本多錦吉郎(読み)ほんだ きんきちろう

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多錦吉郎」の解説

本多錦吉郎 ほんだ-きんきちろう

1851*-1921 明治-大正時代洋画家
嘉永(かえい)3年12月2日生まれ。もと安芸(あき)広島藩士。国沢新九郎画塾彰技堂でまなび,明治10年師の没後は画塾をひきつぐ。陸軍士官学校,東京高師などの教師をつとめ,晩年は庭園設計も手がけた。門下小川芋銭(うせん)らがいる。大正10年5月26日死去。72歳。号は契山。作品に「羽衣天女図」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の本多錦吉郎の言及

【明治・大正時代美術】より


[明治美術会と白馬会]
 明治10年代の後半,洋画家たちは一時息をひそめたが,この間にヨーロッパに渡った山本芳翠(フランス),原田直次郎(ドイツ),松岡寿(イタリア)らが帰国し,洋画界の新しい活動力となる。彼らは1889年浅井忠,小山正太郎,本多錦吉郎(きんきちろう)(1850‐1921。国沢新九郎の彰技堂に学んだ),曾山幸彦(そやまさちひこ)(1859‐92),川村清雄(きよお)(1852‐1934)らと最初の洋画家の団体である明治美術会を結成,展覧会を開いて洋画の積極的な啓蒙活動がくりひろげられることになる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」