蒲生秀行(読み)がもう ひでゆき

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蒲生秀行」の解説

蒲生秀行 がもう-ひでゆき

1583-1612 織豊-江戸時代前期の大名
天正(てんしょう)11年生まれ。蒲生氏郷(うじさと)の長男陸奥(むつ)会津(あいづ)若松城(福島県)城主文禄(ぶんろく)4年父の跡をつぎ,徳川家康・前田利家の後見をうける。同年徳川家康の3女振姫(ふりひめ)と結婚。慶長3年重臣間の争いを理由に会津を没収され,下野(しもつけ)宇都宮12万石にうつる。関ケ原の戦いでは東軍に属し,6年会津にもどり,60万石となった。慶長17年5月14日死去。30歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の蒲生秀行の言及

【蒲生氏】より

…平安~江戸初期の武家。鎮守府将軍藤原秀郷の次男千晴の子孫惟俊が陸奥国から上洛して平家に仕え,近江国蒲生郡を領して蒲生太郎と称したという。子俊賢は源頼朝に仕え,その後俊綱と子秀朝は足利尊氏に属して功があった。秀朝より7代目とされる貞秀とその子高郷は,近江守護佐々木六角氏に仕え,高郷の子定秀,孫賢秀は日野城主となった。賢秀は1568年(永禄11)六角氏が織田信長に滅ぼされたのち信長に属した。その子氏郷は信長・秀吉に仕え,歴戦の功により84年(天正12)伊勢松ヶ島12万石を与えられ(のち松坂に移る),90年会津黒川(若松)42万石(のち92万石)に封じられた。…

※「蒲生秀行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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