アイルランド問題
あいるらんどもんだい
Irish Question
Irish Problem
イギリス支配に反抗したアイルランドに手を焼いたイギリスが、アイルランドに関するやっかいな問題を総称してこうよんだ。現代のアイルランドではイギリス植民地支配がつくり出した問題だとして「アイルランドのイギリス問題」という。
イギリス支配は12世紀に始まるが、17世紀のジェームズ2世とアイルランド・カトリック軍の敗北でアイルランドは本格的な植民地支配を受けることになった。それはカトリック教徒に対する徹底した差別と18世紀に入って成長してきた商工業に対する抑圧、とくに貿易制限であった。18世紀の西ヨーロッパは市民革命期に入り、アイルランドにおいても都市の商工業を営む市民(プロテスタント)を中心に革命運動が盛り上がった。その課題は第一に自由貿易、第二に自治議会、第三にカトリック解放で、アメリカ独立、フランス革命といった国際環境にも恵まれて徐々に実現していった。同時にプロテスタントもカトリックも含めて、また先住ケルト系にアングロ・サクソン系、ノルマン系を含めてアイルランド民族としての意識が強まり、独立の共和国を求める運動が、1798年のユナイテッド・アイリッシュメンの武装蜂起(ほうき)となった。このようにアイルランド問題は市民革命の問題であると同時に民族問題となったのである。
[堀越 智]
しかし、1798年の蜂起が失敗してアイルランドは1801年にイギリスに併合され、連合王国に組み込まれた。最初の問題は前世紀に不十分にしか果たせず、そして併合時のイギリス政府の約束であるカトリックの全面解放であった。1829年にそれがカトリック教徒解放法として実現すると、その指導者オコネルは併合法を廃止して自治議会を復活させる運動に進んだ。この時期は産業革命期でもあり、貧しいアイルランド労働者が大量に流入し、都市にスラム街を形成したためアイルランド問題は、イギリス国内のアイルランド人問題とも深く関係するようになった。
アイルランドではイギリスとの連合によってブリテン人意識が生じてくるが、一方では宗派の違い、人種の違いを超えてのアイルランド民族意識の高揚もあった。人口を4分の1も減少させた19世紀なかばの大飢饉(ききん)が反英感情を強め、19世紀後半にはパーネルの国民党によって強力になった自治運動がイギリス政府を困らせ、またアイルランド共和主義同盟IRB(フィニアン)による武力主義も土地問題に苦しむ民衆に根強い支持を受けた。しかもこの両者は密接な関係をもちつつ運動を展開したので、困り果てたイギリス政府はとくにアイルランド問題を最重要課題とした。3回にわたる土地戦争の結果、不在地主制度が廃止になり土地問題は基本的に解決したが、自治・独立問題は容易ではなかった。イギリス保守党の反対もあったが、それ以上にイギリスとの連合の継続を強く願うユニオニスト(プロテスタント)が、1912年に提出されて成立が確実視された第三次自治法案に対して武力を行使してでも阻止すると強硬姿勢をみせたのである。
[堀越 智]
第一次世界大戦が始まるとアイルランド自治問題は一時棚上げになったかのようにみえたが、それはイギリス側の思惑であって、「イギリスの危機はアイルランドの好機」というアイルランドの急進的ナショナリストは、早速、武装蜂起を準備した。1916年のイースター蜂起は敗北に終わったが、イギリスの無差別な鎮圧政策が穏健派と急進派とを結合させる結果となり、大戦終了後の総選挙で圧勝し、その後の独立戦争も戦いぬいて、1921年のイギリス・アイルランド条約でナショナリストが圧勝しアイルランド自由国として独立に近い自治を獲得した。
自由国はその後、1937年に「エール」と国名を改めて事実上独立し、第二次世界大戦後の1949年にアイルランド共和国として完全に独立、イギリス連邦からも離脱した。しかし東北部6県が北アイルランドとして連合王国に残されたことは現在も紛争の続く深刻な問題を残すことになった。
アイルランドのナショナリストは南北分割を認めたわけではなく、共和国憲法は北アイルランドも含めてアイルランドの領域と規定している。そのナショナリズムは独立当初、民族文化とくに民族語の復活に力を入れた。しかしほとんど死語同然になっていたゲール語を復興することは困難で、初等教育でのゲール語修得、公務員採用試験や大学入試への義務づけ、ゲール語使用地域の保護などを行っているが、現在も衰退の道をたどっている。ナショナリズムが後退したのは、独立から半世紀を経て国家基盤が固まってきたことの自信もあり、また歴史的な貧困から脱却するためにはナショナリズムよりは経済成長という選択の問題からでもあった。外国企業の誘致に積極的に取り組み、さらに1973年にEC(ヨーロッパ共同体)に加盟してから経済成長が徐々にではあるが、進んだ。1990年代後半には電子産業の好調からアイルランド・ポンドはイギリス・ポンドを上回るほどになって、スコットランド国民党が「われわれの目標はアイルランドだ」というほどである。
アイルランド問題はこのように独立によって基本的に解決しつつある。残る北アイルランド問題も和平プロセスにもアイルランド政府が重要な役割を果たすようになっている。
[堀越 智]
『堀越智著『アイルランド民族運動の歴史』(1979・三省堂)』▽『T・W・ムーディ、F・X・マーティン編著、堀越智監訳『アイルランドの風土と歴史』(1982・論創社)』▽『P・B・エリス著、堀越智・岩見寿子共訳『アイルランド史―民族と階級』上下(1991・論創社)』▽『上野格著「アイルランド」(松浦高嶺著『イギリス現代史』所収、1992・山川出版社)』▽『松尾太郎著『アイルランド民族のロマンと反逆』(1994・論創社)』▽『S・マコール著、小野修編、大渕敦子・山奥景子訳『アイルランド史入門』(1996・明石書店)』▽『波多野裕造著『物語アイルランドの歴史』(中公新書)』▽『R・フレシュ著、山口俊章・山口俊洋共訳『アイルランド』(白水社文庫クセジュ)』▽『オフェイロン著、橋本槙矩訳『アイルランド―歴史と風土』(岩波文庫)』
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アイルランド問題 (アイルランドもんだい)
Irish Question
イギリスのアイルランド支配からおもに生じたアイルランド社会の諸問題。問題をアイルランドの外側からとらえた場合の表現として用いられることが多い。〈紛争〉〈やっかいな問題〉という響きもある。具体的には,土地問題,宗教問題,民族の自治または独立の問題を指す。アイルランド人はチューダー朝期からイギリス革命期にかけてたびたび土地を没収され,18世紀には異教徒刑罰諸法の影響も加わって,住民の大部分を占めるカトリック教徒は土地を失い,イギリス系地主(多くはプロテスタント)とアイルランド小作農(カトリック)という農村構造ができ上がった。しかし,19世紀後半には,C.S.パーネルらの率いる土地同盟(1879結成)をはじめとする農民運動の展開と,世紀末の数次の土地立法によって,小作農は土地購入代金を全額貸与され,基本的に土地問題は解決した。宗教問題はヘンリー8世の宗教改革がアイルランドにも強制され,イングランド,スコットランドからの入植者などプロテスタント地主が勢力を増すにつれて深刻な社会問題になってきた。カトリックは宗教ゆえに政治的・経済的諸権利を剝奪され,貧困層,被支配層におしやられ,プロテスタントは富裕層,支配層を形成した。この構造ができ上がるにつれて,カトリック側は民族主義的要求を強く抱くようになる。土地問題,宗教問題を背景として,19世紀以来イギリスからの自立,独立を求める運動が激化する。ウルフ・トーンのユナイテッド・アイリッシュメンの運動と蜂起(1798)は,プロテスタントとカトリックが力を合わせてアイルランドの自立と近代化を達成しようとするものであったが,D.オーコンネルのカトリック解放運動は,まずカトリックに政治的権利を回復させようとするものであった。カトリック解放法(1829)成立の後,彼は合併撤回によりアイルランドに自治を取り戻すべく運動する。これに対し,おもにアルスター地方のプロテスタントは,イギリスとの合併を維持することで自らの権益を確保しようとし,両派の対立・抗争は北アイルランドの分離(1921),アイルランド自由国の成立(1922)をへて,現在の北アイルランド紛争に続いている。
→北アイルランド
日本におけるアイルランド問題
明治10年代(1877-86)から昭和の初めまで,日本ではさまざまな視点からアイルランド問題についての言及がさかんに行われた。特徴的なことは,(1)日本を〈小国〉アイルランドになぞらえる当初の視点が,大正期には〈大国〉イギリスに擬して論ずる姿勢に変わること,(2)日本の近代化の進展によって生じた諸問題と重ね合わせてアイルランド問題をとらえようとしたことである。以下年代順に五つの問題について紹介する。(1)自由民権運動,議会開設要求との関係で行われた,明治10年代からのイギリス議会制度の紹介・研究に伴うもの。当時イギリス議会最大の争点はアイルランド自治問題であり,イギリスの自由党を範とする立憲改進党の将来を占うものとして,自由党が推進するアイルランド自治法案の成否が注目され,民権派の機関紙や《国民之友》などで盛んに取り上げられた。小野塚喜平次をはじめ政治学者の論稿も多いが,日本の問題とのつながりは示唆されていない。(2)保護貿易政策の論拠としてのアイルランド問題。犬養毅,東海散士らは,イギリスとの自由貿易がかつてアイルランド経済を破壊したごとく,自由貿易政策は日本経済を破滅させると説いた。明治末までの一つの大きな主張であった。(3)植民地・民族問題。これには,大正期の朝鮮植民地統治の方策を,イギリスのアイルランド統治から学ぼうとするものと,アイルランド問題を論じて日本の植民地主義を批判するものとがあった。前者には,拓殖局嘱託吉村源太郎の《愛蘭問題》(1919)や朝鮮総督府の役人による現地調査に基づく部内資料などがある。これらの資料作成の背景には,朝鮮の三・一独立運動への対応という実際的な必要もあったといえる。一方,植民地主義批判としては,下田将美《愛蘭革命史》(1923)や矢内原忠雄の論文《アイルランド問題の発展》(1927)などがある。特に矢内原はアイルランド問題を民族独立と社会主義の問題として認識している。また,この時期に日本での解放運動の思想的確立を目ざす立場から,アイルランド独立運動をとらえた高橋貞樹の論文《愛蘭の民族解放運動》(1924-25)が,水平社青年同盟の機関紙《選民》に発表されたのも注目に値する。(4)自作農創設,小作制度改革の方策を探る手がかりとしてのアイルランド問題で,農業と土地法が研究された。沢村康ら若手農林官僚が石黒忠篤の下で行った研究《アイルランドの土地政策》(1926)は詳細をきわめ,また京都では河田嗣郎が研究を発表している。(5)昭和初期の日本資本主義論争において。平野義太郎の《アイルランドにおける土地問題》(1936)をはじめ,論争下で講座派,労農派ともにアイルランド農業・土地問題への言及がしばしば行われ,日本資本主義下の農業の特性が探られた。
執筆者:上野 格
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「アイルランド問題」の意味・わかりやすい解説
アイルランド問題【アイルランドもんだい】
アイルランド島は12世紀以来イングランドに征服され,ピューリタン革命中クロムウェルの遠征によって土地を没収され,プロテスタントの不在地主によって収奪された。宗教上・政治上の差別も加わったため,17−18世紀にはしばしば反乱が起こり,そのたび激しい弾圧を受けた。1800年イギリスに併合され,1829年カトリック解放法が成立したが,小作権の安定と地代の軽減を望む土地問題と,アイルランド人による自治要求の二つが,19世紀後半のイギリス政治の焦点となった。1914年自治法の成立後,シン・フェーン党を中心とする独立運動が激化し,1922年アイルランド自由国が自治領として認められたが,アルスター9州のうち6州は〈北アイルランド〉として分離され,今日に至る紛争の原因となった。→IRA
→関連項目アイルランド|ベルファスト
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アイルランド問題(アイルランドもんだい)
12世紀以来のイギリスのアイルランド支配によって生じた政治,宗教,土地所有が関連した一連の問題。16~17世紀以降,イングランドを中心にした国家統合,国教会体制の樹立,大西洋帝国の建設に巻き込まれたアイルランドにおいては,本国のプロテスタント不在地主の支配下にカトリックの貧農が置かれるという社会構造が固定化していたが,1801年の合同以降,土地問題,自治問題を焦点として,アイルランドの解放が図られた。1922年アイルランド自由国が実質的に独立を達成したものの,アルスター地方の一部はイギリスの統治下に留まって北アイルランド紛争の舞台となるなど,未解決の多くの問題を抱えている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アイルランド問題
アイルランドもんだい
イギリスに支配されたアイルランドの貧困・宗教・独立をめぐる問題
17世紀半ばの征服により植民地とされたアイルランドは,土地を奪われて,農民の6割が極貧農,3割が貧農となり,工業の発達をおさえられ,穀物を輸出してじゃがいもを常食とし,泥土の小屋に住まなければならなかった。このため少しの不作でも飢饉となり,多くの移民がイギリス・アメリカに渡った。1829年カトリック教徒解放法が成立し,19世紀後半より土地戦争・自治運動が強力に進められた結果,グラッドストンの土地法が成立し,以後土地の買い戻しが進んだ。また1922年自治領アイルランド自由国の成立後も完全独立を求める運動が続いた。1960年代末以降,北アイルランド問題でアイルランド共和国軍(IRA)の闘争が続いたが,1998年4月の北アイルランド和平協定調印で平和的解決の動きが実現した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のアイルランド問題の言及
【グラッドストン】より
… しかし,このころから時代の風潮は帝国主義へと向かって進み,彼の古典的な自由主義は,その中で,しだいに運用が困難となった。80年代以降,激しさを加えたアイルランド問題の解決をはかるべく,この島に自治を与えようとした。だが,彼の主張は,帝国の利害を重んずるチェンバレン一派を党内に生み出し,86年,彼が提出したアイルランド自治法案を契機に自由党は分裂して,第3次グラッドストン内閣の崩壊を招いた。…
【ピューリタン革命】より
…ついでクロムウェルは反革命勢力の掃討を理由に,アイルランドとスコットランドに遠征を企て,前者においてはカトリックに対する報復の残虐行為と大規模な土地の収奪を行って,その植民地化を促進した。これが今日の〈[アイルランド問題]〉のひとつの原点となっている。また51年議会が〈[航海法]〉を制定したため対オランダ戦争が勃発し,3回にわたって戦われたこの戦争(1752‐54,65‐67,72‐74)を通して,イギリスはオランダの海上覇権に挑戦し,植民地帝国建設に向けての第一歩を踏みだした。…
【名誉革命】より
…ウィリアム3世はこの事態を放置せず,みずから兵を率いて遠征し,7月ボイン川の戦闘でジェームズ2世の軍隊を破った。これ以後,アイルランドにおける土地の収奪とカトリック弾圧がピューリタン革命期のクロムウェルの征服にもまして徹底的に推進され,これが今日の〈アイルランド問題〉の原点となった。 名誉革命は17世紀初頭以来の国王と議会の対立に終止符を打ち,〈議会における国王〉に主権が存在するという中世以来の伝統的な国制を守りながらも,議会制定法の優越する議会主権体制の基礎を固めた点にその意義が認められる。…
※「アイルランド問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」