日本歴史地名大系 「杉戸宿」の解説
杉戸宿
すぎとしゆく
現杉戸町域の西、古利根川左岸にあり、日光道中の宿場であった。安政二年(一八五五)建立の道標を兼ねた馬頭観音に「向すきとみち、南さつて道、一里半、北ぬまいなり八丁、北せきやと道二里」とある。杉戸は「杉津」「杉渡」の意で、利根川の渡場であったとも考えられる。田園簿に杉戸町とみえ、田高六九五石余・畑高四一七石余で、幕府領。元禄郷帳でも杉戸町と記す。幕府領として幕末に至ったものとみられる。幕府の鷹匠頭戸田五助組の捉飼場であった(文化一五年「捉飼場書上」藤塚村文書)。かつては慶長六年(一六〇一)徳川家康が伊達政宗に鷹場として与えた久喜を中心とする一〇〇余ヵ村のうちとされ、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)に杉戸町と記される。
元和二年(一六一六)人馬の継立を命ぜられたのが宿の始まりで(風土記稿)、明暦二年(一六五六)高役を免除されている(「御用留」福井家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報