時代の最先端をいく世界各国の科学技術の粋を一堂に集めて展示するほか、各国の事情を紹介する展示や催物によって国際交流を深めようとする国際的な規模と視野で開かれる博覧会であり、国際博覧会ともいう。通常は国際博覧会に関する条約Convention concernant les expositions internationales(以下、国際博覧会条約)に基づいて開催される博覧会をさす。万国博、万博、EXPO(エキスポ)と略されるが、イギリスではgreat exhibition、フランスではexposition universelle、アメリカではworld's fairとよばれる。
[間仁田幸雄]
国際博覧会条約は1928年にフランス政府の提唱で35か国が締結したものであり、万国博覧会(以下、万国博)はここに決められた回数や形式などに基づいて開催されることとなった。そのため、パリに博覧会国際事務局Bureau International des Expositions(BIE)が設置されている。また、日本はこの条約を1965年(昭和40)に批准している。
この条約では、万国博は加盟国またはその国の公認団体が主催する国際博覧会で、人類の文化と産業の成果を展示することを目的として開催されるが、開催期間は6か月を越えてはならないとされた。また、博覧会の種類は一般博覧会と特別博覧会に分けられた。一般博覧会は特定分野に偏らず一般的なテーマで開催されるが、参加国が自国の陳列館を建設する義務をもつか否かで、第1種と第2種に分けることとなった。開催期間は、第1種一般博覧会は同一国内では15年に1回、地域的にはヨーロッパ・南北アメリカ・その他の三つの地域に分け、同一地域内では6年に1回、異なる地域間では最低2年の間隔を置く。第2種一般博覧会はそれぞれ10年、4年、2年に1回とすることとなった。他方、特別博覧会は応用科学、生産技術、原料、生活必需品など特定分野のテーマで開催される博覧会とされた。
この条約は、1996年に大幅改正が行われており、現在では博覧会の種類は登録博覧会と認定博覧会の二つに分けられている。登録博覧会は従来の一般博覧会と特別博覧会をあわせたもので、開催期間が6週間以上6か月以内の大規模な国際博覧会で、開催頻度は5年以上の間隔を置くことになった。他方、認定博覧会は開発途上国などでの開催を容易にするために設置された特定テーマの小規模国際博覧会で、開催期間は3週間以上3か月以内、会場面積が25ヘクタール以下で、開催者が施設を建設し、賃貸料、料金、租税、費用を免除することが条件とされた。開催頻度は登録博覧会の開催される間に1回だけ開催できることになっている。
[間仁田幸雄]
近代的な博覧会の起源は、1761年イギリスの王立美術工業商業振興会がロンドンで開催した産業博覧会とされる。フランスのパリでも1798年にロンドン博と同じような形式の産業博覧会が開催され、このころ博覧会の形式が整えられた。当時の博覧会は先進国が産業革命の成果である工業製品を展示して自国の産業発展を誇示し、国威を高揚させる場であったため、19世紀中ごろまで欧米各地でさまざまな産業博覧会が開催された。その後1851年にはイギリスのロンドンで初の本格的な国際博覧会である万国博が開催された。この「ロンドン万国博覧会」にはフランス、アメリカなどの諸外国が参加したが、ジョセフ・パクストン設計の巨大なガラスと鉄でできた「水晶宮(クリスタル・パレス)」が話題をよび、604万人の入場者を集め、75万ドルの黒字を出し大成功であった。その後1862年に再度ロンドン万国博覧会が開催され、イギリスの画期的な鉄鋼技術を後進国のドイツとアメリカに普及する契機となったが、興行的には不成功に終わった。
これに対して、フランスでは1851年のロンドン万国博覧会の成功に刺激されて、1855年に同国初の万国博がパリで開催されたが、この「パリ万国博覧会」と平行的にセーヌ県知事オスマンのパリ改造事業が進められ、シャンゼリゼや産業宮などの博覧会場を都市の施設として取り込むことによって、近代国家の首都としての骨格がつくられていった。それ以後パリでは、5回の万国博に国際装飾博、植民地博をあわせて、第一次世界大戦期を除いて、ほぼ10年ごとに大規模な国際博覧会が開催された。このうち、1867年のパリ万国博覧会ではクルップ社の鋼鉄砲やエジソンの蓄音機や冷蔵庫が出品された。1889年のパリ万国博覧会はエッフェル塔で有名になったが、X線と無線通信が展示され、電球の大量使用、電車や電動式の動く歩道の導入が注目された。また、この間にエッフェル塔、シャイヨー宮、グラン・パレ(科学博物館)、プチ・パレ(美術館)、アレクサンドル3世橋、オルセー美術館、パリ近代美術館など、現在のパリの名所のほとんどが万国博の施設として建設された。
そのほかの各国でも万国博が開催されたが、1873年の「ウィーン万国博覧会」は電力時代の開幕を世界に告知する場となった。アメリカでは1853年に「ニューヨーク万国博覧会」が開かれ、オーティスの安全エレベーターが登場し、1875年には「建国100年記念フィラデルフィア万国博覧会」が開催され、グラハム・ベルの電話の発明などによりアメリカ技術の優位が世界に示された。また、1893年には「コロンブスのアメリカ発見400年記念シカゴ万国博覧会」が開催され、高架式電車が登場し娯楽施設が初めて併設された。注目されるのは、これらの博覧会と平行して近代的な都市計画が進められたことである。さらに1904年には「ルイジアナ買収記念セントルイス万国博覧会」が開催され、1915年には「サンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋万国博覧会)」がパナマ運河の完成記念と大地震後の都市計画に役だてるために開催された。しかし20世紀に入ると、技術の国際交流のルートが多様化することにより、技術史上の万国博の重要性は低下していくことになった。
[間仁田幸雄]
1928年国際博覧会条約が締結されたが、この条約による最初の万国博は1933年の「シカゴ万国博覧会(進歩の世紀博覧会)」である。このときは第一次世界大戦への反省から、芸術と科学とを結合させた人間性の探究がテーマとして掲げられた。さらに、1935年の「ブリュッセル万国博覧会」でも中立国の反戦平和の願いが込められ、1937年の「パリ万国博覧会」もピカソの『ゲルニカ』で知られるように、人民戦線の嵐のなかで反ファシズムの色彩が強いものとなった。また、1939~1940年の「サンフランシスコ万国博覧会(ゴールデンゲート国際博覧会)」「ニューヨーク世界博覧会」は失業救済事業として行われたが、他方では大企業によるテレビ、ナイロンなど新製品の宣伝の場となった。
次いで「日本万国博覧会」(1940)や「ローマ万国博覧会」(1942)が計画されたが、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって中止された。そのためようやく戦後になって、一般博としてまず「ブリュッセル万国博覧会」(1958)が開催され、続いて「シアトル・21世紀万国博覧会」(1962)、「ニューヨーク世界博覧会」(1964~1965)、「モントリオール万国博覧会」(1967)が開かれた。しかし、このころにはすでに万国博の政治的文化的な影響力は大きく低下していた。こうしたなかで、1970年(昭和45)日本初の万国博覧会が大阪で開催された。これはアジア初でもあった。
その後アメリカ・ワシントン州スポケーンでの「国際環境博覧会」(1974)、テネシー州「ノックスビル国際エネルギー博覧会」(1982)、ルイジアナ州「ルイジアナ世界博覧会(国際河川文明博覧会)」(1984)、カナダ・バンクーバー「国際交通博覧会」(1986)、オーストラリア・ブリスベーン「国際レジャー博覧会」、スコットランド「グラスゴー園芸フェスティバル」(ともに1988)と続き、さらにスペイン「セビリア万国博覧会」とその特別博であるイタリア・ジェノバ「国際海と船の博覧会」(1992)、韓国「大田(たいでん/テジョン)世界博覧会」(1993)、ポルトガル「リスボン国際博覧会」(1998)などが開催された。
[間仁田幸雄]
日本では、第二次世界大戦前の1940年(昭和15)に東京の月島(つきしま)埋立地と横浜の山下公園を会場として万国博覧会を開催するための準備が進められたことがある。これが「紀元2600年記念万国博覧会」であるが、日中戦争が拡大したために中止され、幻の万国博となった。
このため、1970年3月15日~9月13日に開催された「日本万国博覧会(大阪万博、EXPO'70=Japan World Exposition,Osaka,1970)」が、わが国初の万国博となった。これは、1965年5月14日に博覧会国際事務局(BIE)理事会で正式に承認された第1種一般博覧会であった。この万国博は統一テーマを「人類の進歩と調和」とし、サブ・テーマとして「より豊かな生命の充実を」「よりみのり多い自然の利用を」「より好ましい生活の設計を」「より深い相互理解を」の四つが設定された。このように、テーマに「調和」ということばが入ったのは、これまでの万国博は世界各国の生産活動の成果を一堂に集め、文明の歩みを明らかにするという役割を担っていたが、これに転機が訪れたことを表している。第二次世界大戦の反省も踏まえて、「調和的進歩」が重要視されるようになったのである。この万国博は、世界各地から76か国、4国際機関が参加し、大阪府吹田(すいた)市千里丘陵(約330ヘクタール)を会場として開催された。このときの会場づくりのコンセプトは「未来都市の実験場、世紀のお祭り」とされ、115の展示館が建てられた。当時の世界の最先端をゆく科学技術の紹介、斬新(ざんしん)な技法による建築物の建設、革新的な映像技術の導入などにより、人気を博したが、建設費は524億円、関連事業費624億円、運営費は354億円という巨額に達した。こうしたなかで、お祭り広場に建つ岡本太郎制作の「太陽の塔」が脚光を浴び、アメリカ館の「月の石」に人々が集まり、入場者は6422万人に上った。これは史上最大規模であった。この結果約160億円の大幅な黒字が実現した。
続いて1975年7月20日~1976年1月18日には、2番目の国際博覧会として「沖縄国際海洋博覧会(EXPO'75=International Ocean Exposition,Okinawa,Japan,1975)」が開催された。これは、1970年11月24日のBIE理事会で承認された特別博覧会であったが、「海洋」をテーマとした世界で初の万国博でもあった。この万国博は、日本復帰の決まった当時の琉球(りゅうきゅう)政府の強い要請により、沖縄で開催されることとなった。会場には沖縄本島の本部(もとぶ)半島のサンゴ礁の美しい海に面した台地(約100ヘクタール)が選ばれ、会場づくりにあたっては、自然を生かし、亜熱帯性の樹木や草花で彩られた緑の公園をつくり、このなかに種々の施設を配置することとした。このため、都市やその周辺で行われていた従来の万国博とは異なるユニークな博覧会となった。内容的には、海洋資源の開発、海洋文化の交流、海洋環境の保全、海の生物の生態などの、海に関するさまざまな展示や催物とともに、コンピュータ操作で無人運転されるKRT、CVSの二つの交通システム、未来の海上都市の原型「アクアポリス」など、最新の科学技術の成果を体験することができた。36か国、3国際機関が参加したが、これに要した建設費は319億円、関連事業費1808億円、運営費142億円に上った。しかし、入場者は予測を下回る349万人にとどまった。なお、この万国博の準備段階で石油危機が発生し、開催日は140日延期して7月20日(現在の海の記念日)とされ、建設費も85億円増額された。
次に、1985年3月17日~9月16日には茨城県筑波(つくば)研究学園都市で「国際科学技術博覧会/科学万博・つくば'85(EXPO'85)」が開催された。これは1980年11月26日にBIE総会(従来の理事会にあたる)で承認された、沖縄国際海洋博覧会と同様の特別博覧会であった。もともとこの万国博は、ナショナル・プロジェクトである筑波研究学園都市を、世界の科学技術の中心地として育成する契機にしようという当時の科学技術庁の発想から始まった。この万国博は「人間・居住・環境と科学技術」をテーマとし、これに「東洋の科学・思想の再評価」「科学技術と芸術の融合」「人間とは何か」「極限環境への挑戦」という四つの視点を加えて会場づくりを行うこととなった。会場は筑波研究学園都市の南西部に位置する筑波郡谷田部町(現、つくば市。約100ヘクタール)。これに要した建設費は527億円、関連事業費4409億円であった。47か国、37国際機関が参加し、内容的には観客が楽しみつつ科学技術に親しめるようなさまざまな創意工夫が施され、好評を博した。リニアモーターカーのHSST(High Speed Surface Transport)が注目を浴び、テレビ技術、映像技術、ロボット技術、コンピュータ技術、輸送技術、生物科学技術など数多くの斬新な技術や展示技術、催事技術などソフト面での技術進歩も著しく、評判をよんだ。この万国博によって筑波研究学園都市は内外の関心を集め、その重要性や今後の発展の必要性についての理解が深まった。反面、多くの展示館が映像展示のシアター・タイプであったため、待ち時間が長くなり、不満につながるとともに、「メッセージが先行してソフトが遅れている」とか「テーマを無視して、人目を引く新規性と派手(はで)さを競い合っている」といった不評もあり、入場者は目標をわずかに上回る2033万人にとどまった。しかし、特別博覧会としては、史上最大規模であった。
さらに、1990年(平成2)4月1日~9月30日には大阪市鶴見(つるみ)緑地で「国際花と緑の博覧会(花博、EXPO'90)」が開催された。大阪市は当初1989年に市政100周年記念事業として「全国都市緑化フェア・花の博覧会」を開催すべく準備をしていたが、これを1年延期して、アジア初の国際園芸博覧会とすることにしたのである。これは、国際園芸家協会Association Internationale des Producteurs de I'Horticulture(AIPH、事務局オランダ・ハーグ、1948年結成)の最も大規模なA類Ⅰの国際園芸博覧会であった。これには一つの事情があった。それは、1984年に当時の首相中曽根康弘(なかそねやすひろ)が「緑の三倍構想」を打ち出し、これを受けて建設省(現、国土交通省)が作成した「緑化の推進について――21世紀緑の文化形成を目指して」のなかで、万国博の早期立案と国際シンポジウム「都市・緑・市民」の開催を決めたのである。このため、まず国際園芸家協会に申請し、1985年8月15日に開催された総会で承認され、さらに1986年6月5日のBIE総会で特別博覧会として承認された。この万国博には82か国、55国際機関が参加した。これに要した建築費は361億円、関連事業費は1853億円、運営費は530億円であった。会場面積は140ヘクタールで、これを「山のエリア」「野原のエリア」「街のエリア」に分けたが、これらが相互融合的で、重層的連続的な空間となるように構成された。また、自然の光、風、水などをふんだんに取り入れ、時とともに移り変わる生命の躍動を感じられるような景観づくりを行った。これらによって、従来の「パビリオン中心型の博覧会」からの脱却が図られた。世界最大の花ラフレシアやヒマラヤの青いケシなどの珍しい花が人気をよんだが、この万国博が園芸や造園の技術の発展に果たした役割も大きかった。その結果、入場者が2313万人に達する大規模な博覧会となった。しかし、国際園芸家協会の博覧会としてはあまりにも大規模であったため、一部の不評を買った。
2005年3月25日~9月25日に愛知県で「2005年日本国際博覧会(愛知万博、EXPO2005AICHI、通称愛・地球博)」が開催された。これは登録博覧会(1996年の条約改正により一般博覧会と特別博覧会はあわせて登録博覧会とされた)であった。1997年6月12日BIE総会において承認された。この万国博は「自然の叡智(えいち)」をメイン・テーマに、「宇宙、生命と情報」「人生の"わざ"と智恵」「循環型社会」の三つをサブ・テーマに加えて、会場づくりが行われた。約130か国が参加したが、一般参加として企業や行政に加えて、市民やNPO/NGOの参加も認められ、市民自ら企画立案し、運営を行う地域通貨サミットなどの市民参加プロジェクトや「地球市民村」での体験型プログラムなどが取り入れられた。会場は二つに分けられ、長久手(ながくて)会場(約250ヘクタール)は、地球の過去と未来、伝統のわざと最先端技術、世界の文化とまつり、その豊かな地球交流を体験する場とされ、もう一つの瀬戸会場(約290ヘクタール)は、自然環境の保全に最大限の配慮を払い、「自然の叡智」というテーマを具現化するシンボルゾーンとされた。なお、会場構想としては大量の仮設物を解体撤去する従来からのやり方を見直し、恒久施設としての利用を考慮しながら、長期的な地域整備と一体となった取組みを行った。この万国博には約120か国が参加したが、とくに人気をよんだのはトランペットを巧みに演奏するロボットや未来コンセプト・ビークル、ジオラマと3DCGを融合した最先端の立体映像技術、シベリアの永久凍土から発掘されたマンモスの冷凍標本(ユカギル・マンモス)などであった。また、燃料電池バスやエアモーターカー、次世代交通システムなども評判をよんだ。なお、当初会場建設による地域環境・生態系への影響をめぐって議論が巻き起こり、環境影響調査が行われたが、これが自然を極力生かした会場づくりに反映されたことも注目される。
[間仁田幸雄]
『電通編『日本万国博覧会公式記録』全3冊(1972・日本万国博覧会記念協会)』▽『電通編『沖縄国際海洋博覧会公式記録 総合編』(1976・沖縄国際海洋博覧会協会)』▽『吉田光邦著『万国博覧会――技術文明史的に』改訂版(1985・日本放送出版協会)』▽『吉田光邦編『万国博覧会の研究』(1986・思文閣出版)』▽『電通編『国際科学技術博覧会公式記録』(1986・国際科学技術博覧会協会)』▽『国際花と緑の博覧会協会編・刊『EXPO'90 国際花と緑の博覧会公式記録』(1991)』▽『泉真也・寺沢勉編著『エクスポ&エキジビション』(1992・六耀社)』▽『鹿島茂著『絶景、パリ万国博覧会――サン・シモンの鉄の夢』(1992・河出書房新社)』▽『東京国立文化財研究所編『明治期万国博覧会美術品出品目録』(1997・中央公論美術出版)』▽『空気調和・衛生工学会編・著『わが国の国際博覧会の環境・設備デザイン――理念・計画・技術・実績』(1997・丸善出版事業部)』▽『平野繁臣著『国際博覧会歴史事典』(1999・内山工房)』▽『オルタブックス編集部編『EXPO70伝説――日本万国博覧会アンオフィシャル・ガイドブック』(1999・メディアワークス、角川書店発売)』▽『『愛・地球博公式ガイドブック』(2005・日本国際博覧会協会)』▽『吉見俊哉著『博覧会の政治学――まなざしの近代』(中公新書)』▽『松村昌家著『水晶宮物語――ロンドン万国博覧会1851』(ちくま学芸文庫)』
時代の最先端をいく世界各国の科学技術の粋を一堂に集めて展示するほか,各国それぞれのお国ぶりを紹介する展示や催物により国際交流を深めようとする世界最大の博覧会。万国博,万博とも呼ばれる。その第1回はイギリスのビクトリア女王の夫君アルバート公の強い後押しもあって1851年ロンドンのハイド・パークで開かれ,約40の国が参加した。入場者は600万人で興行的にも成功した(図)。この成功は当時イギリスにならって工業化の道を歩んでいたフランス,アメリカなどの国々にとって大きな刺激となり,以降,ニューヨーク,パリ,ウィーンなどで次々に万国博が開かれていった。1928年には国際博覧会条約が結ばれ,パリに国際事務局が設けられた。
万国博は自由競争を通じての進歩という19世紀の支配的な理念を体現するものであった。実際,万国博は参加各国が互いの競争心からこぞって最先端の技術の粋を持ち寄ったために,当時の技術発展の最も重要な集約点となり,そのことが相互の技術競争をいっそう促すことになった。例えば,アメリカが開発した互換式生産方法がヨーロッパで広く知られるようになったのは1851年のロンドン博であり,ドイツの高度の製鉄技術の水準を象徴するクルップ社の鋼鉄砲が出品されたのは67年のパリ博であり,そしてA.G.ベルの電話が初めて一般に公開されたのは76年のフィラデルフィア博であった。またイギリスが他の国々の技術発展に初めて重大な脅威を感じるようになったのは67年のパリ博であった。20世紀に入ると技術の国際交流のルートは多様化し,技術史上の万国博の重要性は失われていくが,それでも新しい技術のデモンストレーションの場としての機能は受け継がれている。例えば,1939年のニューヨーク博にはテレビが,70年の大阪博には月面の石が登場した。現代都市の整備についても万国博が果たした役割は大きい。1851年ロンドン博の会場になったJ.パクストン設計の水晶宮(クリスタル・パレス)は今日の公共建築の先駆けをなすものであり,53年のニューヨーク博にはE.G.オーチスのエレベーターが登場し,89年のパリ博の際にはエッフェル塔が建てられ,93年のシカゴ博には高架式の電車が登場した。またパリの地下鉄は1900年博にあわせて建造されたものである。
日本が万国博に初めて参加したのは1867年のパリ博であった。このとき江戸幕府のほかに薩摩と佐賀の両藩が別個に出品を行った。明治政府は73年のウィーン博以降,西洋技術の導入と輸出市場の開拓をねらって積極的に万国博に参加し,さらにそれをモデルに内国勧業博覧会を主催した。そして1940年に東京で紀元2600年記念行事の一つとして万国博を開催する計画が立てられたが,戦争のために断念しなければならなかった。70年,大阪でアジアでは最初の万国博が開催された。183日の大会期間中,入場者は6421万8770人に達した。これは万国博史上の最高記録であった。2005年には愛知県長久手町,瀬戸市,豊田市を会場として日本国際博覧会(愛知万博,愛称は〈愛・地球博〉)が開催された。
→博覧会
執筆者:見市 雅俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(平栗大地 朝日新聞記者 / 松村北斗 朝日新聞記者 / 2007年)
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イギリス政府が1851年諸外国の出品も得て開いたロンドン博覧会が第1回万国博覧会(万博)。67年のパリ万博から,参加国が展示館を建てる方式となった(日本から幕府と薩摩藩が出展)。71年明治政府はウィーン万博に初参加。1928年,国際博覧会に関するパリ条約が締結され,事務局もパリに設置。一般博と特別博の区別がある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そしてまた,植民地から独立したアフリカの新興諸国をはじめとする〈第三世界〉の国々が,何よりもまず映画を武器にして国際社会に乗り出そうとしてきたことも注目されよう。
【映画と万国博覧会】
技術革新の最先端をいく発明であった映画には,当然ながら科学技術に人間がよせるさまざまな夢,〈人類の未来のイメージを暗示する各種の科学的幻想〉(岩崎昶)をはぐくむ要素があり,その意味では映画がつねに万国博をにぎわす花形であったことは興味深い。そもそもエジソンの〈キネトスコープ〉が初めて公開されたのも,1893年のシカゴ万国博であったし,1900年のパリ万国博には,最初のトーキー映画の試みとして知られるクレマン・モーリスの〈フォノ・シネマ・テアトル〉(蓄音機に合わせて手動式映写機を回した)や,円筒形のスクリーンに風景を映写して観客を包み込んだラウール・グリモアン・サンソンの全周映画シネオラマが出品されて話題を集めた。…
…地域的には地方博覧会,全国博覧会,国際博覧会がある。また世界各国の主要な物産を集め陳列する万国博覧会もある。
[歴史]
近代的な意味での博覧会の形になってきたのは産業革命以降のこととされ,1761年のロンドン王立美術工業商業振興会によって開かれたものが工業品を展示した最初の博覧会といわれる。…
※「万国博覧会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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