岡崎城下(読み)おかざきじようか

日本歴史地名大系 「岡崎城下」の解説

岡崎城下
おかざきじようか

北から南へ流れる矢作川に、ほぼ東から注ぎ込むおと川(通称菅生すごう川)の合流点に近い北岸台地上に形成された城下町。岡崎城は北東部から続いてくる丘陵の西南端に、乙川に南面して築城され、それを取囲むように城地と町家があった。岡崎城下は東海道でも有数の宿場町でもあり、東はなぐり町から乙川の河岸段丘上に乙川とほぼ平行して東海道が東西し、籠田かごだ町から城の北西を迂回して八町はつちよう(現八帖町)に続いていた。

〔城下の形成〕

岡崎城は中世の菅生郷を割き取ってつくられた。鎌倉末期には、菅生郷内に真宗高田派満性まんしよう寺が建っており、乙川河畔ではおそらく総持そうじ寺のあった近世の籠田町の辺りと満性寺の近辺が開け、河川交通の要地となっていたのであろう。後の岡崎城二の丸跡地から南北朝期の製鉄跡と推定されるものが発見されているので、満性寺の近傍に居住した鋳物師安藤氏の活動がうかがえる。一五世紀中葉に乙川南岸一帯は西郷氏の勢力下に入り、やがて岡崎城が築かれた。西郷氏の居城した岡崎城は対岸明大寺みようだいじに築かれ、のち松平清康によって菅生郷に移されたのは享禄三年(一五三〇)と推定される。清康は三河各地への征服戦を進める一方、手狭な明大寺から竜頭山の城へ本城を移転拡張させたのであろう。

清康は城の区域を広め、後の大手門近くまで縄張して郭内に入れ、大手先の辺りには町家が建ち、市場も設けたという。松平広忠の時、天文一四年(一五四五)には岡崎市場(妙源寺文書)が現れるから、この市場を中心にして連尺れんじやく町などの初期城下町が形成されてきたのであろう。同一八年の本証ほんしよう(現安城市)門徒連判状には署判者一一五名中一四名が岡崎に居住していたことがわかる。おそらく城の近辺に屋敷を構えて在番するか、組屋敷的なものがこの頃には設けられていたのであろう。水野家在城の頃成立の「東照宮岡崎御在城記」(岡崎市史)、永禄三年御帰城之節屋敷割(三河国古事実録)に当時の家臣たちの屋敷割が記されている。これによると、本丸を中心にした後の内郭内に屋敷をもつものは、酒井雅楽頭・平岩主計・服部半蔵・酒井左衛門・石川伯耆・本多平八郎・鳥井彦右衛門らで、その外側の連尺町・殿との町などに町家と混住する形で本多作左衛門・高力与左衛門・伊奈半左衛門・天野三郎兵衛らが屋敷を構えていた。そのほか岡崎城北の能見のみ、東の根石ねいしかけ、南の六名むつなに固まって家臣などの屋敷が置かれていた。しかしこれらの家臣たちも多くはそれぞれ各地に所領家屋敷をもっているので「家忠日記」に記されるように、在番しない時は自分の領地に帰っていたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡崎城下の言及

【岡崎[市]】より

…1970年ごろから人口が急増し,名古屋への通勤者も増えている。【溝口 常俊】
[岡崎城下]
 三河国額田(ぬかた)郡の城下町。東海道の宿場町および矢作川水運の基地としても栄えた。…

※「岡崎城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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