第二帝政(読み)だいにていせい(英語表記)Second Empire

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

第二帝政
だいにていせい
Second Empire

1852年 12月2日から 70年9月4日までのフランス皇帝ナポレオン3世による政治。帝国憲法によれば,行政,軍事,外交の全権は皇帝に集中し,責任内閣制を否定,任期6年の議員から構成される立法院の権限も大幅に制約され,憲法の掲げる国民主権や 1789年のフランス革命の原理は,むしろ皇帝独裁の本質を隠蔽したにすぎなかった。 1860年までの帝政前期はこうした専制支配を特徴づけて「権威帝政」といわれる。ナポレオン3世は,この強力な国家体制を基礎に産業革命を強力に推し進め,フランスに経済的繁栄をもたらしたが,他方,フランスの弱体化を目的としたウィーン条約を改定するため,東方問題を通じてイギリスへの接近をはかり,クリミア戦争の同盟側の勝利によってその威信を全ヨーロッパに高めた。しかしナポレオン3世の行なった輸入禁止廃棄と関税の引下げは自国資本家の反対を受け,またイタリア統一問題に対するナポレオン3世の背信行為は,国際的な孤立化の傾向を招くことになった。 60年に入って自由帝政への構造転換がはかられ,さらにメキシコ遠征の失敗が第二帝政の威信を失墜させていくなかで,69年7月議会帝政が公布された。続く普仏戦争におけるスダンの降伏 (1870.9.2.) は,ナポレオン3世の軍事権力の崩壊を意味し,帝政は瓦解した。

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百科事典マイペディアの解説

第二帝政【だいにていせい】

1852年ナポレオン3世の皇帝即位で成立したフランスの帝政。男子普通選挙による立法院はあったが権限は小さく,軍事・外交・行政・立法にわたって皇帝に権力が集中した。言論や集会,結社に関して厳しく弾圧を行った。経済的発展は著しく,対外的にも大いに進出した。1860年ころからは自由主義的傾向や労働運動に譲歩懐柔策がとられたが,対外政策の失敗と共和派の増大によって危機を招き,1870年普仏戦争に敗れて崩壊。
→関連項目セダンの戦第三共和政フランスルーゴン・マッカール

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世界大百科事典 第2版の解説

だいにていせい【第二帝政】

フランスの第二共和政のあと1852年12月ナポレオン3世の即位から70年9月普仏戦争の敗北による崩壊まで続いた政治体制で,ナポレオン1世の第一帝政(1804‐14)に対していう。
[政治]
 第二共和政の大統領であったルイ・ナポレオンは,1851年12月2日クーデタによって議会を解散し,52年12月2日皇帝ナポレオン3世となり,ここに第二帝政が成立する。第二帝政は,専制帝政(1852‐58),自由帝政(1859‐69),議会帝政(1870)の3時期に区分できる。

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大辞林 第三版の解説

だいにていせい【第二帝政】

第二共和制と第三共和制の間のフランスの帝政。1852年ナポレオン三世即位から、70年普仏戦争敗北後の退位まで。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

第二帝政
だいにていせい
Second Empire

第二共和政下の大統領ルイ・ナポレオンが、1851年末のクーデターによって憲法を改め、ナポレオン3世として帝位についた1852年末から、1870年のプロイセン・フランス戦争で敗北するまでの、約20年間のフランスの帝政。第二帝制とも書く。[河野健二]

特徴

第二帝政は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の始めた第一帝政を継承するもので、いわゆる「ボナパルティスム」の一環をなすものである。それは、大きくいって1860年を境に二つに区分され、前者は「権威帝政」、後者は「自由帝政」とよばれる。言論や集会を取り締まり、政府の施策を優先させ、クリミア戦争やイタリア統一戦争に介入したのが前期であり、自由貿易を原則とする英仏通商条約を結び(1860)、労働者のストライキを承認し、万国博覧会の開催やスエズ運河の開通を重視したのが後期である。[河野健二]

産業化と都市化

第二帝政の約20年間は、鉄道建設、都市改造事業、金融機関の整備など経済の基礎的な条件を満たしたのち、一方では民間産業の急速な成長、他方では近隣諸国や遠隔地域への軍事的介入や侵略がみられた。フランスが資本主義を土台とする近代的強国として再出発したのが、この時期であった。
 鉄道建設は1846年には全長1049キロメートルにすぎなかったが、10年後の1856年には5852キロメートルになり、パリを中心とする放射線状の幹線網ができあがった。さらに、帝政期末の1869年には1万6465キロメートルとなり、ほぼ現状に近いものとなった。パリの都市改造は、セーヌ県知事でサン・シモン派の技術官僚オスマンによって実行に移され、巨大な街路や広場、公設市場、商店街などが建設された。ルーブル宮殿が整備されたのも、この時期であった。これらの建設事業は、いずれも巨額の資金を必要としたが、政府の援助のもとにペレールPreire兄弟が1852年に設立したクレディ・モビリエ(動産銀行)や、同じく政府の補助金を得てつくられたクレディ・フォンシエ(不動産銀行)が、有力個人銀行であるロートシルト(ロスチャイルド)銀行などと競争しながら、建設を援助した。産業界の好況を反映して、株式や債券が人気をよび、多数の市民が投資家になり、大衆の資金が国家や企業の成長を助けた。
 産業や商業の発達は、都市への人口集中を促し、消費生活を刺激した。百貨店や劇場がつくられ、華やかな都市文明が開花した。他方、産業化と都市化の裏側には、大量の工業プロレタリアによる苦しい労働があった。この時期には、古くからの手工業労働者の大群と並んで、大都市の近郊や地方都市につくられた大工場に労働者が集められ、さらにその周辺には日雇労働者や半失業の浮浪者の大群が現れた。彼らのうち、都市に住む職人的労働者がもっとも生活水準も高く、行動力もあり、共済制度や労働組合を育てあげた。これに反して、大工業の労働者の多くは未熟練労働者であり、児童や婦人が雇われることも多かった。労働者は労働手帳をもつことを強制され、現場監督の厳しい監視のもとに置かれた。日雇労働者の置かれた環境はもっと惨めなものであった。[河野健二]

外交

ナポレオン3世の外交政策は、イギリスとの協調を図りながら、もっぱら後進地域への進出を図るものであった。クリミア戦争でロシアを破り、イタリアに介入してオーストリア軍と戦ったのは、その例である。イギリスとの協調は、1860年に結ばれた自由貿易主義に立脚する英仏通商条約にもっともよく示される。フランスの産業家はこの条約にあまり賛成ではなかったが、国内市場の相互解放をねらったこの条約は、結果としてフランス産業の水準を高め、繁栄に貢献した。[河野健二]

自由帝政の崩壊

自由主義への傾斜を強めたナポレオン3世は、国会の権限を強化し、新聞に対する検閲を緩和し、1851年にはロンドンの万国博覧会に80人の労働者の代表を派遣し、労働者の自覚を高め、国際的連帯に目を開かせた。1864年には労働者のストライキを認め、処罰の対象としないこととした。しかしこの自由帝政は、中国やベトナム、さらにメキシコへの遠征とは両立することができず、メキシコ遠征失敗後の皇帝は、隣国プロイセンの挑発にのってプロイセン・フランス戦争にのめり込み、敗戦の結果捕虜となって、第二帝政は崩壊した。1870年9月2日のことである。[河野健二]
『河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』(1977・岩波書店) ▽河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』

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世界大百科事典内の第二帝政の言及

【ネオ・バロック様式】より

…フランスでナポレオン3世の第二帝政の出現(1852)とそのパリ改造計画(1853‐70)を契機として起こったバロック建築様式の復興をいう。ビスコンティLudovico Visconti(1791‐1853)とルフュエルHector M.Lefuel(1810‐81)は,ルーブル宮殿新館でイタリア・バロック風の彫塑的な壁面とマンサード屋根を組み合わせ,これは,いわゆる〈第二帝政式〉として流行した。…

※「第二帝政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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