フランスの第二共和政のあと1852年12月ナポレオン3世の即位から70年9月普仏戦争の敗北による崩壊まで続いた政治体制で,ナポレオン1世の第一帝政(1804-14)に対していう。
第二共和政の大統領であったルイ・ナポレオンは,1851年12月2日クーデタによって議会を解散し,52年12月2日皇帝ナポレオン3世となり,ここに第二帝政が成立する。第二帝政は,専制帝政(1852-58),自由帝政(1859-69),議会帝政(1870)の3時期に区分できる。帝政初期は皇帝による独裁体制がしかれ,言論・集会・結社の自由は厳しく制限され,反対派に対して徹底的な弾圧が加えられた。他方,第二帝政においては,国制の基礎に男子普通選挙制がおかれており,これは大衆の政治参加を前提としつつ大衆を支配するという現代的支配の技術の先駆をなすものであった。そして,大衆の支持を得るために,ナポレオン3世は経済的繁栄とともに対外政策の成功を必要とした。クリミア戦争,イタリア統一戦争に参加する一方,アルジェリア征服を完成し,エジプトでは69年にスエズ運河を開通させた。極東においては1863年にカンボジアを,67年にはコーチシナ西部を保護国化した。アメリカ大陸においては,1863年メキシコを占領(メキシコ干渉)し,オーストリアのマクシミリアンを皇帝に据えるなど対外進出政策を展開していった。
1859年における専制帝政から自由帝政への転換もイタリア問題を契機としていた。この外交政策の転換によって帝政は労働者や小ブルジョアの支持を得るようになったが,一方,イタリア統一戦争介入によって教皇の世上権を脅かすところもありカトリックの離反を招いた。また,英仏通商条約(1860)の締結の結果,安価なイギリス商品が流入するため産業資本家たちは帝政反対派へと移行した。この帝政の支持基盤の変化が内政の転換を必然化し,一連の自由化政策がとられる。政治犯の大赦,立法院の改革が実施され,自由主義者や共和派が勢力を伸張した。64年にはストライキ権が承認され,68年には新聞と公開集会の制限が緩和され政治活動はさらに活発化した。このような帝政反対派は,69年の立法院選挙において大きく躍進した。この選挙後,ナポレオン3世は種々の自由主義改革を認めてさらに譲歩せざるをえなかった。
彼は,70年1月2日自由主義者オリビエÉmile Ollivier(1825-1913)を首班とする内閣を任命したが,これは立法院の多数派によって組織された政府であり,議会帝政へ転換したことを意味していた。そして,ナポレオン3世は70年5月これまでの一連の自由主義的改革を人民投票にかけて圧倒的支持(投票総数の82%以上)を獲得し体制を再強化したかにみえた。しかし,70年7月19日ビスマルクの策謀によってプロイセンに宣戦布告(普仏戦争)し,9月2日に降伏した。その知らせが9月4日パリに届くや,民衆が一斉に蜂起し第二帝政はあえなく崩壊した。
第二帝政期は,フランスにおける経済的・社会的転換期をなしている。経済局面は,1851-73年に好況期を迎えるが,ナポレオン3世はこの局面をとらえて金融改革と大公共事業を軸とする経済政策を積極的に推進した。投資銀行や預金銀行が次々に設立され,大衆の預金が企業に投資されるようになった。最大の投資対象は鉄道であり,1851年に3600kmにすぎなかったフランスの鉄道網は帝政末期には2万3000kmに達した。また,海上輸送,電信・郵便制度の発展がみられたのも第二帝政期であり,このような交通・通信の発達は,人々や物資あるいは思想の移動を容易にし,人と人との結合のあり方や地域間の関係に変化をもたらし,特にすべてをパリへ集中させることになった。また,オスマンによるパリの大改造は,55年と67年にパリで開催された万国博覧会を契機としていっそう推進された。この都市改造によって,それまでの不潔で狭隘な街路が拡張され,パリ中心部の貧民窟が一掃された。これは首都の美化を目的とするとともに,バリケードの構築を阻止し,反乱に対して軍事行動を迅速に展開することをねらったものであった。都市の改造を中心とする大公共事業は,パリだけでなく地方の諸都市でも推進され,都市の景観を一変していった。このようなナポレオン3世による経済政策は,好況局面とあいまって第二帝政期に経済的繁栄をもたらした。
社会的には,第二帝政期はフランスにおけるブルジョア社会の成立期であり,ブルジョア文化の形成期でもあった。オッフェンバックのオペレッタは第二帝政の社会と文化を最もよく反映しているといえよう。他方,1848年の六月蜂起以来沈黙していた労働者階級は,62年のロンドンの万国博覧会に参加した労働者代表のグループを中心にして独自の動きを示し始めた。63年の立法院選挙において労働者候補を立て,64年には〈60人宣言〉を公表するなど労働者階級の政治的自立を主張した。これらの動きの中心となった労働者がプルードン主義者のトランであった。彼は64年ロンドンでの国際労働者協会(いわゆる第一インターナショナル)の創設に参加し,パリ支部を結成した。60年代後半には各職種で次々に労働組合が組織され,またストライキが頻発した。ストライキ運動は,69-70年に頂点に達するが,このときル・クルーゾで工場労働者の大ストライキが生じた。これはそれまでの労働運動の主力をなしていた組織された熟練職人に対し,未組織の工場プロレタリアが初めて労働運動に登場したことを示したものであった。このような労働運動の高揚を背景として,第一インターナショナルの指導部もトランらに代わってバルランらの急進的な集産主義者のグループに移行した。彼らは,労働者自身による労働者階級の解放を目ざす自立した党派であった。こうして第二帝政末期に労働者階級は固有の社会的勢力としてだけでなく,政治勢力としても形成され,やがてパリ・コミューンにおいてブルジョア社会と対峙する権力として登場することになった。
執筆者:木下 賢一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第二共和政下の大統領ルイ・ナポレオンが、1851年末のクーデターによって憲法を改め、ナポレオン3世として帝位についた1852年末から、1870年のプロイセン・フランス戦争で敗北するまでの、約20年間のフランスの帝政。第二帝制とも書く。
[河野健二]
第二帝政は、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の始めた第一帝政を継承するもので、いわゆる「ボナパルティスム」の一環をなすものである。それは、大きくいって1860年を境に二つに区分され、前者は「権威帝政」、後者は「自由帝政」とよばれる。言論や集会を取り締まり、政府の施策を優先させ、クリミア戦争やイタリア統一戦争に介入したのが前期であり、自由貿易を原則とする英仏通商条約を結び(1860)、労働者のストライキを承認し、万国博覧会の開催やスエズ運河の開通を重視したのが後期である。
[河野健二]
第二帝政の約20年間は、鉄道建設、都市改造事業、金融機関の整備など経済の基礎的な条件を満たしたのち、一方では民間産業の急速な成長、他方では近隣諸国や遠隔地域への軍事的介入や侵略がみられた。フランスが資本主義を土台とする近代的強国として再出発したのが、この時期であった。
鉄道建設は1846年には全長1049キロメートルにすぎなかったが、10年後の1856年には5852キロメートルになり、パリを中心とする放射線状の幹線網ができあがった。さらに、帝政期末の1869年には1万6465キロメートルとなり、ほぼ現状に近いものとなった。パリの都市改造は、セーヌ県知事でサン・シモン派の技術官僚オスマンによって実行に移され、巨大な街路や広場、公設市場、商店街などが建設された。ルーブル宮殿が整備されたのも、この時期であった。これらの建設事業は、いずれも巨額の資金を必要としたが、政府の援助のもとにペレールPéreire兄弟が1852年に設立したクレディ・モビリエ(動産銀行)や、同じく政府の補助金を得てつくられたクレディ・フォンシエ(不動産銀行)が、有力個人銀行であるロートシルト(ロスチャイルド)銀行などと競争しながら、建設を援助した。産業界の好況を反映して、株式や債券が人気をよび、多数の市民が投資家になり、大衆の資金が国家や企業の成長を助けた。
産業や商業の発達は、都市への人口集中を促し、消費生活を刺激した。百貨店や劇場がつくられ、華やかな都市文明が開花した。他方、産業化と都市化の裏側には、大量の工業プロレタリアによる苦しい労働があった。この時期には、古くからの手工業労働者の大群と並んで、大都市の近郊や地方都市につくられた大工場に労働者が集められ、さらにその周辺には日雇労働者や半失業の浮浪者の大群が現れた。彼らのうち、都市に住む職人的労働者がもっとも生活水準も高く、行動力もあり、共済制度や労働組合を育てあげた。これに反して、大工業の労働者の多くは未熟練労働者であり、児童や婦人が雇われることも多かった。労働者は労働手帳をもつことを強制され、現場監督の厳しい監視のもとに置かれた。日雇労働者の置かれた環境はもっと惨めなものであった。
[河野健二]
ナポレオン3世の外交政策は、イギリスとの協調を図りながら、もっぱら後進地域への進出を図るものであった。クリミア戦争でロシアを破り、イタリアに介入してオーストリア軍と戦ったのは、その例である。イギリスとの協調は、1860年に結ばれた自由貿易主義に立脚する英仏通商条約にもっともよく示される。フランスの産業家はこの条約にあまり賛成ではなかったが、国内市場の相互解放をねらったこの条約は、結果としてフランス産業の水準を高め、繁栄に貢献した。
[河野健二]
自由主義への傾斜を強めたナポレオン3世は、国会の権限を強化し、新聞に対する検閲を緩和し、1851年にはロンドンの万国博覧会に80人の労働者の代表を派遣し、労働者の自覚を高め、国際的連帯に目を開かせた。1864年には労働者のストライキを認め、処罰の対象としないこととした。しかしこの自由帝政は、中国やベトナム、さらにメキシコへの遠征とは両立することができず、メキシコ遠征失敗後の皇帝は、隣国プロイセンの挑発にのってプロイセン・フランス戦争にのめり込み、敗戦の結果捕虜となって、第二帝政は崩壊した。1870年9月2日のことである。
[河野健二]
『河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』(1977・岩波書店)』▽『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』
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…フランスでナポレオン3世の第二帝政の出現(1852)とそのパリ改造計画(1853‐70)を契機として起こったバロック建築様式の復興をいう。ビスコンティLudovico Visconti(1791‐1853)とルフュエルHector M.Lefuel(1810‐81)は,ルーブル宮殿新館でイタリア・バロック風の彫塑的な壁面とマンサード屋根を組み合わせ,これは,いわゆる〈第二帝政式〉として流行した。…
※「第二帝政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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