朝日日本歴史人物事典 「蒲生秀行」の解説
蒲生秀行
生年:天正11(1583)
江戸初期の大名。会津若松城(福島県)城主。氏郷の長子,母は織田信長の娘。近江国(滋賀県)生まれ。幼名鶴千代。初め秀隆と名乗った。文禄4(1595)年父の遺領会津92万石を継ぎ,徳川家康や前田利家の後見を受ける。飛騨守,侍従。慶長3(1598)年重臣間の争いにより会津を没収され,下野国(栃木県)宇都宮12万石に減転封された。5年の関ケ原の戦では,東軍に属して宇都宮城を守衛し,翌年会津60万石を再び拝領した。このころに秀行と改名。12年徳川氏より松平姓を授けられた。14年秀行の出頭人(側近)と氏郷以来の重臣との間で争いがあり,御家騒動が起こったが,家康の計らいで改易の処分はなかった。会津で死去。秀行は,『当代記』によれば,大酒のみで行儀が悪く放縦な人物であったという。
(長谷川成一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報