蒲生忠知(読み)がもう ただとも

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蒲生忠知」の解説

蒲生忠知 がもう-ただとも

1605-1634 江戸時代前期の大名
慶長10年生まれ。蒲生秀行次男。母は徳川家康の娘振姫(ふりひめ)。寛永4年(1627)兄の蒲生忠郷が没し,嗣子がないため会津(あいづ)60万石を没収されたが,かわりに忠知伊予(いよ)(愛媛県)松山20万石と近江(おうみ)(滋賀県)日野4万石があたえられた。寛永11年8月18日死去。30歳。忠知にも嗣子がなく,蒲生家は断絶した。名は「ただちか」ともよむ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の蒲生忠知の言及

【蒲生氏】より

…平安~江戸初期の武家。鎮守府将軍藤原秀郷の次男千晴の子孫惟俊が陸奥国から上洛して平家に仕え,近江国蒲生郡を領して蒲生太郎と称したという。子俊賢は源頼朝に仕え,その後俊綱と子秀朝は足利尊氏に属して功があった。秀朝より7代目とされる貞秀とその子高郷は,近江守護佐々木六角氏に仕え,高郷の子定秀,孫賢秀は日野城主となった。賢秀は1568年(永禄11)六角氏が織田信長に滅ぼされたのち信長に属した。その子氏郷は信長・秀吉に仕え,歴戦の功により84年(天正12)伊勢松ヶ島12万石を与えられ(のち松坂に移る),90年会津黒川(若松)42万石(のち92万石)に封じられた。…

※「蒲生忠知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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