戦闘ののち,1921年12月6日のイギリス=アイルランド条約をめぐって,アイルランド共和軍 IRA,完全独立を主張するデ・バレラ派,グリフィスを中心とする穏健派などに分裂していった。その後も IRAは非合法化組織として残り,シン・フェーン党はその政治部門としての役割を続けた。しかし支持は先細りとなり,1982年のアイルランド議会選挙では 1議席も獲得できず,1986年の選挙は参加をボイコットした。1987年,政治綱領を修正し,カトリック系労働者の生活改善,イギリス軍撤退,アイルランドの全政党が参加する会議の開催を掲げた。1987年の選挙ではジェリー・アダムズ党首がイギリス議会の上院に当選するが辞退。その後もイギリス政府側と和平交渉が続いたが,1997年9月にシン・フェーン党を含む主要 8政党による和平交渉が開始され,1998年4月に包括和平合意「聖金曜日の合意」が成立,翌 5月の住民投票で承認された。

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百科事典マイペディア 「シンフェーン党」の意味・わかりやすい解説

シン・フェーン党【シンフェーンとう】

アイルランドの政党。Sinn Feinは〈われわれ自身〉の意。1905年A.グリフィスが英国からの民族独立をめざす政治結社として結成。1916年ダブリンにおけるイースター蜂起(ほうき)は失敗したが,これを契機に急激に発展。1918年の国会選挙に大勝,即時独立を主張して左派のデ・バレラを指導者とする事実上の独立政府を樹立,アイルランド共和軍(IRA)を中心に武装抵抗を展開した。1921年英国ロイド・ジョージ内閣の休戦提案をめぐり左右に分裂,1922年アイルランド自由国成立後,共和党と統一党になった。 その後1970年北アイルランドで〈シン・フェーン党暫定派〉として復活し,IRAと連絡のある合法政党として活動している。なお,1970年に分裂した他方の〈正統派シン・フェーン〉は1977年〈シン・フェーン労働者党〉,1982年〈労働者党〉と改称,民主的社会主義共和国としてのアイルランド全島の独立を主張し今日に至る。
→関連項目アイルランド問題

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世界大百科事典(旧版)内のシンフェーン党の言及

【アイルランド国民議会】より

…1919年1月21日から22年12月5日まで続いたアイルランドの憲法制定議会。1918年12月のイギリスの総選挙で当選したアイルランドの議員105名のうち,独立を求める共和主義のシン・フェーン党に属する議員73名がダブリンで開催した。ただし,イギリスの獄中にあって当選した36名など出席不能の議員が多く,出席できたのは27名であった。…

【アイルランド国民党】より

…パーネル失脚(1890)後弱体化したが,レドモンドJohn Redmond(1856‐1918)の指導の下で再生し,アスキスを支持して1914年の第3次自治法成立に力を尽くした。18年の総選挙でシン・フェーン党に敗れ,以後消滅した(ただし,北アイルランドの同党は1925年までロンドンに議員を送っていた)。【上野 格】。…

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