成田氏(読み)なりたうじ

改訂新版 世界大百科事典 「成田氏」の意味・わかりやすい解説

成田氏 (なりたうじ)

武蔵国出身の中世武家。本姓藤原氏。武蔵七党中の横山党より出るとする説もある。武蔵国幡羅(はら)郡成田(現,埼玉県熊谷市)より起こる。成田家時のころから山内上杉氏と提携して活動し,関東八家の一つといわれた。1489年(延徳1)成田親泰のとき忍大丞(おしだいじよう)居館を攻め落とし,そこに新城を築き翌々年成田より忍(現,埼玉県行田市)に移り住んだといわれる。親泰の嫡子長泰は上杉憲政に属したが,のち後北条氏と通じた。1509年(永正6)ころ,連歌師柴屋軒宗長は成田顕泰(親泰の父)を訪ね〈水郷なり,館のめぐり四方沼水幾重ともなく,芦の霜がれ廿余町四方へかけて,水鳥おほく見えわたるさま〉(《東路の津登》)と忍の居館を描写している。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原城攻撃に当たり,成田氏長(長泰の子)は相模に出陣して籠城し,忍城は石田三成の水攻めにあった。秀吉と氏長との和談により忍城は陥落し,翌年氏長は下野国那須郡烏山に移封,3万7000石が給され,関ヶ原の戦後も続いて支配し,長忠に継承された。1616年(元和2)長忠の次男氏宗が1万石(若年により2万7000石を減封)で遺領をつぎ,22年氏宗が嗣子なく没したため廃絶
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世界大百科事典(旧版)内の成田氏の言及

【忍】より


[中世]
 1190年(建久1)源頼朝の上洛に際し随兵として従った忍三郎・同五郎は,ここを本領とした武士であろう。文明年間(1469‐87)ごろ,成田親泰が山内・扇谷両上杉氏の争いに乗じてここに築城して以来,成田氏代々の居城となった。1509年(永正6)ごろここを訪れた連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちよう)は,忍城のようすを〈水郷なり。…

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