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松平広忠 まつだいらひろただ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松平広忠
まつだいらひろただ

[生]大永6(1526).三河
[没]天文18(1549).3.6. 三河
戦国時代の武将。清康の子。母は青木貞景の娘。徳川家康の父。生涯を通じて今川義元の援助を受けた。天文 16 (1547) 年織田信秀の攻撃を受け,義元の援助を受けるため,6歳になる竹千代 (家康) を人質として駿府に送ったが,途中信秀の手に奪われた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松平広忠 まつだいら-ひろただ

1526-1549 戦国時代の武将。
大永(たいえい)6年生まれ。松平清康(きよやす)の子。徳川家康の父。天文(てんぶん)4年父の死で大叔父松平信定に三河(愛知県)岡崎城を追われる。今川義元の援助をうけ,6年帰城。10年刈谷城主水野忠政の娘於大(伝通院)と結婚。今川方の属将として織田信秀とたたかうが,16年義元への人質竹千代(家康)を信秀側にうばわれる。天文18年3月6日家臣に殺害された。24歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松平広忠

没年:天文18.3.6(1549.4.3)
生年:大永6(1526)
戦国時代の武将。三河岡崎城主松平清康の子。母は青木貞景の娘。幼名千松丸および仙千代。通称は次郎三郎。「守山崩れ」で父清康が横死したときわずか10歳で,老臣阿部定吉に擁せられて伊勢,遠江に逃れ,天文6(1537)年,今川義元の支援で岡崎城への帰還を果たす。以後,今川方部将としての扱いをうけ,尾張の織田信秀による三河への侵略と戦うことになった。同10年,水野忠政の女於大と結婚し,翌年12月には竹千代(家康)が誕生した。同16年8月,義元の要請で家康を駿府に送ることになったとき,途中,田原城の戸田康光に奪われ,織田信秀の手に引き渡されてしまった。信秀は広忠に味方するよう迫ったが,広忠はそれを拒絶している。翌17年の小豆坂の戦で今川軍が織田軍を破り,状況は好転しはじめたが,その矢先,家臣の岩松八弥に殺された。24歳だった。<参考文献>『新編岡崎市史』中世2

(小和田哲男)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まつだいらひろただ【松平広忠】

1526‐49(大永6‐天文18)
戦国時代の三河国の武将。清康の子で徳川家康の父。通称次郎三郎,法名道幹。守山崩れで清康が殺された後,一族の桜井松平信定に岡崎城を追放され,今川義元の後援で37年に復帰。41年刈谷城主水野忠政の女於大(おだい)(伝通院)をめとり,翌年家康が誕生したが,44年於大を離別した。織田信秀の三河進出と一族・家臣の離反に苦しみ,今川氏の属将となる。42年,48年の信秀の来襲を撃退するが,49年3月家臣に殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松平広忠
まつだいらひろただ
(1526―1549)

戦国時代の武将。三河(みかわ)松平家8代目。岡崎城主。清康(きよやす)の子。徳川家康の父。10歳のときに父清康が織田信秀(のぶひで)と戦うため、尾張守山(おわりもりやま)へ出陣中に家臣の阿部弥七郎(やしちろう)に刺殺(守山崩れ)されたため、大叔父信定(のぶさだ)に岡崎城を追われ、伊勢(いせ)、遠江(とおとうみ)、三河を流浪。のち今川義元(よしもと)の後援を受け、1537年(天文6)ようやく岡崎に帰ったが、以後も松平家では今川・織田勢力を背景に内紛が続いた。そうしたなかで41年、三河刈谷(かりや)城主水野忠政(ただまさ)の女(むすめ)(於大(おだい))と結婚、翌年に竹千代(たけちよ)(家康)が生まれた。その後45年安祥(あんじょう)城を攻め、47年には戸田康光(やすみつ)の拠(よ)る田原(たはら)城を陥れたが、織田信秀の来攻に際し、竹千代を人質として今川義元に救援を求めた。竹千代が駿府(すんぷ)に赴く途中、田原付近で戸田康光に奪われ、織田氏のもとへ送られたのはこのときである。のち三河平定に尽くしたが、天文(てんぶん)18年3月、近臣岩松八弥(いわまつはちや)に刺殺された。[久保田昌希]

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世界大百科事典内の松平広忠の言及

【掛塚】より

…遠江国(静岡県)磐田郡天竜川河口に位置する港。古くは〈かけすか〉と呼び,天竜川河口の大きな中州で,徳川家康の父松平広忠が,三州長崎城を追われて伊勢神戸城にいたのを,その臣阿部定吉が救い出して掛塚に居を移し,十郎島の鍛冶五郎の家にかくまわれていたという由緒が伝えられている。港は流下した砂礫によって包まれ半環状をなしている。…

【松平氏】より

…しかし三河における松平氏の覇権は,35年(天文4)12月の清康の突然の死(〈守山崩れ〉)で中断した。 伊勢,遠江と流浪を余儀なくされた嗣子松平広忠は,今川義元の後援により37年6月に岡崎へ復帰し,一度は内訌は収拾されたが,西からの織田氏の圧力が強まると松平一族は再度分裂,広忠は今川氏への従属の度合を強め,松平氏の勢威は衰退の一途をたどった。49年3月に広忠が家臣に殺されると,松平領国は完全に崩壊した。…

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