国沢新九郎(読み)くにさわしんくろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

国沢新九郎
くにさわしんくろう

[生]弘化4(1847).12.22. 土佐
[没]1877.3.12. 東京
洋画家。明治3 (1870) 年,藩命でロンドンに留学,洋画を学んで 1874年帰国。東京麹町に彰技堂を創設して浅井忠らを育成。また翌年日本で最初の洋画展覧会を開催するなど,明治初期洋画界の先駆者として活躍したが,30歳の若さで早世したため作品は少い。主要作品『西洋婦人』 (71~74頃,東京芸術大学) ,『自画像』『静物』。

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百科事典マイペディアの解説

国沢新九郎【くにさわしんくろう】

洋画家。高知生れ。維新後,藩命により渡英して油絵を研究,1874年帰国後東京麹町平河町に画塾〈彰技堂〉を開設した。翌年日本最初の美術展覧会を開催。早世のため作品は少ないが,代表作に《肖像》《西洋婦人肖像》がある。
→関連項目浅井忠

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

国沢新九郎 くにさわ-しんくろう

1848*-1877 明治時代の洋画家。
弘化(こうか)4年12月22日生まれ。土佐高知藩士の子。明治3年藩命でロンドンに留学,画技をまなぶ。7年に帰国し,東京麹町(こうじまち)に画塾彰技堂をもうけ,浅井忠(ちゅう),本多錦吉郎(きんきちろう)らをそだてた。8年日本初の洋画展覧会を開催。明治10年3月12日死去。31歳。名は好良。作品に「西洋婦人像」「男の肖像」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

国沢新九郎

没年:明治10.3.12(1877)
生年:弘化4.12.22(1848.1.27)
明治前期の洋画家。国沢好古の長男。高知城下小高坂生まれ。明治3(1870)年高知藩留学生として渡米,さらにロンドンへ渡りジョン・ウィリアムスに画技を学ぶ。7年帰国し東京麹町平河町に私塾彰技堂を開き,将来した画法書,石膏像などを用いて西洋画法の斬新な指導を行った。翌年京橋竹川町で洋画展覧会を開催。本多錦吉郎,守住勇魚,浅井忠など門弟は90名を超えた。確実な遺作は少なく「西洋婦人像」(東京芸大蔵)など,英国のアカデミックな画風を示す作品がある。

(三輪英夫)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国沢新九郎
くにさわしんくろう
(1847―1877)

明治初期の洋画家。高知県生まれ。旧藩時代から軍務に服したが、1870年(明治3)土佐藩侯の命でイギリスに渡り、ロンドンで西洋画を学んで『西洋婦人』などを描く。74年帰国して東京・麹町(こうじまち)に画塾彰技堂を開き、当時西洋で油絵を勉強してきた唯一の人として多くの門人を教えた。弟子に本多錦吉郎(きんきちろう)、浅井忠(ちゅう)などがある。またわが国で最初の洋画展覧会を新橋で開き、毎月弟子の作品展を催すなど、明治初期洋画の発展に尽くした。明治10年3月12日、わずか29歳で没したため作品は少ないが、彰技堂は本多錦吉郎が継承した。[小倉忠夫]

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世界大百科事典内の国沢新九郎の言及

【画学校】より

…このほか,横山松三郎が同年上野不忍池畔に,五姓田(ごせだ)芳柳は遅くとも73年に横浜ついで浅草に,その子義松は74年向島白鬚社に私塾を構えた。一方,最初の渡欧画家国沢新九郎(1847‐77)は74年に帰国後,麴町隼町の自宅に画塾彰技堂(77年国沢没後本多錦吉郎が継承)を設け,浅井忠,藤雅三ら90余名を指導した。これら明治初年の画塾は,新政府の欧化政策を反映して洋画塾が大半であったことに特色があり,その目的も洋画普及にあった。…

※「国沢新九郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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