上杉憲政(読み)ウエスギノリマサ

デジタル大辞泉 「上杉憲政」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりまさ〔うへすぎ‐〕【上杉憲政】

[?~1579]戦国時代武将関東管領北条氏康に攻められて長尾景虎上杉謙信)を頼り、上杉の姓と関東管領職を景虎に譲った。

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精選版 日本国語大辞典 「上杉憲政」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりまさ【上杉憲政】

  1. 戦国時代の武将。関東管領。山内上杉憲房[ 二 ]の子。北条氏康に攻められて、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、上杉姓と関東管領職を景虎に譲る。天正七年(一五七九)没。

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朝日日本歴史人物事典 「上杉憲政」の解説

上杉憲政

没年:天正7(1579)
生年大永3(1523)
戦国時代の武将,関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永5(1525)年に父憲房が病没した際,未だ幼少であったため一時古河公方足利高基の子憲寛が管領となり,享禄4(1531)年9歳の年,同職に就任。奢侈・放縦な政治で民心を失う。天文10(1541)年信州に出兵。同12年,河越(川越市)の北条綱成を攻めるなど南方の北条氏と戦うが相次いで敗れ,同14年4月の河越合戦でも北条氏康に敗れて上野平井城に退く。この戦いでは倉賀野,赤堀など有力な家臣を失い,上野の諸将は出陣命令に応じず,同21年1月平井城を捨て越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。永禄3(1560)年8月,景虎に擁されて関東に出陣,翌年3月小田原を囲んだ。帰途,鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り,剃髪して光徹と号した。天正6(1578)年3月謙信が病没すると,その跡目を巡って上杉景勝は春日山城本丸に,同景虎は憲政の館にこもって相争うことになった。城下は焼き払われ景虎方は城攻めに失敗して敗北。翌年3月17日憲政の館も攻略され,混戦のさなか殺害された。

(唐澤定市)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉憲政」の意味・わかりやすい解説

上杉憲政
うえすぎのりまさ
(?―1579)

戦国時代の武将。山内(やまのうち)上杉氏最後の関東管領(かんれい)。憲房(のりふさ)の子。1531年(享禄4)家を継ぎ関東管領となる。小田原の北条氏康(うじやす)と対立し、武蔵(むさし)河越(かわごえ)城に北条綱成(つなしげ)を包囲したが、46年(天文15)氏康軍に敗れ上野(こうずけ)平井(ひらい)城に逃れた。勢力の衰えた憲政は57年(弘治3)長尾景虎(ながおかげとら)(後の上杉謙信(けんしん))を頼って越後(えちご)に亡命した。4年後、上杉の名跡と関東管領職を景虎に譲った。78年(天正6)謙信が死ぬとその養子の景虎(謙信の初名を継ぐ)、景勝(かげかつ)の家督争いに巻き込まれ、翌年3月17日景勝の兵に殺された。享年は73歳とも76歳とも伝える。

[田辺久子]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上杉憲政」の解説

上杉憲政
うえすぎのりまさ

?~1579.3.17

戦国期の武将。憲房の子。関東の名門山内上杉氏の最後の関東管領。1531年(享禄4)管領となる。関東制覇をめざす北条氏と戦ったが,46年(天文15)河越城の戦の敗北などでしだいに圧迫され,52年長尾景虎を頼って越後に落ちた。景虎に上杉の名字と管領の職を譲り,景虎は上杉政虎(のち謙信)となった。78年(天正6)謙信の死後,上杉景虎・景勝が家督を争い戦うが,憲政の居館の御館(おたて)は景虎方の拠点となり,憲政自身もここに拠った。翌年御館は陥落し,憲政は景勝方の兵に殺害された(御館の乱)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉憲政」の解説

上杉憲政 うえすぎ-のりまさ

1523-1579 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)3年生まれ。上杉憲房の子。北条氏康に敗れ,天文(てんぶん)21年居城の上野(こうずけ)(群馬県)平井城から越後(えちご)(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)のもとにのがれる。景虎を養子とし,永禄(えいろく)4年関東管領をゆずり,山内上杉家最後の関東管領となった。謙信の死後,天正(てんしょう)7年3月17日謙信の養子景虎と景勝の家督争いのとき景勝方に殺された。57歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「上杉憲政」の解説

上杉憲政
うえすぎのりまさ

1523〜75
室町末期・戦国時代の武将
1530年関東管領となる。'51年北条氏康に攻められ大敗。'58年越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り,'61年上杉の姓と関東管領職を景虎に譲り,以後関東管領は長尾氏に帰した。謙信の死後の継嗣争いにまきこまれて,誤って殺され,上杉氏の正系は滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉憲政」の意味・わかりやすい解説

上杉憲政
うえすぎのりまさ

[生]大永3(1523)
[没]天正7(1579).3.18.
室町時代後期の関東管領。憲房の子。北条氏康に越後に追われ,上杉姓と管領職を長尾景虎 (→上杉謙信 ) に譲る。謙信の死後,その継嗣争いの際殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の上杉憲政の言及

【御館の乱】より

…景勝は同国魚沼郡上田庄の長尾氏出身で,上田衆とよばれる旧臣らに擁立され,景虎は生家の北条氏政らの後援と蒲原郡三条の神余親綱,古志郡栃尾の本庄秀綱など謙信旗本の一部有力者に支持された。5月から戦闘が始まると春日山城による景勝に対抗して,景虎は前関東管領上杉憲政の居館“御館”にこもった。戦局は,上越国境から後北条軍が,信越国境から武田勝頼が進軍して景虎を支援したので,はじめ景虎方が有利のうちに展開したが,景勝が武田氏と和し,景信など景虎方有力者が相ついで戦没するとしだいに景勝方が優勢となった。…

【河越城の戦】より

…河越城は扇谷上杉氏の居城であったが,1537年(天文6)北条氏綱の攻撃をうけ落城,以来,後北条氏の武蔵における前進拠点となっていた。45年10月関東管領山内上杉憲政は関東の諸将を動員して砂久保に陣をとり,河越城を包囲した。城内では北条氏の将,北条(福島)綱成以下3000人が立てこもって抗戦し,上杉方は長陣をしいて兵粮攻めにした。…

【平井城】より

…以後,顕定,憲房,憲政の3代にわたる戦国争乱の過程で上杉氏の本城となった。しかし南から後北条氏の勢力が北上してくると,家臣団の内部分裂もあり,1552年(天文21)に上杉憲政は平井を去って越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り,景虎は憲政を擁して関東に侵攻することとなる。【峰岸 純夫】。…

※「上杉憲政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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